説教題:栄光の希望を抱き続ける 聖書箇所:マルコによる福音書13章1-13節
◆神殿の崩壊を予告する 13:1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 13:2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」 ◆終末の徴 13:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。 13:4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」 13:5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 13:7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。 13:9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。 13:10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。 13:11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。 13:12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。 13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」
ハレルヤ!8月の第ニ主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、その38回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。12章28-37節を通して、「律法学者とやもめーイエスは心を見られる」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①真の信仰が問われている ②主は心を見られる ③神にすべてを委ねる でした。今日は続く13章1-13節を通して「栄光の希望を抱き続ける」と題しお話しします。今日から13章を学んでいきます。マルコによる福音書13章は、「小黙示録」や「オリーブ山の講話」と呼ばれる重要な箇所で、イエスがエルサレム神殿の崩壊と終末について預言された内容です。今日の箇所で、イエスは弟子たちに神殿の破壊と終末のしるし、そして迫害の中での宣教について語られました。当時のユダヤ人にとって神殿は神の臨在の象徴でしたが、この預言は西暦70年に実現しました。しかし、これは単なる未来の予告ではありません。大切なのは、建物のような物質的なものに頼るのではなく、神と直接つながる生きた信仰を持つことです。目に見えるものではなく、心の中にある本物の信仰こそが永続するものなのです。
①永遠の価値に心を留める
では、1節から順番に見てまいりましょう。13:1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスが神殿を出ようとされた時、一人の弟子が「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」と感嘆の声を上げました。ヘロデ大王が改築したエルサレム神殿は、25メートルもの巨大な石を使った立派な建物で、誰が見ても圧倒されるほど荘厳でした。人々はその見た目の美しさや人間の技術に感嘆し、「神の栄光を表している」と思ったでしょう。しかし、弟子たちが建物の外見に感動している一方で、イエスはもっと深い霊的な現実を見ていました。この対比は、後に語られるイエスの預言と強く結びついており、「本当に大切なものは何か?」という問いを投げかけています。2節です。13:2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」。弟子たちが神殿の美しさに驚いていた時、イエスは「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」という衝撃的な預言をしました。この言葉は西暦70年にローマ軍が神殿を完全に破壊したことで現実となりました。しかし、これは単に建物が壊されることを予告しただけではありませんでした。古い宗教の仕組みが終わることを告げ、イエス自身が神と人とを結ぶ新しい神殿となることを示していたのです。そして、形あるものや物ではなく、神との生きたつながりこそが本当の信仰であることを教える大切なメッセージだったのです。使徒パウロはコリントの信徒への手紙二で次のように言っています。 4:18 わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 私たちはどうでしょう? お金や地位など、目に見えるものばかりに頼っていないでしょうか。でも、そうしたものはいつか消えてしまいます。本当に信じるべきは、変わらない神の愛と約束です。目には見えなくても、これこそが揺るがない土台。永遠に続く本当の宝に、心を向けていきましょう。今日、まず覚えて頂きたいことは永遠の価値に心を留めるということです。
②偽預言者に惑わされない
3,4節を見てみましょう。3:3 イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。 13:4 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」イエスがオリーブ山で終末について話されたのには深い意味があります。オリーブ山は終末預言における象徴的な場所でした。ゼカリヤ書14章4節を見てみましょう。 14:4 その日、主は御足をもって/エルサレムの東にある/オリーブ山の上に立たれる。オリーブ山は東と西に半分に裂け/非常に大きな谷ができる。山の半分は北に退き、半分は南に退く。オリーブ山は神殿を見下ろす場所であり、「神の裁きが始まる場所」と預言されていました。四人の弟子たちが「ひそかに」と質問した様子には、終末への関心だけでなく、「自分たちだけが特別な知識を得たい」という思いも見て取れます。彼らが「いつ終末が来るのか」「どんな前兆があるのか」と尋ねた背景には、当時のユダヤ人が「メシアがローマ帝国を倒してくれる」と期待していたことが反映されていました。しかしイエスは、弟子たちが想像していたような単純な終末の予告をされず、もっと深遠な神のご計画について教えられました。そして「時期」よりも「心の備え」の重要性を説かれたのです。これは、人間の時間観念を超越した神のご計画を理解するためには、私たちの認識そのものを変える必要があるという、きわめて重要な教えでした。5,6節を見てみましょう。13:5 イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 13:6 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。イエスはまず「人に騙されないように気をつけなさい」と警告されました。終わりの時代に最も注意すべきは、外からの迫害より、内側からの間違った教えなのです。「騙される」とは、単なるミスではなく、信仰そのものが間違った方向へ進んでしまう危険な状態を指します。終末が話題になると、人は不安から偽りの指導者に頼りがちになります。特に「私が救い主だ」と名乗る偽メシアが多く現れる、と預言されました。1世紀から今日に至るまで歴史上、このような偽りの救世主は絶えませんでした。大切なのは、見かけや話術に惑わされず、聖書の真理と聖霊の導きで正しく判断すること。本当の信仰は、肩書や権力ではなく、聖霊と一致する心の確かさによって支えられるのです。7,8節を見てみましょう。13:7 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 13:8 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。イエスは「戦争の話や騒ぎを聞いても、慌てはいけない」と教えました。当時のユダヤ人は戦争をメシア到来のサインと思っていましたが、イエスはこれらが終わりの時のはっきりした証拠ではないと説明しました。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」という預言は、あらゆる苦難を含んでいます。ここで使われた「産みの苦しみ」のたとえは、苦しみの先に神の国の完成という喜びが待っていることを示しています。出産の痛みが新しい命を生むように、終末の困難は最終的な救いへつながる過程なのです。この教えは、困難な時でも希望を失わず、神の計画を信じて進む力を与えてくれます。イエスが「まだ世の終わりではない」と言ったのは、あらゆる危機をすぐ終末と結びつける傾向への警告でした。特定の日付を予測したり、過激な終末論に飛びついたりしないよう注意が必要です。1992年10月28日、韓国のキリスト教界のみならず韓国社会全体を巻き込む大きな騒動が起こりました。これは、自称預言者の李長福(イ・チャンボク)による「その日にキリストが空中再臨し、真の信者が天に引き上げられる(携挙)」という預言に基づくものでした。李はかつて正統派の教会に属していましたが、独自に啓示を受けたと主張し、「1992年10月28日携挙説」を全国に広めました。李は新聞やテレビ、ポスターなどを使って積極的に終末の到来を宣伝し、「この世の終わりに備えよ」と呼びかけました。その影響で、多くの信者が職を辞め、学校を退学し、財産を処分して共同生活を始めました。白い服を着て祈りに専念する者や、社会との関係を絶って準備に集中する者も現れ、社会問題にまで発展しました。しかし10月28日が来ても何も起こらず、予言は外れてしまいます。信者たちは深い失望に陥り、中には精神的ショックで自殺する人も現れました。この騒動は「終末パニック」として連日報道され、韓国の主要教会はこの運動を異端として正式に否定しました。この事件は、特定の日付を決めた終末予言の危険性を如実に示す事例となったのです。聖書は再臨ついて教えています。マタイによる福音書24章36節を開いてみましょう。 24:36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。聖書は、再臨の日時について「その日、その時は誰も知らない」と明確に教えているのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは偽預言者に惑わされないということです。
③栄光の希望を抱き続ける
9節を見てみましょう。13:9 あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。イエスは「自分のことに気をつけていなさい」と言って、外の出来事ばかりに気を取られて、自分の信仰を見失わないよう警告しました。迫害は三つの段階で起こると予告されています。まず地方の裁判所での裁判、次に会堂での処罰と共同体からの追放、そして最後に総督や王の前での証言です。この予言は、使徒言行録に書かれた初代教会の出来事とよく一致しています。ペトロとヨハネが議会で裁かれ、ステファノが殉教し、パウロが各地で迫害を受けたことがその例です。大切なのは、迫害が「証し」の機会になることです。「わたしのために」という言葉は、迫害の理由が純粋にキリストを信じているからだということを表しています。迫害は避けられませんが、同時に福音を伝える大切な機会でもあります。今日でも世界中でキリスト教徒は迫害を受けていますが、この預言は迫害を恐れるのではなく、証しの機会として受け取るよう励ましています。10節を見てみましょう。13:10 しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。この節は、迫害が福音を広める力になることを教えており、「まず福音があらゆる民に宣べ伝えられる」という条件が終末前に必ず実現すると約束しています。「あらゆる民」という言葉は、ユダヤ人だけでなく異邦人にも救いが広がることを表しています。この命令は初代教会の大きな原動力となりました。迫害の中でも使徒たちはエルサレムから世界の果てまで福音を伝えました。パウロの宣教旅行がその良い例です。現代の教会にとって大切なのは、世界宣教が神様の計画に欠かせない要因だということです。同時に、福音がすべての民族に届くまで神様が歴史を導いてくださるという希望も与えてくれています。つまり、神様は世界宣教の完成を必ず実現されるということです。11節を見てみましょう。13:11 引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。迫害を受ける時、神が助けてくださることが約束されています。「取り越し苦労をしてはならない」とは、心配しすぎないという意味で、人間が準備するよりも聖霊の導きを信頼することを教えています。この約束は、人間の限界と神の無限の力の違いを示しています。普通、法廷や権力者の前で話すには、しっかりとした準備と話す技術が必要です。しかしイエスは弟子たちに、人間の知恵や話術に頼らず、聖霊の導きに委ねるよう教えました。「話すのはあなたがたではなく、聖霊である」という約束は、信仰者が証しをする時、神が主導権を握っていることを表しています。これは人間に責任がないということではなく、神と人間が一緒に働く中での人間の役割をはっきりさせています。聖霊は人間を通して働き、人間は聖霊の道具として使われるのです。この約束は初代教会で実際に体験されました。ステファノの説教やパウロの弁明は、聖霊に導かれた力強い証しでした。この教えは、信仰のために困難な立場に置かれた時、人間の能力や準備ではなく、聖霊の助けを信頼できることを教えています。12節を見てみましょう。13:12 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。イエスは「信仰によって家族の絆が壊れることがある」と警告されました。キリストを信じることで、最も身近な肉親からさえ見放されるという厳しい現実があるのです。初代教会の時代、ユダヤ人がキリストを信じると、家族や地域社会から完全に排除され、孤立無縁の状態に追い込まれることがありました。これはイエスが「平和ではなく対立をもたらす」と言われた通りの現実でした。開きませんが、マタイによる福音書10章34節に記されています。現代でも、イスラム教やヒンドゥー教を背景に持つ人々がキリストを信じると、家族から絶縁されたり、社会的に追放されたりするケースが少なくありません。しかし、希望があります。 マルコによる福音書10章29,30章を開いてみましょう。10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。現世では迫害を受けながらも信仰共同体を通して百倍の祝福を受け、来世では永遠の命を得るという二重の報いが受けることが出来るのです。13節を見てみましょう。13:13 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」13節は、この箇所全体のまとめとして重要です。「わたしの名のために」という表現は、迫害の理由が純粋に信仰のためであることを強調しています。「すべての人に憎まれる」というのは、文字通り全員から嫌われるというより、社会全体からの敵意を表しています。信仰者は世の中の価値観と対立する生き方を選ぶことで、必然的に反発を受けることになります。しかし、イエスは希望に満ちた約束を与えてくださいます。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」という言葉は、信仰を守り続ける人への神の報いを約束しています。「耐え忍ぶ」というのは単なる我慢ではなく、積極的に信仰を守り続けることを意味します。信仰のゆえの苦難は避けられませんが、最後まで信仰を堅持する者には永遠の救いが約束されています。確かに信仰生活には苦しみがつきものですが、それは一時的なものです。その先には神が約束してくださった素晴らしい未来が待っています。だからこそ、どんな時でも希望を持って歩み続けることができるのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは栄光の希望を抱き続けるということです。
Today’s Takeaways ①永遠の価値に心を留める ②偽預言者に惑わされない ③栄光の希望を抱き続ける