• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2025年7月13日主日礼拝 伏見敏師

説教題神様first-永遠の希望に生きる 聖書箇所:マルコによる福音書12章13-27節

◆皇帝への税金 12:13 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。 12:14 彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」 12:15 イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」 12:16 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、 12:17 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。 ◆復活についての問答 12:18 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。 12:19 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 12:20 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎ましたが、跡継ぎを残さないで死にました。 12:21 次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。 12:22 こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。 12:23 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」 12:24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。 12:25 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 12:26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。 12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」

ハレルヤ!七月の第ニ主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、その35回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。11章27節~12章12節を通して、「真の権威-隅の親石となったイエス」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①権威は神から与えられる 裁きは必ず下る イエスは隅の親石となった でした。今日は続く12章13~27節を通して「神様first-永遠の希望に生きる」と題しお話しします。

①最優先は神

では、13節から順番に見てまいりましょう。 12:13 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。「彼ら」とは、11章に記されていた、祭司長、律法学者、長老たちのことを指しています。彼らは、イエスに敵意を持っていた宗教の指導者たちです。彼らの目的は、イエスの言葉の中から問題となる部分を見つけ出し、罠にかけることでした。注目したいのは、ふだんは対立している「ファリサイ派」と「ヘロデ派」が、このときは手を組んでいたことです。以前(3章6節)、にも両派が手を組んでいたことがありましたが、ファリサイ派はユダヤ教の教えを大切に守ろうとする保守的なグループで、ローマの支配には反対していました。一方、ヘロデ派はローマと協力しながらヘロデ王家を支えていた、ローマ寄りの人たちです。立場がまったく違うこの二つのグループが協力したということは、それだけイエスに対する敵意が強かったことが読み取れます。14節を見てみましょう12:14 彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」彼らはまずイエスのことを「先生」と呼び、尊敬しているかのようなそぶりを見せます。「あなたが真実な方で、だれをもはばからない方である」「人々を分け隔てしない」「真理に基づいて神の道を教えている」といった言葉は、一見するとイエスを敬っているように聞こえますが、実はイエスからはっきりとした答えを引き出すための策略でした。続いて彼らは質問を投げかけます。それは、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」というものですが、この質問はイエスを陥れるための巧妙な罠だったのです。もしイエスが「納めるべきだ」と答えれば、ローマの支配に反対する民衆の反感を買ってしまいます。逆に「納めてはならない」と答えれば、ローマ政府への反逆とされ、逮捕の理由を与えてしまいます。いずれにせよ、イエスを窮地に追い込むための質問でした。この「税金」とは人頭税のことで、14~65歳の男性と12~65歳の女性に一人当たり一デナリオンが課税されていました。収入額にかかわらず、一人につき一定額を課す税制でした。15節を見てみましょう12:15 イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」イエスは、彼らの質問の裏にある悪意や偽りの心をすっかり見抜いていました。彼らは、質問の答えを知りたいのではなく、イエスを罠にかけることだけが目的だったのです。イエスはそのことを指摘して、「なぜ、わたしを試そうとするのか」と言われました。続いて、「デナリオン銀貨を持って来て、見せなさい」と言われます。デナリオン銀貨はローマの貨幣で、そこには皇帝の顔と名前が刻まれていました。また、1デナリオンは1日分の労働者の賃金に相当します。イエスがその銀貨を見せるように言われたのは、ただ言葉だけで議論するのではなく、実物を通して話を進めるためでした。この銀貨は、ローマの支配や権威を象徴するものだったのです。16,17節を見てみましょう。12:16 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、 12:17 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。彼らは、イエスの答えに驚きました。イエスはデナリオン銀貨を見せるように言い、その硬貨に刻まれている肖像と文字が誰のものかを尋ねました。彼らは「皇帝のものです」と答えるしかありませんでした。当時のローマの硬貨には、皇帝の顔とその権威を示す文字が刻まれており、それが皇帝の所有物であり、支配のもとに流通していることを意味していました。彼らがこの銀貨を持っていたこと自体、ローマの支配を受け入れている証拠でもありました。イエスは、皇帝の顔が刻まれた硬貨は皇帝に返すべきだ、つまり税金は納めるべきだと語りました。これは政治や経済の領域に関する問題です。ただし、それはローマの権威をある程度認めつつも、その力が及ぶ範囲には限りがあることを示しています。 そして、より重要なのは、「神のものは神に返しなさい」ということです。人は神のかたちに造られた存在(創世記1:27)であり、神に属しています。だからこそ、人は自分自身を神にささげるべきだとイエスは教えました。これは信仰に関する問題です。このようにイエスは、税金という現実的な義務と、神に対する根本的な義務とを区別し、それぞれにふさわしい応答を示されました。この答えに、イエスを陥れようとした人々は驚き、何も言い返すことができませんでした。彼らの策略は失敗に終わったのです。この17節は、私たちが何に究極的な価値を置くべきか、何に本当の忠誠を誓うべきかを示しています。これは生き方の指針となります。政治的な義務と信仰とを区別しつつ、神を第一とする絶対的な忠誠が求められているのです。神様firstです。今日、まず覚えて頂きたいことはと最優先は神いうことです。

②聖書通読をしよう

税金問題でファリサイ派とヘロデ派が沈黙した後、次にイエスのもとにやってきたのは「サドカイ派人々」でした。18節を見てみましょう。PPT12:18 復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。サドカイ派は、ユダヤ教の重要な宗派の一つであり、特にエルサレムの神殿に関わる宗教的・政治的な権力を持っていました。彼らはモーセ五書だけを重要視していたため、預言書に約束されている救い主がこの世に遣わされているのにもかかわらず、それに気が付くことがありませんでした。彼らは死者の復活と天使の存在を否定し、他の宗派、特にファリサイ派と対立していました。19節から23節にはサドカイ派の人々が「人は死んだ後に復活する」と教えていたイエス様を困らせようとして、少し極端な例を使って質問したのです。見てみましょう。12:19 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 12:20 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎ましたが、跡継ぎを残さないで死にました。 12:21 次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。 12:22 こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。 12:23 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」彼らは、モーセの律法にある「レビラート婚」──兄が子どもを残さずに亡くなった場合、弟が兄の妻と結婚して子どもをもうけるという決まり──に基づいて、極端な仮の話を考えました。七人兄弟が順番に一人の女性と結婚しましたが、誰との間にも子どもはできず、結局全員が亡くなってしまったという話です。そして、「もし人がよみがえるのなら、この女性は七人のうち誰の妻になるのか?」とイエスに問いかけました。彼らはこの質問を通して、よみがえった後の世界でも、今の地上と同じように結婚関係が続くと考えていました。そのため、そのような状況はおかしい、ありえないと主張し、よみがえりそのものを否定しようとしたのです。彼らにとって、結婚や家族といった関係は、この世の生活だけに関わるものであると考えていたのです。しかし、イエスは彼らの質問が根本的に間違っていることを見抜いておられました。24節を見てみましょう。 12:24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。イエスの答えは、サドカイ派の人々の質問の考え方そのものをくつがえすものでした。イエスは彼らの質問に直接答えるのではなく、その根本にある二つの問題を指摘されました。それは、聖書の内容をよくわかっていないことと、神の力を知らないことです。サドカイ派は、復活を否定していました。また、神には死んだ人を生き返らせる力があることも信じていませんでした。「思い違い」と訳されている言葉は、もともとの言葉では「道に迷う」「道をそれる」という意味です。つまり、イエスはサドカイ派が正しい教えから外れて、間違った考えにとらわれていることをはっきりと示されたのです。サドカイ派の人々の誤りは、聖書と神の力を知らなかったことにありました。この箇所から、大事な適用が見えてきます。それは、聖書を自分の好きな場所だけを読まないということです。いわゆる「つまみ読み」をしてはいけません。聖書は旧約聖書と新約聖書の66巻から構成されています。信仰歴の浅い方々には、読みづらい書簡もあるかもしれません。私もそうでした。教会に通い始めた頃、旧約聖書は大昔の話で、私には関係がないように思えました。特に人名の羅列が多い歴史書が苦手でしたが、聖書通読を重ねるうちに、歴代誌は神の救いの歴史を「人」を通して語られていることが分かりました。ぜひ、自分のペースで構わないので、聖書通読を続けていきましょう。今日、二番目に覚えて頂きたいことは聖書通読をしょうということです。

③神との生きた関係が復活を保証する

25節を見てみましょう。12:25 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。ここでイエスは、復活後の存在のあり方が、この世の生活とは根本的に異なることを教えています。復活した人々は天使のようになると語られました。これは、復活した体が天使と同じになるという意味ではなく、むしろ天使のように結婚や性的な関係を持たないという特定の点において似ているということです。この答えによって、イエスはサドカイ派の「復活後も結婚関係が続く」という前提を否定し、その質問自体が意味をなさないことを示されました。復活後の存在は、この世の人間関係の単なる延長ではなく、質的にまったく新しいものなのです。 26,27節を見てみましょう。12:26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。 12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」続いて、イエスは、サドカイ派が権威を認めているモーセ五書の中から、復活の根拠を示されました。「モーセの書の『柴』の個所」とありますが、出エジプト記3章6節からの引用です。開いて見ましょう。同段落PPT3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」このみことばは、アブラハム、イサク、ヤコブといった族長たちがすでに亡くなった後に語られたものですが、注目すべきなのは、神が「わたしは〜である」と現在形で語っていることです。アブラハム、イサク、ヤコブは、肉体的にはモーセの時代よりもずっと前に亡くなっていましたが、神は「彼らの神である」と語っておられます。これは、彼らが神との関係の中で、今も生き続けていることを示しているのです。神は生きている者の神であり、死んでしまっただけの者の神ではありません。つまり、神が今もアブラハム、イサク、ヤコブの神であり続けておられるということは、彼らが神のもとで生きているということであり、復活があるという証しなのです。アブラハム、イサク、ヤコブもまた神のもとで生きている者として、終末における復活と完全な救いを待っているのです。サドカイ派は復活を否定するためにモーセ五書を使っていましたが、イエスはその同じモーセ五書を用いて、彼らの考え違いを正し、復活の真実を示されました。サドカイ派の大きな間違いは、聖書をうわべだけで読んでいたこと、そして神の力や約束の深さをしっかり理解していなかったことにあります。イエスはここでも、聖書に対する深い理解と神の権威をもって、反対する人々を黙らせました。「神は死んだ人の神ではなく、生きている人の神です。」この真理は私たちに深い希望を与えます。困難や悲しみの中でも、神の永遠の命に招かれているという確信を持って生きることができます。そして、神が生きている者の神であることが、復活の確かな根拠です。この復活の希望は、私たちの死への恐れを取り去り、日々の生活に意味と目的を与え、苦しみの中でも耐える力になります。神は過去の神ではなく、今、ここで私たちと共に生きている方です。この生きた神との関係が、私たちを生かし、未来への希望を与えてくれます。この真理によって、私たちは希望の中で生きることができます。今日、最後に覚えて頂きたいことは神との生きた関係が復活を保証するということです。

Today’s Takeaways ①最優先は神 ②聖書通読をする ③神との生きた関係が復活を保証する