説教要旨
11月も今日で終わりを迎えます。クリスマスへ向けて私たちは忙しくなります。忙しさの中で、私たちは待降節を迎えます。ルカによる福音書を通して、私たちがキリストの誕生をどのように待ち望むのか、みことばに耳を傾けたいと思います。
私たちがクリスマスを待ち望む時、まず喜びや楽しみが頭に浮かぶのではないでしょうか。しかし、今抱えている問題から解放されたいと思っている人がいるかもしれません。家族、職場、学 校、そして将来のこと。この時期だからこそ何かが心に暗い影を落としているかもしれません。ザカリアとエリサベトは祭司という神さまに仕える働きをする者でした。しかし、神の前に正しい彼らの信仰生活にも、暗い陰の部分がありました。それは、2人の間に子どもがいなかったということです。当時、人々は子どもがいないということと、神さまからの祝福がないということを結び合わせてしまっていました。ザカリアとエリサベトが救い主という大きなことを待ち望みながらも、子どもが与えられていないことが彼らの心に陰を生んでいました。クリスマスの喜びを私たちが祝おうとする時に、心のどこかに陰があるというのは、ザカリアとエリサベトが抱えていた問題に見ることができます。私たちにも、もう当然諦めるしかないという問題が心のしこりとなっているかもしれません。
そのような、心のどこかに陰を持った救いを待ち望む正しい者に、神さまは人の思いや考えを超えて働かれます。神さまは、救い主の訪れを備える者を、ザカリアとエリサベトの間に与えました。それは、救い主の誕生というイスラエル全体の祈りが聞かれたことであり、また、ザカリアとエリサベトの心の奥底にしまい込んでいた、諦めていた子どもを与えてくださいという祈りも同時に聞かれたことでもありました。
ザカリアにとって、この知らせはあまりにも信じられないことでした。ザカリアは祭司でした。神殿に入り香をたくという祭司の務めはくじによって決められました。そのくじにザカリアが当たったのです。それは約2万人の祭司の中から当たるものであり、一生に一度あるかないかという機会でした。その重大な務めの中でさらに信じられないことが起こりました。主の使いが彼の目の前に 現れたのです。主の使いを見たザカリアはうろたえ、恐怖に襲われました。そして、主の使いに よって知らされた言葉はその日一番の驚きでした。年老いた自分たちに子どもが与えられ、しかもその子は救い主の道ぞなえをする人となると告げられたからです。ザカリアが、主の使いにしるしを求めたことは当然のことでした。
ザカリアは、しるしを求めたことで口がきけなくなりました。しかし、この話すことができない「沈 黙」こそ彼に与えられたしるしでした。ザカリアが口を閉ざされたということは、ザカリアが神さまの言葉の前で立ち止まり、これは一体どういうことか考える機会を与えたのです。もし、ザカリアが話すことができたら、彼は途端に周りの人に相談したかもしれません。しかし、ザカリアに必要だったのは、ただ、神さまから語られた言葉に集中することでした。ザカリアは少なくとも丸々9ヶ月の間、話すことができなくなりました。その間、彼は主の使いが自分に知らせたみことばを何回も繰り返したことでしょう。神さまの前にただ身を置く時、自分の口から出る言葉も、周りの人の口から出る言葉も絶たれます。ただ主の言葉だけが私たちのうちで反芻されます。ザカリアは主の前に正しい者でありました。けれども、この時ほど「主の前に」という言葉が相応しいことはなかったでしょう。
今日の説教題は「クリスマスを待ち望む」です。私たちが沈黙の中で神さまの前に座って救い主の誕生を待ち望むのです。その誕生を前にしてヨハネが与えられました。ヨハネは「主は恵み深い」という意味です。クリスマスへの道ぞなえは、私たちの心に「主は恵み深い」という言葉が深く語られることです。沈黙の中でザカリアとエリサベトは、主の使いから語られた神さまの言葉を噛み締めながら、自らの心を覆う暗い陰が取り去られて、心が晴れていくことを感じたでしょう。なんと主は恵み深いのだろうか。彼らは主の恵み深さを味わい知ったのです。主の前に正しく歩む者を、主は決して忘れておられません。主の祝福は、主の前に正しい者に必ず注がれるのです。主は私たちをも忘れておられません。主は私たちにもヨハネすなわち「主の恵み深さ」を与えてくださり、真の救い主の訪れに備えさせてくださいます。私たちは、クリスマスを前に、主の御前で、主の恵み深さを何度も何度でも深く味わい救い主の誕生を待ち望みたいと思うのです。