説教題:真のクリスマスの意味、それは恵み 聖書箇所:テトスへの手紙2章11-13節
テトス 2:11 実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。 2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、 2:13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。
ハレルヤ!12月の第三主日を迎えています。今年度から偶数月にウエルカム礼拝をおこなっており、初めて教会に来られる方にも分かりやすい励ましのメッセージをお届けします。クリスマスおめでとうございます。今日、教会に来てくださり、本当にありがとうございます。初めて来られた方も、久しぶりの方も、毎週ここに集っておられる方も、心から歓迎します。この12月、街は光で輝き、音楽が流れ、クリスマスの雰囲気に満ちています。プレゼントを選んだり、ケーキやチキンを囲んでパーティーを開いたり、クリスマスには楽しいことがたくさんあります。
ただ、もし誰かに「真のクリスマスの意味は?」と聞かれたら、どうでしょうか。今日の聖書箇所のテトスへの手紙2章11-13節言葉にその答えがあります。たったの三節の御言葉の中に、クリスマスの出来事がなぜ起こったのか、それが私たちの人生にどのような影響を与えるのか、そして私たちはどこに向かって歩んでいくべきなのかを教えています。クリスマスとは、神の恵みが私たちのところに現れた日です。今日は「真のクリスマスの意味、それは恵み」と題してお話しします。過去・現在・未来での三つ恵みをご一緒に学んで参りましょう。
①過去―恵みは訪れた
パウロは力強くこう宣言します。11節「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」この「実に」という言葉は、ギリシア語の原文では強い確信と確実性を表現しており、「疑いの余地なく」と宣言しているかのようです。パウロがこれほどまでに確信を持って語るのは、彼自身がイエス・キリストとの出会いによって人生が完全に変えられた経験を持っているからです。かつてクリスチャンを迫害していたパウロは、復活したキリストとの出会いによって、最も熱心な福音の伝道者となりました。開きませんが新約聖書の使徒言行録9章1-22節に記されています。
ここで注目すべきは「すべての人々に」です。当時のユダヤ人社会では、神の救いはユダヤ民族、イスラエルの民だけに限定されたものだと考えられていました。しかし、クリスマスの出来事は、そのことを根底から覆しました。「すべての人々」とは、金持ちも貧しい人も、教育を受けた人も受けていない人も、道徳的に立派な人も失敗ばかりしている人も、例外なくすべての人間が含まれています。老若男女人種が問われないのです。クリスマスの夜、最初に天使の知らせを聞いたのは、社会から疎外されていた羊飼いたちでした。このことは、ルカによる福音書2章8-15節に記されています。神の恵みは、その届く範囲を最初から広く開いておられたのです。わたしたちがどのような背景を持っていようと、神の救いはあなたにも開かれています。これがクリスマスのメッセージの核心です。
先ほど賛美致しましたが、「驚くばかりの」という有名な曲があります。作詞はジョン・ニュートンです。彼は、18世紀イギリスの奴隷貿易商人でした。ニュートンは、幼い頃に母親の影響で、教会に通っていたのでした。しかし、やがて大西洋の奴隷貿易に関わるようになりました。奴隷商船に乗り込み、アフリカから人々を鎖につないで運ぶという非道な仕事に携わっていました。彼の人生は、まさに12節「不信心と現世的な欲望」そのものでした。ある日、アフリカ沖を航行中に大嵐が船を襲いました。暗闇の中、船が傾き、死を覚悟した瞬間、ニュートンは心の底から祈りました。「神よ、私をお救いください。もし生かされるなら、あなたに従います。」このとき初めて、彼の中に「神の恵み」が光のように差し込みました。彼は命拾いをし、その後、奴隷貿易をやめて信仰の道に入り、ついには牧師となります。そして彼の悔い改めと感謝の心から生まれたのが、「驚くばかりの」です。「驚くばかりの 恵みなりき この身の汚れを 知れる我に」彼の生涯は、2章11節の「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れた」という御言葉そのものです。恵みは、罪深い過去を消し去るだけでなく、新しい生き方を与える力なのです。ニュートンは晩年、視力を失いながらも「私はかつて盲目であったが、今は見える」と語り続けました。それは、霊の目が開かれた恵みの証言でした。
「恵み」とは、受ける資格のない者に与えられる無償の贈り物を意味します。対価ではありません。対価とは労働の報酬です。お給料がそうです。しかし、イエス・キリストの誕生は、人間の行為とは無関係に、神の側から一方的に与えられた恵みによる贈り物でした。私たちがまだ罪人であったとき、神に背を向けていたとき、神はすでに救いの計画を実行されたのです。もし私たちが神の立場だったら、自分を無視し、背を向ける人々のために、最も大切なものを犠牲にするでしょうか。おそらく、私たちはそうしないでしょう。しかし、神はそうされました。これが恵みです。恵みとは、私たちが神を探すことではなく、神が私たちを探し出す愛の出来事なのです。
「現れました」という言葉の原語の意味は、「暗闇の中に光が差し込むように、突然世界を照らすこと」です。これは抽象的な概念ではなく、歴史の中で実際に起こった事件を述べています。約二千年前、ベツレヘムという小さな町で、一人の赤ん坊が生まれました。これは神話でも伝説でもなく、史実です。聖書のみならず、ヨセフスなどの歴史家もイエスの存在を記しています。全宇宙の創造者である神が、小さな赤ん坊として、貧しい家庭に、動物小屋で生まれました。永遠の神が、私たちと共に歩まれるために、へりくだって来られました。これほど驚くべきこと、これほど謙遜なこと、そしてこれほど私たちへの愛を明確に示すものがあるでしょうか。今日、まず覚えて頂きたいことは過去―恵みは訪れたということです。
②現在―恵みは今も変える
パウロは続けます。12節を見てみましょう。2:12 その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、恵みは、私たちを「そのまま」で受け入れてくれますが、「そのまま」にしておくことはありません。神の恵みは、単に「救われる」と伝えるだけでなく、私たちに新しい生き方を教えてくれます。この「教える」とは、ただ知識を伝えるだけでなく、やさしく育てたり、性格や生き方を形作ったりすることも含まれます。親が子どもを大切に育てるように、神の恵みも私たちが成長できるように、やさしく、でもしっかり導いてくれるのです。
神の恵みは、まず「不信心」、神様なしで生きることをやめるように教えてくれます。自分の力だけで何でもできると思ったり、神様を無視して人生を進めたくなったりすることがこの世には多いですが、神の恵みを知った人は、「神様と一緒に生きることこそが本当に大切だ」と気づくようになります。そして、恵みは「現世的な欲望」、この世の物や成功ばかり求めてしまう心を手放すことも教えます。欲しいものや認められたい気持ちは、一つ叶えてもまた次を求めて終わることなく続いてしまいますが、恵みは何が本当に価値あることか区別できるように助けてくれます。それは物や立場そのものが悪いのではなく、大切なのはそれらを正しい位置に置くことです。さらに、パウロは恵みが導く生き方を「思慮深く、正しく、信心深く」とまとめます。思慮深くとは、自分をコントロールしてよく考え行動すること。正しくとは、他の人に誠実で公平に接し、約束を守ること。信心深くとは、心から神様を愛し、日々神様に近づこうとする生き方です。これらは外側から決まりを押しつけられて守るのではなく、恵みが心の中から自然と生み出す生き方です。こうして私たちは、毎日の生活や仕事、家庭の中で恵みに導かれ、他の人にも明るさや励ましを広げてゆくことができるのです。それは聖霊なる神の働きです。イエスキリストを救い主と受け入れた瞬間から聖霊なる神が内に宿り、聖霊なる神が成長をさせてくださるのです。このことはエフェソの信徒への手紙 1章13-14節、コリントの信徒への手紙二 3章18節に記されています。
実は、私自身もこの恵みによる変化を経験した一人です。私は44歳のとき、ある転落事故がきっかけでキリストと出会いました。 それまでの私は、本当に放蕩息子で、両親に心配ばかりかけているどうしようもない息子でした。 けれども、そんな私を神様はあわれんでくださり、救ってくださいました。 そしてクリスチャンになって6年後、なんと父がイエス・キリストを救い主として受け入れたのです。 そのとき父は、当時私が通っていた教会の主任牧師にこう話しました。 「先生、息子は本当にどうしようもないバカ息子でしたが、教会に通い始めてから本当に変わりました。 神様、イエス様のおかげです」と。 暗闇の中に一本のロウソクを灯すと、部屋全体の雰囲気が変わります。 それと同じように、私たちが恵みを受け取るとき、心の中の暗闇にも光が差し込みます。 その光はやがて周りの人々へと広がっていくのです。 このすばらしい恵みと変化を与えてくださった神様に、心から感謝します。もしあなたが『自分も変わりたい』と思われるなら、その願いこそが神様からの招きかもしれません。今日、二番目に覚えて頂きたいことは現在―恵みは今も変えるということです。
③ 未来―恵みは希望を灯す
パウロは最後にこう述べています。13節を見てみましょう。2:13 また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。11節の「恵みの現れ」はクリスマスを指しています。これを神学用語で初臨と言います。13節の「栄光の現れ」はキリストが再びこの世に来られることを指します。イエスが約束を完成させる日と言えます。これを神学用語で再臨と言います。このことについては。ヨハネによる福音書14章3節に記されています。
救いは、ただ過去の出来事ではなく、未来へと続く希望でもあります。聖書が語る希望とは、「神が必ず約束を実現されることへの確信」です。だからこそパウロは「祝福に満ちた希望」と表現します。現代社会は病、介護、人間関係、経済的な問題など、多くの面で希望を失っています。しかし、最終的に良い結末へ導かれるという確信が、私たちに喜びをもたらします。すべての涙が拭われ、苦しみが終わり、神との完全な交わりが回復される日が来るからです。
約二千年前、神自身が赤ん坊として謙遜な姿で来られました。イエス・キリストです。そして、聖書はイエスが再び「栄光」をもって来られると約束しています。その日、キリストは王の王として来られ、正義が完全に実現され、悪は滅ぼされ、新しい天と新しい地が創造されます。これは希望的観測ではありません。キリストの復活がその確実性を保証しています。この「待ち望む」態度は、困難な状況でも忍耐力を与え、一時的なものと永遠のものを区別する視点を与え、主に喜ばれる生き方をする動機を与えます。
水槽に入れられたネズミが、どれほど長く泳ぎ続けられるかを調べたある実験があります。ネズミたちは必死に水をかき分けますが、やがて疲れ果て、平均して十五分ほどで溺れかけてしまいます。ところが、一度引き上げられて救われたネズミを再び水に戻すと、なんと六十時間以上も泳ぎ続けたと記録されています。一度「助けられた」という経験、生き残れる可能性があるという確かな期待が、小さな命の力を飛躍的に引き上げたのです。
私たちの人生にも、水槽の中でもがくような日々があります。仕事、家庭、人間関係、心の傷、誰にも言えない不安。息が苦しくなり、「もう無理だ」と思う瞬間、最後の力すら残っていないように感じる時があります。
救い主イエス・キリストは、この世という大きな水槽の中から、私たちを一度救い上げてくださったお方です。その救いの恵みは、決して夢物語ではありません。確かな歴史の中で、神が人となられたクリスマスに始まり、十字架と復活により完成した救いです。だからこそ、私たちはもう絶望に飲み込まれる必要がありません。
クリスマスに現れた神の恵みが、私たちに告げています。「あなたには希望がある。あなたは見捨てられていない。再び立ち上がれる。」祝福に満ちた希望が、苦しみの中にある私たちを支え、生きる力を生み出します。イエス・キリストを待ち望むこの希望こそ、私たちを生かし続ける根源的な力です。
クリスマスの真の意味は、「訪れた恵み」に始まり、「今も変える恵み」を受け取り、やがて「希望を灯す恵み」に完成される物語です。 もしあなたが、まだこの救い主イエス・キリストを知らないのなら、今日、この招きに応えてみませんか。イエス・キリストは「マタイ11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われました。あなたの心の扉を開き、「イエス様、私を救ってください。私はあなたを信じます」と祈るだけでいいのです。
私たちは、初めに現れた恵みと、再び来る栄光の希望との間に生きています。クリスマスは、神が私たちのもとに来て、私たちを愛し、変え、希望を与えてくださったことを思い起こす日です。どうか、世俗の楽しみの奥にある、この真のクリスマスの深い恵みを信じて受け入れ、日々その光を心に持って歩んでいきましょう。 今日、最後に覚えて頂きたいことは未来―希望を灯す恵みということです。
今日の三つのポイント
①過去―恵みは訪れた
②現在―恵みは今も変える
③未来―恵みは希望を灯す
祈り
実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。
ハレルヤ!恵み深い天の父なる神様、 今日も御言葉を通して私たちを教え、導いてくださったことを感謝いたします。 この御言葉が私たちの心に深く根づき、日々の歩みを照らす光となりますように。 どうか私たちがこの世の欲に流されることなく、思慮深く、正しく、信仰深く生きる力をお与えください。 まだイエス・キリストを知らない方々にも、あなたの救いの恵みが届きますように。 これからの一週間も、常にあなたと共に歩ませてください。 すべてを御手に委ね、 私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。