• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2025年12月28日主日礼拝 伏見美恵子師

説教題:弱さの中にあらわれる神の力 聖書箇所:コリントの信徒への手紙二12章9,10節

12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

おはようございます。いよいよ今年最後の礼拝となりました。いつもはヨハネの福音書からですが今朝はこの個所からみ言葉を取り次がせていただきます。実は私は以前から腰痛があったのですが、2,3か月前は特に激痛を覚え、体のあちこちに痛みがあり、歩行も大変に感じることがあり、ご奉仕できなくなることを恐れました。ずっと体調の癒しを祈り続けています。そのような中でこの御言葉に大変励まされました。この世界は弱さをマイナスととらえ、できるだけ隠そうとする世界です。しかしパウロは「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言っています。この大胆な逆説的価値観こそ、キリスト教の神髄です。今年の締めくくりのみ言葉として、この個所から共に学んでいきましょう。

パウロは深い苦しみの中で、三度も神に祈りました。「主よ、このとげを取り去ってください」と。しかし神の答えは、意外なものでした。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」なぜパウロはこのような答えを受けたのでしょうか。その背景には、コリント教会での深刻な問題がありました。

・コリント教会における「偽使徒」問題(10~12章)

第二コリント書の大きなテーマのひとつです。パウロの使徒としての権威が疑われていたという問題です。コリント教会には、パウロを批判し自らを正統な使徒だと主張する「偽使徒たち」がいました。彼らは雄弁さや神秘的体験、目に見える成功、強さを基準に自己を誇り、自分たちこそ「真の使徒」だと主張し、パウロを批判していました。この風潮の中で、パウロは外面的な強さではなく、弱さと苦難を通して働くキリストの力こそ本物だと語る必要がありました。

 ・パウロの「からだのとげ」

パウロはこれに応答し、「第三の天」に引き上げられた最高の神秘体験(2コリント12:1~6)を語りますが、それをひけらかすことを拒否しました。「私について見ること、聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけない」という謙遜を保つためです。この態度こそが、パウロと偽使徒たちとの決定的な違いでした。12章の文脈では、パウロは「自分の弱さ」を説明するために、「からだのとげ」と呼ばれる、彼を深く苦しめる何かがあったことを語っています。

12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。これが肉体の病か、慢性的な苦しみか、霊的・精神的な試練か、外的迫害かは明確には書かれていませんが、その目的は明確でした。「思い上がらないように、私を痛めつけるため、サタンから送られた使い」として、傲慢にならないように、パウロの霊的健全性を守る神の予防的な計らいでした。パウロは当然、この苦難を取り除いてほしいと三度も主に願いました。

 ・ 主からの答えが今日の聖書個所です。

12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。パウロのとげは取り除かれませんでしたが、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という主の言葉でした。恵みは、人間の功績や努力に関係なく、神から無償で与えられる祝福で、それは欠けることなく十分に足りているというものでした。恵みは、苦難を耐え忍び、使徒としての働きを継続させるための神の継続的な支えがあると言うことです。神の恵みは、状況が変わらなくてもあなたを支えるには完全に十分だという宣言。「問題がなくなること」ではなく「問題の中で耐え抜く力」が与えられることを示しています。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ

私たちが自分の力で何かを成し遂げた時、自分が頑張ったからだと傲慢になりやすいです。そこには神の力、聖霊の力が働く余地はありません。力とは 聖霊を通してあらわされる神の力、パウロの宣教を可能にする原動力です。弱さとは 単なる身体的な病や無力さだけでなく、人間の努力、自信、自己依存が完全に打ち砕かれる状態を指します。神の力は、人間の限界、自分に頼ることが不可能になる所で現れる。その弱さの中で神の力は完全に発揮されるというのです。ですからパウロは、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と言っています。これは自分の弱さ、限界を隠さず正直に認め、弱さを通して神が働かれることを期待すること。そして「神はこんな弱い私を助けてくださった」と神の栄光を証することです。この真理は、キリストの十字架でモデル化されています。キリストは、世の目には究極の弱さと敗北に見える十字架において、人類史上最大の勝利を達成されました。パウロは、このキリストのモデルに自らを同一化させています。

12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。「満足しています」の意味は、「良いと見なす」「喜んで同意する」「積極的に望む」という意味です。これは、苦難を受け身で忍耐するのではなく、神の目的が達成される場として積極的に迎え入れるという意思表示です。パウロは苦難そのものを愛しているのではなく、キリストのためにその苦難を経験しているという事実に満足しているのです。五つの具体的な苦難  パウロは語ります。「私は弱さを経験しました。様々な体の痛み、心の疲れ、気落ちしたこともありました…侮辱されました。人々から嘲笑され、信仰ゆえに軽んじられました。窮乏を味わいました。明日の食事さえ心配する日々、寒さに震えることもありました、迫害を受けました。石を投げつけられ死にかけたこと、命の危険にさらされました…行き詰まりました。嵐の中で難船したこと、もうどうにもならないと感じる絶望の中を過ごしたこともありました。しかし、まさにそこで、神の力が現れたのです。」ですからパウロは告白します。

フィリ ピ4:13 わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。このリストは、肉体的な弱さや他者からの攻撃、そして個人的な窮地や精神的閉塞感に至るまで、私達も経験することがあります。パウロの人生は「常に途方に暮れるような人生」でしたが、これらの状況は神の恵みが働くための舞台となりました。彼は、常に傍らにいて恵みを下さる慈しみの神を知っているがゆえに、これらの状況でさえ満足できたのです。「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」この結びの言葉は、9節で主がパウロに与えた真理を、パウロ自身が完全に受け入れ、自分のものとした結論です。パウロの「強さ」は、もはや彼の肉体的能力、カリスマ、人間的な成功に依存しません。彼の強さは、自己の無力さ(弱さ)を通じて、キリストの力が流れているという事実に根ざしています。恵みを知ることで、パウロの見方は180度変わりました。苦難の中で自己憐憫に陥っていたならば、彼は「哀れな私」であったかもしれません。しかし、神の恵みがいつも十分にあることを知ったパウロは、もはや「哀れな私」ではなく、「恵まれた私」であると見方が変わったのです。これはパウロにとって、
「問題が解決される」こと以上に、「弱さの中に働く神の力」を知る大きな啓示でした。

 ・ パウロの結論:弱さを誇る

コリントの教会では「強さ・奇跡・能力・成功」が重視されていましたが、パウロはまったく逆の価値観を提示します。弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりこれらは神の力がより鮮明に現れる「場」である、と。そして「私は弱いときにこそ強い」という逆説の真理を語ります。

まとめ

パウロがこの言葉を語った背景は

  • コリント教会での権威争いと偽使徒たちがパウロを批判し、教会をかき回していたこと
  • 自分の弱さ(からだのとげ)への深い痛み
  • 主から与えられた「弱さを通して力が現れる」という啓示
  • それをもって教会を正しい価値観に導くため

という歴史的・霊的状況があったためです。

私たちへの適用

ここで注意すべき弱さがあります。

1恐ろしい思い上がりとしての弱さ: 苦難の中で「神は何をしている」「どうせ神はこんな状況を変えられない」と、神の主権を否定する、傲慢さです。

2不信仰の弱さ:「祈りが聞かれない、あの人は祝福されているのに、なぜ私だけがこんなに苦しむのか、私は神に愛されていないのだ」と神の愛を疑い、自己憐憫や卑屈になってしまう弱さもあります。

3恵まれた弱さ(器としての弱さ): 「主よ、私は弱いです。でもあなたは強いお方です。あなたの力を私に注いでください」とパウロが誇る弱さであり、自分に頼ることができなので、ますます神に頼り、信頼する信仰の歩みです。神はそのところに力を注ぎ、神の栄光があらわされていくという希望をもって私たちもこのように祈りましょう。

まとめ

1:神の恵みは、常に十分にある

神の恵みは、私たちの求めている具体的な解決策(とげの除去や状況の改善)を保証しないかもしれません。祈っても苦しい状況や病は変わらないかもしれません。しかし神の恵みは、その中で自分の人生を生き抜き、信仰を貫くために必要な全て(神の不変の愛と力)は、常に豊に注がれています。神の支え、教会の支え、周囲の支えがあります。決して一人ではありません。このことは、私たちが感じる「不足」や「不満」を超越し、現状が自分の思い通りでなかったとしても、恵みによってすでに満たされているという事実に、安息を見出すことができます。

2:弱さこそがキリストの力が現れる舞台

神の力は、人間の力が尽きた場所で、最も輝き、最も明確に発揮されます。私たちは、キリストの力が活動するための「幕屋」、舞台として、弱さを示し、神に明け渡していきましょう。スマホの電池が切れそうなとき、どうしますか?自分で何とかしようとしても無理ですよね。充電器につなぐと、はじめて力が戻ります。人の弱さ = バッテリー切れと同じです。自分ではどうにもならない状態です。だからこそ神に頼る = 自分の限界を感じた時、「主よ、私は弱いです。あなたの力を注いでください」と祈り求めるのです。これは充電することです。弱さに気づいたときこそ、神の力につながれるチャンスなのです。弱さこそがキリストの力が現れる舞台となるのです。真の強さとは、自分が何かを成し遂げる能力ではなく、キリストが私たちを通じて成し遂げられることです。

3:苦難は神の目的の中で益に変えられる

パウロが経験した「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態」は、形は違っても私たちも経験することがあります。苦しいときは正直に、主の懐で悲しみの心を注ぎだし、主の慰めを頂きましょう。

パウロの苦難は傲慢にならないように与えられたものでした。苦難には意味があるのです。今はわからなくても、やがて神の目的の中で益と変えられるのです。

ヘブル 12:11 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。今、神の恵みが弱さや困難の中で私たちを支え続け、やがて平安な義の実が結ばれ、神の栄光があらわされていくのです。弱さの中に働かれる神の力を信じていきましょう。そのとき、私たちは「主のもの」としての真の誇りを見出します。これは、私たちを「哀れな私」から「恵まれた私」へと導き、苦難の中でさえ不平不満なく生きることを可能にします。. マルティン・ルターは16世紀の宗教改革を主導したドイツの神学者で、カトリック教会に大きな変革をもたらした人物です。彼は生涯の中で「深いうつ状態」にしばしば苦しんだことが知られています。彼自身が「霊的な暗闇」「絶望」「深い不安」に襲われたと記録されています。また宗教改革の闘いの中で、仲間を失い、命の危険にさらされました。しかしその弱さの中で「神の恵みは十分である」と信じ、改革を続けました。「弱さのうちにこそ神の力が完全に現れる」――ルターの人生は、この真理を歴史の中で示したものと言えるでしょう。私の中にも変化があります。もちろん完全に癒されるように祈っていますが、痛みの中にあってもそれを嘆くのではなく、「神様感謝します。この弱さを通してあなたの偉大な力が現れていくことを信じます」と宣言するように変えられました。そうすると、心は晴れやかになり、希望が湧いてきて、徐々にではありますが痛みも癒されていくように感じるのです。今は毎日簡単な筋トレを通して、だいぶ良くなってきました。これも主の恵みと感謝しています。この弱さの神学は、現代の私たちクリスチャンに対し、苦難の中で失望落胆し続け、神と恵みを見限るという「思い上がり」や、「私は神に愛されていない」という自己憐憫を捨て、自己の無力さを喜んで受け入れるよう促します。なぜなら、私たちが弱いときにこそ、私たちの中に宿るキリストの力が最大限に発揮されるからです。人は自分の力に頼らず、まず神に祈りより頼む。しかしその上で、神に導かれたことを実際に行っていく。その行動の中で、神が必要な力を与えてくださり、神の栄光を表す道へと導かれるのです。決して弱さに甘んじることではありません。祈りは「行動しなくてよい理由」ではなく、神の力によって行動するための出発点なのです。若いときのような力はなくても、私達にもできることはあります。新しい年、「わたしは弱いときにこそ強い」と告白していきましょう

パウロの言うところの、「生きるにしても死ぬにしても主のものである」という真の誇りが、この逆説的な力の中に完全に保証されているのです。

祈り

恵み深い天の父なる神さま。この一年、あなたは確かに私たちと共に歩んでくださったことを、感謝いたします。喜びの日にも、涙の日にも、順調なときにも、弱さや痛みの中に沈むときにも、あなたの恵みは一度も欠けることなく、いつも十分に与えられていたことを覚えます。主よ、今年一年の歩みを振り返るとき、私たちは自分の力ではどうすることもできない弱さを、いくつも覚えます。身体の痛み、心の重荷、思い煩い、先の見えない不安──しかしその一つ一つの弱さを通して、あなたが支え、導き、必要を満たし、今日まで生かしてくださったことを感謝いたします。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れる。」この御言葉は、過ぎ去った一年の中で何度も真実であったことを、私たちは覚えています。どうか、私たちが自分の弱さを嘆くのではなく、その弱さを通して働かれるあなたの力に心を開いていく者としてください。主よ、今、今年最後の礼拝として、私たちはこの一年のすべてをあなたの御手にお返しいたします。そして同時に、来るべき新しい一年も、あなたの恵みと力により頼む者として始められるよう導いてください。痛みを抱えている方に、癒しと慰めを。行き詰まりにある方に、新しい光と希望を。弱さを感じている者に、キリストの力を。そして私たちすべてが、「私は弱いときにこそ強い」という信仰の真理を、新しい年にも歩みの中で味わうことができますように。主よ、この一年、あなたが守り、支え、導いてくださった恵みに心から感謝いたします。来る年もまた、あなたのものとして歩ませてください。

すべてを感謝して、主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。