• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2025年7月6日主日礼拝 伏見敏師

説教題真の権威-隅の親石となったイエス 聖書箇所:マルコによる福音書11章27節-12章12節

◆権威についての問答 11:27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、 11:28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」 11:29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。 11:30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」 11:31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。 11:32 しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。 11:33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」 ◆「ぶどう園と農夫」のたとえ 12:1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 12:2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。 12:3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。 12:4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。 12:5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。 12:6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。 12:7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 12:8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。 12:9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。 12:10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。 12:11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」 12:12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。

ハレルヤ!七月の第一主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおりますが、ペンテコステ記念礼拝やウエルカム礼拝、講壇交換などがあり、一か月振りの講解説教となります。これで35回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。11章12-25節を通して、「信仰の実を結ぶ~信仰、祈り、赦し~」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①形式主義に陥らない ②神殿は神聖な場所 ③十字架によって赦されている でした。今日は続く11章27節-12章12節を通して「真の権威-隅の親石となったイエス」と題しお話しします。

今日の聖書箇所には、二つの出来事が記されています。新共同訳聖書の小見出しは「権威についての問答」と「『ぶどう園と農夫』のたとえ」となっていますが、まったく別の話題ではありません。11:27 「一行はまたエルサレムに来た。」から始まり12:12「イエスをその場に残して立ち去った。」とあるように一連の出来事として理解すべきものなのです。

①権威は神から与えられる

では、27節から順番に見てまいりましょう。11:27 一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、エルサレムに戻られた「一行」は、「神殿の境内」を歩いておられました。その少し前、群衆はイエスをメシアとして迎え入れ、彼は神殿の中で商売をしていた人々を追い出すという行動を起こされました。これらの出来事がエルサレムの宗教指導者たちの間で大きな波紋を呼んだことは、想像に難くありません。「神殿の境内」とは、異邦人も入ることができる外庭を含む神殿全体の広い場所であり、ラビたちが人々に教えを説いていた場所です。ここはイエスがしばしば活動されていた場所でもあります。そこに、「祭司長、律法学者、長老たち」がやって来ました。彼らは当時のユダヤ教の最高指導機関である「サンヘドリン」のメンバーで、エルサレムの宗教的権力者たちでした。28節を見てみましょう。11:28 言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」当時、ユダヤ人の指導者たちは団結してイエスに立ち向かっていました。「祭司長、律法学者、長老たち」がそろってイエスに詰め寄った様子から、彼らが宗教的にも法律的にも、そして社会的にも一致してイエスを否定しようとしていたことがわかります。ここで「権威」と訳されている言葉は、単なる「力」という意味ではありません。元のギリシャ語では、「正式に認められた権限」「神から委ねられた正当な力」といった深い意味を持っているのです。指導者たちは、イエスが本当に神から遣わされた者なのか、その資格を本気で問い質そうとしていたのでした。「これらのこと」という言葉は、直前の「宮清めの事件」(マルコ11:15-19)を主に指していますが、イエスの教え全体や、エルサレム入城時の「王としての振る舞い」も含んでいると考えられます。実は、この質問は単なる疑問ではなく、イエスを陥れる罠でした。もしイエスが「この権威は神から来ている」と答えれば、冒涜罪で訴えることができ、「自分自身の権威だ」と答えれば、勝手な行動だと非難できるからです。この質問に対する主イエスのお答えが29,30節です。見てみましょう。11:29 イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。 11:30 ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」イエスは直接答えを述べる代わりに、逆質問を投げかけました。これは当時のユダヤ教の教師(ラビ)たちがよく用いていて、相手の真意や矛盾点を明らかにするための手法でした。イエスの知恵と戦術的な賢さが分かります。イエスは「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」と質問しました。このイエスのお答えに対する「祭司長、律法学者、長老たち」の行動が31,32節に描かれています。11:31 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。 11:32 しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。「祭司長、律法学者、長老たち」は、ジレンマに陥りました。どちらの答えを選んでも、自分たちにとって都合が悪いことに気づいたからです。もし、ヨハネの洗礼が「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と民衆から責められるだろう。また、「人からのものだ」とは言えないだろう、と彼らは悩みました。当時の多くの人々は、ヨハネを本物の預言者だと信じていたからです。ヨハネは多くの民衆だけでなく、一部の指導者たちからも尊敬されていた預言者でした。また、ヨハネは「イエスこそ救い主である」と証言していたことが、聖書(マルコ1:7-8)に記されています。もしヨハネの権威が「天から」(神から)来たものであるならば、イエスについての彼の証言も真実であることになります。反対に、それが「人から」のものであるならば、無視してもよいことになります。つまり、指導者たちがヨハネをどう考えているかによって、イエスをどう見るかが決まってくるのです。33節を見てみましょう11:33 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」結局、彼らは「分からない」と答えるしかありませんでした。ヨハネの権威、ひいてはイエスの権威を認めたくなかったからですが、自分たちに都合の悪いことは認めようとしない彼らの態度がわかります。そして、彼らの態度から、二つことがわかります。まず、彼らには神への真の信仰が欠けていました。次に、真理を探すより、人々がどう思うかばかり気にしていました。第三に、自分たちは権威があると主張しながら、実は大衆の人気に依存していたのです。彼らは権威を主張する一方で、その権威を支えるべき信仰と真実を見失っていたのです。この出来事によって、指導者たちは国民の霊的指導者としての資格を自ら失ってしまったと言えるでしょう。そんな彼らの答えに対して、イエスは「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と明言されました。イエスは人間の承認を求めておらず、その権威は神から直接与えられていました。指導者たちがヨハネの使命さえ認めない態度は、イエスを受け入れる心構えが全くないことを示していました。この出来事は、真実を知りたいと願わない人に真理を説いても意味がないという教訓を伝えています。権威は神から与えられるものです。当時の祭司長や律法学者、長老たちと同じように、私たち一人ひとりにも何らかの権威が与えられており、その権威を背景に行動しています。たとえば、親としての権威、教師としての権威、会社での立場にともなう権威などがそれにあたります。そのように与えられた権威を、与えてくださった神を恐れ敬いながら用いているのであれば、問題はありません。しかし、その権威を自分の力や立場の証しとして振りかざそうとしてはいないでしょうか。もしそうであるなら、その権威はもはや神からのものではなく、人間的な権威にすり替わってしまっているのです。だからこそ、私たちは日々の生活の中で、神の権威をどのように受けとめ、それにどのように応えているかを振り返ることが大切です。この聖書の箇所は、神の権威を退けることがどれほど危ういことかを教えてくれる、私たちへの警告でもあるのです。今日、まず覚えて頂きたいことは権威は神から与えられるということです。

②裁きは必ず下る

イエスは宗教指導者たちと話した後、彼らにぶどう園のたとえ話をしました。みんなが知っている「ぶどう園と農夫 地主と農夫」の話を使うことで、イエスは神とイスラエルの民、そしてその指導者たちとの関係をうまく説明したのです。例え話ですので、まず、何が何に例えられているのかを確認します。

たとえ表すもの
ぶどう園の地主
ぶどう園イスラエル
農夫宗教指導者
預言者
愛する息子イエス・キリスト
従順、義

12章1節を見てみましょう。12:1 イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。12章1-12節は11章27-33節の続きで、権威についての議論に対するイエスの答えです。このたとえ話は、イザヤ書5章1-7節のぶどう園の歌を思い起こさせます。当時のユダヤ人なら、誰でもぶどう園がイスラエルの民を表す比喩だとすぐに理解できました。「垣を巡らし」とは、野生動物や泥棒から守るための囲いです。「搾り場を掘り」とは、ぶどうを踏んで果汁を取る場所を作ったということです。「見張りのやぐら」とは、収穫時に盗まれないように見張るための塔です。これらの描写から、地主がぶどう園に対してどれほど手間をかけ、期待していたかがわかります。「旅に出た」とありますが、これは神が遠くに行ってしまったという意味ではなく、管理を任せたというたとえの設定です。神学的には、神が人間に自由意志と責任を与えたことを示しています。 2-5節を見てみましょう。12:2 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。 12:3 だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。 12:4 そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。 12:5 更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。収穫の時期になると、主人は取り分を受け取るために使用人を送ります。しかし農夫たちはその使用人を捕まえて殴り、傷つけ、殺してしまいます。これらの使用人は、神が歴史の中で送ってきた預言者たちを表しています。預言者たちはイスラエルに悔い改めを求め、神のために良い実を結ぶよう呼びかけました。農夫たちが使用人を拒否し虐待したのは、実際に預言者たちが迫害されてきた歴史を表しています。使用人に対する暴力が次第にひどくなっていく様子は、イスラエルが何度も神の使いの声を聞くことを拒んできたことをよく表しています。 6節を見てみましょう。12:6 まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。ここで物語は大きな転換点を迎えます。主人は最後の手段として、自分の愛する息子を送りました。これはもちろん、神が御子イエス・キリストを世に遣わされたことを表しています。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」という言葉には、神の期待と希望が込められています。6節は、イエスが単なる預言者ではなく、神の御子であるという独自の立場を強調しています。 7,8節を見てみましょう。12:7 農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 12:8 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」とあります。農夫たちは、地主(神)の意思に反し、息子を殺そうと計画し、そうすればぶどう園を自分たちのものにできると考えました。農夫たちの行動の動機には、彼らの欲ばりな心や、自分たちで何もかも支配しようとする思い、そして地主の権利をまったく無視する姿勢がはっきりと表れています。これは、宗教の指導者たちが自分たちの力や立場を守ろうとして、イエスを受け入れず、最後には殺すことさえためらわなかった姿と重なります。 9節を見てみましょう。12:9 さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。ここでイエスは、このような拒絶に対する神の応答を示されています。「戻って来て」という言葉には、神さまの忍耐にも限りがあり、やがて裁きがくだされるということが示されています。そして、この裁きは、西暦70年にエルサレムと神殿が壊された出来事によって、ある意味すでに実現したと考えられることもあります。また、このことは、宗教の指導者たちの権威が失われて、新しい神の契約の共同体、つまり教会へと受け継がれていったことも表しています。「ほかの人々」という表現には、異邦人を含む新しい神の民のことが込められています。今日、二番目に覚えて頂きたいことは裁きは必ず下るということです。

③イエスは隅の親石となった

10,11節を見てみましょう。12:10 聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。 12:11 これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』」ここでイエスは、詩編118編22-23節の言葉を引用しています。開いて見ましょう。 118:22 家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。 118:23 これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。「親石」は英語の聖書では「Cornerstone」と訳されています。家の四隅に据えられ、建物の土台となる礎石のことで、建築のときに使われなかった、つまり価値がないと思われていた石が、実は建物全体を支える一番大事な石になった、という意味です。これは、イエスご自身のことを表しています。たとえ宗教の指導者たちに退けられても、神のご計画の中では、イエスが最も大切な場所に置かれるのです。この引用は、神のなさることが人間の考えをはるかに超えていることを表しています。うまくいかなかったように見えることが、実は勝利につながり、拒まれたことが、かえって高く引き上げられることになるのです。これは、イエスの復活をあらかじめ示している言葉でもあります。十字架での死は、無駄ではありません。神の救いのご計画の中心であり、イエスは死からよみがえられることで、本当に「隅の親石」となられたのです。今日、最後に覚えて頂きたいことはイエスは隅の親石となったということです。私は、「ぶどう園と農夫」のたとえを読むと、戦前のホーリネス弾圧事件を思い起こさずにはいられません。ホーリネス弾圧事件は、第二次世界大戦中の1942年から1943年にかけて、日本政府がホーリネス系キリスト教会を弾圧した事件です。二回に渡る検挙で計124名の教職者が逮捕されました。理由は「キリストの再臨」や「千年王国」の教えが、天皇統治を否定する国体に反すると判断されたためです。時の日本基督教団統理は「ホーリネスの学的程度が低いからだ」と弁明をしました。菅野鋭(すげの とし)先生や小出朋治(こいで ともはる)先生ら7名が獄死し、最終的に1943年4月にはホーリネス系教会が強制解散させられました。これは日本のプロテスタント教会史上最大の迫害事件です。しかし、彼らの犠牲的な信仰は戦後の日本のキリスト教復興の基盤となり、殉教者の子どもたちや弟子たちが戦後の教会指導者として立ち上がりました。この歴史的事実は、「ぶどう園と農夫」のたとえが単なる過去の物語ではなく、現代にも通じる神の計画の現実であることを力強く証明しています。権力者が神の僕たちを拒絶し、最愛の御子さえも十字架につけたように、この世は今も神の真理を語る者を迫害します。しかし、神の計画は必ず実現し、捨てられた石が最も重要な礎石となるのです。 最後の12節を見てみましょう。12:12 彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。宗教の指導者たちは、イエスが自分たちのことをたとえで言っていると気づき、イエスを捕まえようとしました。でも、群衆を恐れてそれができなかったのです。彼らのこうした反応は、自分たちの中にある罪の意識と、イエスの権威を受け入れたくない気持ちをはっきりと表しています。また、群衆を恐れて行動をためらったことは、彼らが神の真理よりも、人の目や評価を気にしていたことを示しています。たとえ話の意味をしっかり理解していたにもかかわらず、宗教の指導者たちは心をかたくなにしていました。そして、イエスを何とかして捕らえようとした彼らの思いは、自分たちの立場や権力を守るためには、力づくでも行動しようとする強い意志を示しています。

Toda’s Takeaways

①権威は神から与えられる ②裁きは必ず下る ③イエスは隅の親石となった