説教題:最も暗い時に示された信仰 聖書箇所:マルコによる福音書15章42-47節
◆墓に葬られる15:42 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、15:43 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。15:44 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。15:45 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。15:46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。15:47 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。
ハレルヤ!12月の第一主日を迎えています。先週からアドベントの季節に入りましたが、引き続きマルコによる福音書を学んでいきます。今日は第48回目です。いつものように、前回のおさらいから始めましょう。 前回はマルコの福音書15章33〜41節から、「裂かれた幕―遠くから見守る者たち」という題で三つのことを学びました。 ①暗闇の中にも主は共におられる ②神との隔たりが取り除かれた ③見守ることも主に従う でした。主イエスが十字架で亡くなられた場面を思い出してみましょう。昼の12時から午後3時まで、あたりが暗闇に包まれました。神の子が人間の罪のために死なれた――マルコによる福音書の受難の物語の中で、ここが最も大切な場面でした。 今日読む箇所は、その「死」の後に何が起こったかを伝える15章42〜47節です。一見、短く静かな場面のようですが、ここには信仰や勇気、そして神様の深いご計画が隠されています。今日は「最も暗い時に示された信仰」という題でご一緒に学んでいきましょう。
①勇気を出して一歩踏み出す
42節から順番に見てまいりましょう。15:42 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、『既に夕方になった』とあります。ユダヤでは日没が一日の始まりです。夕方はまもなく安息日が始まる時間です。安息日には仕事をしてはいけません。ですから、埋葬のために動ける時間はとても短かったのです。イエスが亡くなったのは午後3時ごろでした。そこから日が沈むまでの短い間しか、埋葬の用意はできませんでした。 申命記21章23節には次のように記されています。申命記21章23節 死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。もし誰も遺体を引き取らなければ、罪人のように共同墓地やゴミ捨て場に捨てられてしまったかもしれません。でも弟子たちは逃げていました。「夕方」という言葉には、イエスをきちんと葬るために時間と戦う緊迫感があります。しかし、その背後には神様の見えない導きがありました。イエスの死と埋葬は偶然ではなく、神様のご計画の中で起こりました。「準備の日」は、過越しの祭りで小羊がいけにえにされる日を思い起こさせます。イエスこそ真の過越しの小羊です。また、イエスは安息日の前に墓に納められました。これは神様が世界を作ったあと休まれたことを思い起こさせます。救いのわざが完成し、新しい世界の始まりを待つ、休みの時でもありました。43節を見てみましょう。15:43 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。アリマタヤという町から来た、身分の高い議員ヨセフという人がいました。彼は勇気を出して、ローマのピラト総督のところへ行き、イエスの体を渡してほしいと頼みました。ヨセフも神の国が来るのを待ち望んでいました。ヨセフはユダヤの最高議会(サンヘドリン)のメンバーでしたが、イエスを死刑にした議会の一人でした。しかし彼はイエスの死後、体を引き取ってきちんと葬りたいと願ったのです。なぜヨセフに勇気が必要だったのでしょうか。議会の同僚から裏切り者と非難されるかもしれませんし、ローマ政府からも反逆者の仲間と思われる危険がありました。また、遺体に触ることはユダヤの律法で汚れとされていて特に過越祭の時は大変なことでした。だからこそヨセフの行動は、律法の決まりよりイエスへの愛を優先した証でした。他の弟子たちが皆逃げた中で、今まで表には出なかったヨセフが一番大事な時に表に出ました。これは言葉ではなく勇気を出し行動で信仰を示したのです。
ある高齢の女性信徒が、入院中に同室の患者が苦しんでいるのを見て、胸が痛みました。しかし声をかけることにためらいがありました。「迷惑かな」「お祈りなんて嫌がられるかも」と恐れを抱えつつも、彼女はついに一歩踏み出し、「もしよかったら…少しお祈りしてもいいですか」とささやくように声をかけました。相手の女性は涙ぐみながら、「ぜひお願いします。誰かに祈ってほしかったんです」と答えました。この経験を通し、彼女は「小さな勇気が、人の心を開くことがある」と証ししています。ヨセフの勇気は、恐れが消えてから生まれたのではありません。恐れの中で、それでも一歩を踏み出したところに、神の国への希望があったのです。今の証のように、私たちの小さな勇気も、神の御手の中で大きな祝福へとつながっていきます。今日、まず覚えて頂きたいことは勇気を出して一歩踏み出すということです。
②隠れた献身を惜しまない
44,45節を見てみましょう。15:44 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。15:45 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。ピラトは「イエスが本当に死んだのか」と不思議に思いました。十字架での死は普通、何日もかかって苦しみ、息ができなくなって亡くなります。しかしイエスはわずか数時間で亡くなりました。ピラトはこれまで多くの十字架刑を見てきたので、イエスの死が早すぎることに驚いたのです。そこでピラトは百人隊長を呼んで、イエスが確かに死んでいるかどうか確認させました。百人隊長は名前の通り、約100人の兵士をまとめる信頼できる役職で、イエスが神の子だと認めた人でもあります。この確認によって、「イエスはまだ生きていて後から目覚めた」という説(仮死説)が否定されます。ローマの総督ピラト自身が死を確認したことで、イエスが本当に亡くなった証明になりました。この確かな死の上に、イエスの確かな復活が起きるのです。その後、ピラトはイエスの遺体をヨセフに渡しました。これはただの手続きだけでなく、特別な赦しでした。遺体がピラトの許可を得て引き渡されたので、「弟子たちが遺体を盗んだ」といううわさを否定する証拠にもなります。このとき、神様の言葉での預言も静かに成し遂げられていたのです。イザヤ書53章9節には彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。とあります。イエスは十字架で罪人と一緒に死にましたが、お金持ちのヨセフの墓に葬られました(マタイによる福音書27章57-60節)。このことは、この古い預言がそのまま現実になったことを示しています。ピラトの決定はこの預言が実現するのを助けました。イエスが死んでいると正式に認められ、神様の計画の中でイエスの埋葬がちゃんと行われました。イエスが生まれたとき、マリアとヨセフがイエスを布に包んで寝かせたように、今度は別のヨセフがイエスの遺体を受け取って埋葬の準備をしました。ローマの役人がイエスの死を正式に確認したことは、後の復活が本物の出来事であることを証明する重要な証拠となります。46節を見てみましょう。15:46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。 亜麻布はとても良い布で、普通はお金持ちが使うものでした。並行箇所のヨハネによる福音書19章38-42によると、もう一人の議員ニコデモがたくさんの高価な香料を持って来ていて、これは王様のためのような特別なものでした。ヨセフはイエスのためにいちばん良いものを用意したのです。十字架からイエスの体を外すのは簡単ではありませんでした。釘で体が固定されていたからです。ヨセフは数人の助けを借りて、慎重にイエスの体をおろし、直接触りました。死んだ体に触るのは律法では「汚れ」と言われていて、特に安息日の前で困難なことでしたが、ヨセフは律法よりもイエスの名誉を大事にしました。体はきれいにされて、香料をぬり、長い亜麻布で包まれました。これは死者を大切にする気持ちと、体の復活を信じる心のあらわれでした。ヨセフが使った墓は、まだ誰も使ったことのない新しい墓でした。裕福なユダヤ人は自分のために岩を掘って墓を作ることが多かったのです。まだ使われていない墓にイエスが入ることは、イエスが特別で清いことを意味していました。イエスは生きている時、「人の子には寝る場所もない」(マタイによる福音書8章20節b)と言われていましたが、死んだ後はお金持ちの墓に入れられました。これも神様のすばらしい計画の一つです。新しい墓だったので、他の骨や遺体と混ざることがなく、三日目に空になったとき、これはイエスの復活だと確かに証明されました。墓の入り口には大きな丸い石が転がされていました。この石は墓を閉じて動物や盗人から守るためのもので、数人の男性で協力して動かすものです。この石は死が終わったことを示しています。しかし、その石が復活の日に転がされたことで、死に勝ったことのしるしになりました。人の目にはすべてが終わったように見えましたが、神様の目にはそこで新しい働きが始まる扉が開かれたのです。このことから私たちに教えられることは、ヨセフがした献身的な働きは、楽しいことではなく、悲しみやつらさの中でのことでした。神様の国を待ち望む信仰は、誰も見ていなくても、報われなくても、忠実に働くことを求めているのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは隠れた献身を惜しまないということです。
③絶望の中でも待ち望む
47節を見てみましょう。15:47 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。
「見つめていた」という言葉は、ただ見るだけでなく、しっかりと注意して心に刻むように見ることを意味します。英語の聖書にはwatchが使われているものが多くあります。「マグダラのマリアとヨセの母マリア」はただそこにいるだけの人ではなく、大切な証人でした。マグダラのマリアは、イエスから悪い霊を追い出してもらった女性(ルカによる福音書 8章2節)で、その後ずっと献身的にイエスに従っていました。彼女は十字架のときも、埋葬のときもそばにいて、復活の日には最初に空の墓を見つけて、復活したイエスに最初に会った人の一人になりました。ヨセの母マリアもイエスのそばを離れませんでした。多くの男性の弟子が逃げた中で、彼女たちは最後までイエスを見つめ続けました。女性たちが墓の場所を確認したのには大事な理由がありました。まず、愛するイエスの最後をしっかり見届けたかったからです。悲しくても愛が彼女たちをそこにとどまらせました。次に、安息日が終わった後に戻ってきて、遺体に香料をぬるために正しい場所を知っておく必要がありました。ヨセフとニコデモが準備した埋葬は十分ではなかったかもしれません。女性たちはもっと丁寧にしたいと思っていました。そして最も大切なのは、彼女たちが復活の証人になる準備をしていたことです。空の墓を見つけることが意味を持つのは、墓が最初は埋まっていたことを見ている人がいるからです。彼女たちの「見つめる」行為は信仰の姿です。イエスの死は希望をつぶしたかに見えましたが、彼女たちは去りませんでした。分からなくても、見捨てずにその場にいること。それが本当の信仰です。何も見えなくても、何も起きていないようでも、イエスを見つめ続けるその忠実さが、復活の朝につながります。彼女たちの静かな見守りは、旧約聖書に書かれた神の民の苦しい時の嘆きと神を待つ姿を思い出させます。その待つ心はやがて喜びに変わります。マルコの福音書はこの場面を淡々と、しかし丁寧に書いています。感情をたくさん書かなくても深い真実が伝わります。
1977年11月15日の夕方、13歳の少女が学校から帰ってきませんでした。横田めぐみさんです。それは横田家にとって「夕方」、すべての光が消え去る瞬間でした。横田めぐみさんの母、早紀江さんはクリスチャンです。娘が拉致されてから50年近く、彼女は娘の帰りを待ち望み続けています。「もう会えないかもしれない」という絶望の中で、彼女は毎日祈り続けています。講演で彼女はこう語りました。「私は墓を見つめるマリアたちの気持ちがわかります。何も見えない。何も聞こえない。でも、ただそこに立ち、見つめ、待ち望むしかない。それが信仰です。神様は必ず答えてくださると信じて」絶望の中でも、彼女は待ち望み続けています。イエスは本当に死に、本当に葬られました。そして忠実な証人たちがそれを見守っていました。この歴史の事実が、復活の宣言の土台となるのです。二人のマリアは、遺体が置かれた場所をしっかり見つめていました。すべてが終わったように見える絶望のなかでも、最後まで見守ったのです。これは復活の朝への準備でもあり、私たちも暗い時でも希望をあきらめず、神の働きを待ち望むことが大切だと教えています。今日、最後に覚えて頂きたいことは絶望の中でも待ち望むということです。
Today’s Takeaways
① 勇気を出して一歩踏み出す ② 隠れた献身を惜しまない ③ 絶望の中でも待ち望む