説教題:裂かれた幕-遠くから見守る者たち 聖書箇所:マルコによる福音書15章33-41節
◆イエスの死 15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 15:35 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。 15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 15:40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。 15:41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。
ハレルヤ!11月の第四主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、その48回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。15章16-32節を通して、「逆説の王-降りなかった愛」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①主の受難を心に刻む ②苦しみに耐え抜かれた主に従う ③愛ゆえに十字架から降りなかったでした。
今日の聖書箇所のマルコによる福音書15章33〜47節には、イエス・キリストが十字架で死に、墓に葬られる場面が書かれていて、受難の記事の中でも最も重要な箇所です。この出来事はただ悲しい話ではなく、神さまの救いの計画が実現した一番大切な時です。イエスは力強い王ではなく、苦しみを受けた「神の子」として亡くなりました。今日は「裂かれた幕―遠くから見守る者たち」と題しお話をします。この出来事から、私たちへのメッセージを一緒に考えていきましょう。
①暗闇にも主が共におられる
33節から順番に見てまいりましょう。15:33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。イエスが十字架につけられた日の正午から午後3時まで、世界は真っ暗になりました。昼に暗くなるとは、どういうことでしょうか。実は、この出来事は旧約聖書の預言者アモスが語った預言の成就です。それは、「主の日」と呼ばれる神さまの裁きの日を表しています。アモス書8章9節を開いてみましょう。8:9 その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする。この暗闇には三つの意味があります。まず、神さまの裁きが、罪のないイエスに下ったことです。次に、人間の霊的な闇、つまり神と切り離された心の暗闇です。そして、神さまがそのとき、御顔を隠されたことも意味します。イエスが十字架で苦しむとき、世界は闇に包まれました。でもイエスは、その闇を背負って死ぬことで、私たちを絶望の闇から救い出す道を開きました。十字架は、神さまの裁きと救いが一緒に起こった出来事なのです。34節を見てみましょう。15:34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。イエスは十字架上で最後に7つの言葉を語りましたが、それぞれに深い意味が込められており、福音書に記録されています。聖書箇所は次の通りですので、後ほど読まれてください。ルカによる福音書 23:34、ルカによる福音書 23:43、ヨハネによる福音書 19:26-27、マタイによる福音書 27:46、マルコによる福音書 15:34、ヨハネによる福音書 19:28、ヨハネによる福音書 、19:30ルカによる福音書 23:46。
イエスは十字架の上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と大声で叫ばれました。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味のアラム語です。マルコとマタイの福音書にのみ記録されている十字架上でのお言葉です。この言葉は詩篇22編2節の引用で、22編の初めは苦しみと悲しみが表されていますが、後半では神への信頼と救いへの希望で終わります。是非、詩編22編を読まれてください。この叫びはイエスが肉体の苦しみだけでなく、神から離れる霊的な苦しみを経験されたことを示しています。パウロはコリントの信徒への手紙二 5章21節で5:21罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのですと述べています。 これは神とイエスの関係が壊れたのではなく、神の深い愛の現れです。イエスは神から離れる苦しみを負うことで、罪によって神から離れている私たちの苦しみを引き受けてくださいました。イエスがこの断絶を経験されたことで、神が私たちを決して見捨てていないことがわかります。
冬のある夜、突然停電が起こり、家の中は全くの暗闇になりました。すると廊下のほうから幼い息子の泣き声が響きました。「ママ、どこ? こわいよ!」息子は母親を探しながら泣き続けましたが、そばに立っていた母親の姿は暗闇で見えません。恐怖のあまり「ママがいなくなった!」と叫びました。しかし母親は、すぐ後ろから静かに声をかけました。「ここにいるよ。あなたには見えなくても、ずっとそばにいるよ。」その声を聞いた息子は、ようやく母の胸に飛び込み、安心しました。人間の母親でさえこのように子を思うのです。まして主イエスなら、なおさら深い愛をもって私たちを守ってくださいます。どんな暗闇でも、イエスは私たちと共におられる。今日、まず覚えて頂きたいことは暗闇にも主が共におられるということです。
②神との隔たりが取り除かれた
35,36節を見てみましょう。15:36 ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。 15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。イエスが十字架で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたとき、そばにいた人たちは「エリヤを呼んでいる」と思い間違えました。これは当時、預言者エリヤが困難な時に助けに来る者、またメシアの前触れとして期待されていたからです開きませんが、マラキ書3章23,24節に記されています。彼らはイエスに「酸いぶどう酒」を差し出しました。これはローマの兵士が飲んでいた安い酒で、体の痛みや疲れを少しやわらげるためのものでした。この行為は憐れみか嘲笑かはっきりしませんが、詩篇69篇22節の預言の成就でもあります。開いてみましょう。69:22人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします。とあります。人々はイエスが力ある救い主でなく、苦しみ無力な姿を理解できず、その苦しみをただの見世物として見ていました。しかし、その中でも神の救いの計画は確かに進んでいたのです。37,38節を見てみましょう。15:37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 15:38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスは十字架の上で「大声を出して」息を引き取りました。普通、十字架刑では被刑者はだんだん弱っていきますが、イエスは最後まで力強く叫びました。これは、イエスの死がただの敗北ではなく、自分の意思でされたことを示しています。
1989年11月9日の夜、ベルリンの壁が崩れ、28年ぶりに離れていたヴァーグナー兄弟が抱き合いました。兄は「もう何も私たちを引き離すものはない」と言い、弟は「これからは毎日でも会える」と喜びました。東ベルリンの牧師は翌日の礼拝で「ベルリンの壁が崩れたけれど、それ以上に昔からもっと厚い壁が崩れた」と語りました。マルコの福音書15章38節に「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と書かれています。これはイエスが十字架で息を引き取られた瞬間に起こったことで、神殿内の至聖所と聖所という場所を分けていた厚い幕が裂けたことを示しています。この幕は、人間の罪が神と人の間に立てた大きな壁の象徴でした。大祭司だけが年に一度、至聖所に入ることが許されていたのは、人間が神に近づくことがいかに難しかったかを表しています。ヘブライ人への手紙 9章7節には次のように記されています。ヘブル9:7 しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。
イエスの死の瞬間に、この垂れ幕が神の力で裂けました。ベルリンの壁が28年間家族を引き離したように、この垂れ幕は何千年もの間、人間と神を分けていましたが、イエスの十字架の死でその永遠の壁は壊れたのです。ヴァーグナー兄弟が喜んだように、今やイエスを信じる人は「神に自由に近づける」時代に生きています。かつては不可能だった罪ある人間が聖なる神と直接交わることが、十字架で可能となりました。 この垂れ幕が裂けた出来事は、イエスの死が単なる悲劇ではなく、古い時代の終わりと新しい時代の始まりであることを示しています。特別な仲介者や儀式なしに、誰でもイエスを通して神に近づけるようになりました。旧約の犠牲の制度は終わり、新しい契約が始まったのです。また、この出来事で福音はユダヤ人だけでなく、全ての人に開かれました。神の臨在は石の神殿から信じる者の心に移りました。ベルリンの壁は一夜で壊れましたが、神殿の垂れ幕が裂けたことは永遠に意味のある出来事です。私たちを神から遠ざけていた罪の壁は、イエスの犠牲で消えました。これにより、私たちは恐れや距離を感じずに、いつでも神のもとに自由に近づけるようになったのです。これが十字架による本当の自由です。今日、二番目に覚えて頂きたいことは神との隔たりが取り除かれたということです。
③見守ることで主に従うこともある
39節を見てみましょう。15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言ったのは、イエスの死に方を見て強い衝撃を受けたからです。イエスは多くの人に恨まれたり見捨てられたりしながらも、最後まで人を責めず、大きな声で叫んで亡くなりました。その時、昼間なのに急に暗くなる不思議な出来事も起きました。 百人隊長は多くの処刑を見てきましたが、イエスの死には神の力と愛を感じ、他のどの人とも違う特別な人だと思いました。普通なら強くて成功した人が「神の子」と言われますが、イエスは苦しみの中でこそ神の子の姿を見せました。 また、イエスの弟子たちやユダヤ人たちが信じきれずに離れていったのに対し、異邦人のローマ軍人である百人隊長がイエスを神の子として認めました。これは救いが民族や身分に関係なく、誰にでも開かれていることを教えています。 イエスの死は悲しいだけでなく、神の栄光が暗い中に現れた出来事だったのです。百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言った理由は、イエスの死に方に強い衝撃を受け、本当に特別な人だと実感したからです。イエスは多くの人々から恨まれたり見捨てられたりしながらも、最後まで人々を責めず、力強い叫びを上げて亡くなりました。その場には昼間なのに突然暗くなるという不思議な現象も起きました。40,41節を見てみましょう。15:40 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。 15:41 この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。イエスが十字架で亡くなったとき、遠くから見守っていた女性たちがいました。マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメです。多くの男性の弟子が逃げたのに対し、彼女たちは最後までイエスを支え続けました。 マグダラのマリアは悪霊を追い出されてからイエスに深く従い、復活のイエスに最初に出会った証人です。小ヤコブとヨセの母マリアは初期の教会に関わった重要な女性で、サロメは使徒ヨハネとヤコブの母と考えられています。 彼女たちはイエスの側近であり、献身的に仕え、自分の財産でイエスの伝道を助けました。男性弟子は理屈でイエスの教えを理解しようとしましたが、女性たちは生活の中で体験的にイエスを支えました。 このことが、彼女たちがイエスの死と埋葬の出来事を正確に見届け、復活の証言者となる理由です。昔は女性の証言は法的に受け入れられにくかったのに、福音書は彼女たちを重要な証人として描いています。 マルコの福音書は、十字架の信仰が理解を超えた神の働きを「見つめる」ことから始まると教えています。信仰は声高な行動だけでなく、何もできない時にも主を「遠くから見守る」ことで従うことも含みます。 彼女たちは語らず、奇跡を行わず、ただイエスのそばにいることを選びました。その静かな従順が信仰の本当の姿です。神は力や地位ではなく、忠実な心を持つ人を用います。 イエスの死の意味をすぐに理解できなくても、その出来事を見続ける者にやがて復活の光が示されます。現代の信仰者も、苦しい時に主を見上げる静かな信仰を持つことが励まされます。 百人隊長の告白と女性たちの忠実さは、十字架にどう向き合うかの模範です。私たちもそれぞれの場所で、たとえ遠くからでも、イエスを見守る忠実さを持つことが大切です。今日、最後に覚えて頂きたいことは見守ることで主に従うこともあるということです。
Today’s Takeaways
①暗闇にも主が共におられる ②神との隔たりが取り除かれた ③見守ることで主に従うこともある