説教題:恐れずに前へ進もう!聖書箇所:マルコによる福音書16章1-8節
◆復活する16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
ハレルヤ!12月の第ニ主日を迎えています。アドベントの時期ではありますが、引き続き、マルコによる福音書を講解で学び、今日はその49回目です。来週は、ウェルカム礼拝でクリスマスのお話を致します。では、いつものように、前回のおさらいから始めましょう。15章42-47節を通して、「最も暗い時に示された信仰」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①恐れずに一歩を踏み出す②隠れた献身を惜しまない③絶望の中でも待ち望む暗 でした。
今日から16章を学びます。今日の聖書箇所には、人類史上最大の出来事とも言える、イエス・キリストの復活が記されています。女性たちが墓を訪れたあの朝、彼女たちが目にしたのは、死という絶対的な壁を打ち破った神の力でした。十字架の死という絶望のどん底。しかし神は、そこから新しい命の夜明けをもたらされました。今朝、私たちもこの女性たちと共に、空の墓の前に立ちます。16章1-8節から「恐れずに前へ進もう!」と題してお話をします。ご一緒に学んでまいりましょう。
①石(問題)は神が先に取り除いてくださる
1節から順番に見てまいりましょう。16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。今日の箇所は、イエスの死によってすべてが終わったかのように見えた、悲しみの時から物語は始まります。 「安息日が終わると」とあります。金曜日の日没から土曜日の日没まで、ユダヤの律法によって働くことは禁じられていました。日が沈み、ようやく三人の女性たちは動き出します。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメ。彼女たちは十字架のそばに立ち、埋葬の場所を見届けた人々でした。安息日が明けると、彼女たちは待ちきれない思いで香料を買いました。急いで行われた埋葬を、愛する主のために整え直したいと思っていたのです。その純粋な愛が彼女たちを動かしたのです。男性の弟子たちが恐れ逃げた中でも、彼女たちは最後まで忠実でした。真の信仰とは、困難の中でも主を愛し続ける心にあるのです。彼女たちは死んだ主に仕えようとしていましたが、すでにイエスは復活されていたのです。彼女たちの愛は真実でしたが、まだ復活の約束を理解していなかったのです。 私たちも時に、過去の理解にとらわれ、神がなしておられる新しいことに気づけないことがあります。しかし、神は、私たちの想像を超えて、常に新しいことを始めておられるお方です。2節を見てみましょう。「週の初めの日」とは、ユダヤ暦で日曜日、すなわち新しい週の始まりの日です。この日はやがて「主の日」と呼ばれ、キリストの復活を記念して礼拝をささげる日となりました。主の復活こそ、すべての信仰生活の出発点です。彼女たちは夜明けを待ちきれず、朝の光が差し始めるころ墓へと急ぎました。暗闇の中を歩くのは危険でしたが、それでも主を愛する思いが彼女たちを動かしました。その姿には、悲しみの中でも主を慕う愛と忠実さがにじみ出ています。「日が出る」ときとは、闇が光に道を譲るように、絶望の夜が終わり、希望の光が射し込みます。主の復活は、死と闇を越えて神が新しい命を始められた出来事でした。墓という死の場所が、命の知らせの出発点に変えられたのです。私たちも暗闇に思える時がありますが、主はその場所にこそ新しい光を備えておられます。信仰をもって歩むとき、神は絶望の中から希望を生み出してくださいます。だから今週も、復活の光の中で新しい一日を歩みましょう。主の力は、私たちの最も弱いところに現れるものなのです。3,4節を見てみましょう。16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。彼女たちは墓に向かいながら、「だれが石を転がしてくれるのか」と語り合っていました。その言葉には現実的な思いと、愛する主に仕えたいという深い愛が込められています。墓の入口には、成人の男性でも一人では動かすのが難しい大きな石が置かれていました。彼女たちはイエスの復活をまだ知らず、亡き主に香料を塗るという務めを果たそうとしていたのです。しかし神は、すでにその「石」を動かしておられました。主の復活という大いなる業が、彼女たちが行動を起こす前から始まっていたのです。4節には、その瞬間が描かれています。「目を上げて見ると」、心配していた大きな石はすでに転がしてありました。神の力が、人間の努力を超えて働いていたのです。マルコは「石は非常に大きかった」と記しています。人間の力では到底動かせない障害が、神によって取り除かれていたのです。石が動かされたのは、彼女たちが中を見て、主の復活を確かめるためでした。神は人が信じるために、御業をなされたのです。
2016年(平成28年)4月14日、震度7を観測する熊本地震がおこりました。死者数(関連死含む)は 274 人、 負傷者数(けが人)は2,753 人、 住家・建物被害総数は198,238 棟でした。私の熊本県阿蘇市にある母教会も甚大な被害を受けました。送られてきたメールの写真を見て、私は、不信仰にも「遠くにいる私になにができるのか、再建は無理かもしれない」と思ました。正に「石」の前に立っているようでした。しかし、直後に九州キリスト災害支援センター(略称:九キ災)が設立され、復興工事が始まりました。また、全国の教会から献金とボランティアが寄せられ、行政の補助も予想以上に整えられ、誰も想像していなかったスピードで再建が進みました。感謝なことに損害保険も適用になったのです。「私に何ができるだろうかと下を向いていた私が顔を上げたら、石はもう動いていました。神さまが先に働いてくださっていたのです。」。皆さんの人生にも、動かせそうにない大きな「石」があります。病、人間関係のもつれ、経済的不安や挫折等々。しかし神は、見えないところで働き、私たちの前に道を備えておられます。信仰とは、自分の限界にではなく、すでに動かされた石、つまり、神の御業に目を向けることです。主は今も生きておられ、あなたの前を進み、新しい命への道を開いてくださいます。今日、まず覚えて頂きたいことは石(問題)は神が先に取り除いてくださるということです。
②生きておられる主に目を向ける
5節を並行箇所のマタイによる福音書28章2節と一緒に見てみましょう。16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。マタイ28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。女性たちが墓の中に入った時、そこで彼女たちを待っていたのは、予想もしなかった光景でした。埋葬を整えるために来たはずの墓の中に、「白い長い衣を着た若者」が右の方に座っていたのです。マルコはこの人物を「若者」と表現していますが、マタイによる福音書では、「主の天使」とあり、神の使者であることがわかります。その姿は「白い長い衣」をまとっていました。白は天の栄光、清さ、そして命の象徴です。闇と死の場所である墓の中に、白い光の存在が現れていて、ここに、死に対する神の勝利が象徴されています。また「右手に座っている」という描写も意味深いものです。聖書で右側は、名誉と権威の象徴。彼は単なる見張りではなく、神の権威を帯びて復活を告げる者として、正式に遣わされた存在でした。女性たちは「ひどく驚いた」とマルコは記しています。これは単なる恐怖ではありません。人間の理解を超えた神の臨在に触れた時に生じる、震えるような畏敬の驚きだったことでしょう。彼女たちは「死体」を整えるために来ましたが、そこで出会ったのは、「命の輝き」を映す存在でした。死と向き合うつもりが、命と向き合うことになったのです。マルコによる福音書の特徴は、神の奇跡が人間に「驚き」と「畏れ」をもたらす形で表れるという点にあります。これまでイエスが風を静め、病を癒し、人の罪を赦した時も、人々は驚きと恐れに満たされました。この場面は、その驚きがついに頂点に達する瞬間です。それは、ここで神は死そのものを打ち破られたからです。この出来事は、信仰の出発点を私たちに教えています。真の信仰は、すべてを理解することからではなく、神の偉大な力に圧倒され、畏れと感謝の念をもってひれ伏すところから始まるのです。神は、私たちの思いをはるかに超えて働かれるお方です。死と思われる場所にも、天の光を差し込ませ、絶望の場を新しい命の始まりに変えてくださるのです。6節を見てみましょう。16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。6節は、恐れに震える彼女たちに、若者(天使)が語られた言葉です。この言葉こそ、キリスト教信仰の中心です。天使のメッセージは「否定」と「肯定」で構成されています。否定は、「ここにはおられない」です。つまり墓は空であり、死は終わりではないということ。肯定は、「あの方は復活なさった」です、神がイエスを死から起こされたという新しい命の始まりです。「十字架につけられたナザレのイエス」という表現には、私たちと同じ人としての苦しみを担われたイエスの現実が示されています。神の子であっても痛みを避けることはされませんでしたが、その死は敗北ではなく、神の救いの計画の一部でありました。神は死を終わりとせず、そこから命を生み出されたのです。「御覧なさい。お納めした場所である。」とあります。この言葉は、女性たちに実際に確かめさせる招きです。信仰は空想ではなく、見える証拠に支えられたものです。彼女たちはこの目で見ました。墓は確かに空であり、そこに主のお体はありませんでした。福音書で「復活なさって」と訳されている言葉は、「神がイエスを起こされた」という受け身の表現です。復活は、イエス自身の力によるものではなく、父なる神の力と愛によってなされた出来事でした。「ここにはおられない」という宣言には、私たちに向けた慰めと希望が込められています。私たちは過去の悲しみや失敗の場所にとどまる必要はありません。主はそこにはおられず、いま生きておられ、現在を導き未来を切り開かれるお方です。空の墓は、死を越える神の力と、新しい始まりのしるしです。イエスが生きておられるから、私たちの信仰もまた生きています。過去に縛られず、復活の主と共に歩むとき、そこにこそ真の希望と平安の人生があるのです。恐れる必用はありません。主は生きておられる。そして、あなたを新しい歩みへ導いておられるのです。主は今も生きておられるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは生きておられる主に目を向けるということです。
③恐れず、前に進む
7節を見てみましょう。16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」女性たちは思いがけない声を聞きました。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」天使のこれらの言葉は、復活の知らせを伝えるだけでなく、彼女たちに新しい使命を与え、最初の証人として立ち上がるよう招くものでした。「弟子たちとペトロ」という言葉は特に重要です。ペトロはイエスが逮捕された夜に三度もイエスを知らないと否認した人物で、深い後悔と絶望の中にいましたが、神はそんな彼を忘れず、最初に名を挙げ赦しと回復を約束されました。これは、誰もが失敗しても神の恵みから排除されず、回復に導かれるという希望のメッセージです。
長年、大阪のある教会で役員として奉仕していた50代のNさんは、5年間にわたり勤務先の会社のお金を1000万円近く横領していました。会社の監査で発覚し、逮捕されました。執行猶予付きの判決を受けましたが、「私のような者が教会に行く資格はない」と、牧師の訪問も拒み続けました。それでも牧師は諦めず、ある日曜日の早朝、彼の家の玄関先に手紙を置いて帰りました。「教会の兄弟姉妹一同より」と書かれた封筒の中には、マルコ16章7節が記され、「弟子たちとペトロに」の部分に赤線が引かれていました。「Nさん、ペトロは主を三度否定した後、自分はもう弟子ではないと思っていました。しかしイエス様は、彼を名指しで呼んでくださいました。あなたは自分で自分を除外しているかもしれません。しかし、イエス様はあなたを除外していません。そして私たちも除外していません。いつでも帰ってきてください。あなたの席は、ここにあります。」そして、手紙には教会員30名の署名がありました。Nさんは震える手で紙を握りしめ、声を上げて泣きました。数週間後、彼は礼拝に戻ってきました。牧師は彼の肩に手を置いて言いました:「よく来てくれました。主はあなたを待っておられました。」その後、Nさんは教会の片隅で静かに仕える中で、誰よりも恵みの深さを知る人となりました。彼は失敗した人に、こう言います:「あなたは自分で自分を除外しているかもしれない。でも主は、あなたを名指しで呼んでおられるのです。その声を聞いてください。」と。8節を見てみましょう。16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。8節には、女性たちが墓から逃げ出し、震えながら正気を失い何も言えなかったと書かれています。これは、復活という大きな出来事に驚き、神の力に圧倒されたためでした。彼女たちはそのすごさをすぐには理解できなかったのです。女性たちが語れなかったとしても、神の働きは止まりません。復活の知らせは、すでに世界中に広がっていきました。この8節の出来事は、今日の私たちにも語っています。恐れや迷いがあっても、私たちは復活の主を伝える使命を与えられています。神の力を信じて、勇気をもってその喜びを語り伝えていきましょう。恐れの中でも主は先に行っておられるのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは恐れず、前に進むということです。
Today’s Takeaways
①石は神が先に取り除いてくださる ②生きておられる主に目を向ける ③恐れず、前に進む