説教題:恵みがあなたの人生を変える 聖書箇所:エフェソの信徒への手紙2章8,9節
2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
ハレルヤ!8月の第四主日を迎えました。今年度から偶数月の第四礼拝はウエルカム礼拝を開催しており、本日がその第三回目となります。初めて教会に来られる方にも分かりやすい励ましのメッセージをお届けします。皆さんは、ご自身の人生に誇れるものがあると胸を張って言えますか?家柄、学歴、職歴、財産、人脈、あるいは誰にも負けない努力や立派な家庭を築いてきたという自負。人それぞれ、誇りとするものは違うかもしれません。一方で、誇れるものなんて何もないと感じている方もいるでしょう。人生が思い通りにいかず自信を失ったり、過去の失敗に囚われたり。こんな自分に価値があるのだろうかと、うつむいて生きている人も少なくないはずです。しかし、今日私たちが学ぶ聖書の言葉、エフェソの信徒への手紙2章8-9節は、そんな私たちに驚くべき希望を語りかけています。救いが私たちの努力や業績ではなく、ただただ神の恵みによるのだと。そして、それは誰も誇ることがないためだというのです。誇るものがあってもなくても、神の前では等しく、恵みによって救われるというのが、福音の中心です。今日は、「恵みがあなたの人生を変える」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。
①救いは神の恵み
2章8~9節をお読みします。2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。この短い二つの節には、聖書・キリスト教を理解する上で極めて重要な言葉が四つ記されています。「恵み、信仰、救われました、賜物」です。私が恵みという言葉を聞いたのは今から60年位前の未就学児童の時のことです。繁華街で、ホームレスの方が茣蓙の上に座り。かけた欠けた茶碗をおいて「右や左の旦那さま、どうかお恵みくださいな」と通行人に声をかけていました。恵みの特徴は、私たちが受ける資格がないのに、神様の大きな愛と憐みによって一方的に与えてくださることです。愛する親が小さな子どもにただ存しているから愛を与えるように、神の恵みも無条件の愛なのです。私たちが善人だから、努力家だから、信仰深いから救われるのではありません。罪人である私たちを、神がご自身の愛ゆえに受け入れてくださるのです。私たちは皆、神様の前に罪人で、嘘をついたり、人を傷つけたり、神様よりも自分を優先したりして生きています。本来なら、神様から裁かれても仕方がない存在です。ローマの信徒への3章23節を開いてみましょう。3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、「罪」の元々に意味はギリシャ語のハマルティアと言い、その意味は「的外れ」です。それでも、神はそのような私たちを見捨てず、御子イエス・キリストを通して救いの道を備えてくださいました。キリストの十字架は私たちの罪のための犠牲であり、信じる者すべてに罪の赦しという最大の恵みをもたらしてくださったのです。今日、まず覚えて頂きたいことは救いは神の恵みということです。
②救いは信仰によって受け取る
私たちは普段、何かを得るためには努力しなければならないと考えます。しかし、神様との関係、永遠の救いについては、私たちの努力や行いによるものではありません。これは神様からの完全な贈り物なのです。「救われたと」あります。交通事故から間一髪で救われたという場合がありますが、聖書で救われたという場合は、単に難儀を逃れることではありません。救われるとは永遠の刑罰からの解放、つまり永遠の命が与えられる、天国に行けることです。では、救われるためになにをすればよいのでしょうか。それが信仰です。聖書が教える救いは信仰によって与えられます。私たちが何か良いことをして救いを得るのではなく、神がなしてくださったことを信じるときに、それが私たちのものとなるのです。プレゼントを差し出されても、受け取らなければ自分のものにはなりません。神様は救いという最高のプレゼントを私たちに差し出してくださいました。それがイエス・キリストの十字架です。ここでの信仰とは、単なる知的な同意ではありません。それは全人格をもって神に信頼することです。椅子に座るとき、その椅子が自分を支えてくれることを信じて身を委ねるように、私たちは神の愛と約束に全身全霊で信頼するのです。イエスは、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださり、三日目に復活されました。これによって、私たちの罪が赦され、神様との関係が回復されました。しかし、この救いは信仰によって受け取らなければ、自分のものになりません。信仰による救いとは、「神様、あなたがイエス様を通して私を愛し、救ってくださったことを信じます。私の罪を赦してください。私の救い主として、イエス様を心に迎えます」と告白することです。そのことが、ローマの信徒への10章9,10節に記されていますので見てみましょう。 10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。 10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。この信仰による救いは、私たちが何をしたかではなく、信仰によって決まります。良いことをたくさんしても、それだけでは天国には行けませんし、悪いことをしてしまった過去があっても、救いを受けることはできます。なぜなら、救いは私たちが頑張って手に入れるものではなく、神様からの恵みによる贈り物だからです。つまり、信仰による救いは、人間の努力や過去の行いを超えた、神様の愛と恵みによるものなのです。そして、聖書は「このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」と宣言しています。賜物には主の栄光を現すために全てのキリスト者に与えられている能力という意味もありますが、この箇所の賜物は贈り物、プレゼントという意味です。なぜ、神の賜物なのでしょうか。神様の基準があまりにも高く、私たち人間の力では到達できないからです。神様は完全に聖なる方で、少しの罪も汚れも受け入れることができません。罪を犯さない人間はいません。透明なガラスのコップに一滴でも墨を垂らせば、もうそれは透明ではなくなってしまうのと同じです。だからこそ神様は、私たちが自分の力でできないことを、イエスを通してしてくださいました。イエスが私たちの代わりに完璧な人生を送り、私たちの代わりに罪の罰を受けてくださったのです。これは完全に神様の恵みで、私たちが何かをしたから与えられるものではありません。救いは神からの完全な贈り物です。私たちは、自分の正しさを誇る必要もなければ、失敗や罪に押し潰される必要もありません。イエス・キリストの十字架のもとに来るとき、神は恵みにより私たちを受け入れてくださるのです。「行いによるのではありません」という言葉も、とても大切です。宗教的な人々は、しばしば良い行いをすることで神様に受け入れられようとします。お祈りをたくさんしたり、教会に毎週通ったり、献金をしたり、ボランティア活動をしたりします。これらは確かに良いことです。しかし、これらの行いによって救われるのではありません。救いは、これらの行いの結果ではなく、神様の恵みによるものです。良い行いは、救いを得るための手段ではなく、救いを受けた結果として自然に現れるものです。皆さん、この柔和な顔の吉田芳幸さんという男性をご存じですか。

吉田芳幸さんは、わずか16歳でヤクザの道に入り、大阪最大級の組織の二代目会長にまで上り詰めました。しかし、実の兄が日本最大の暴力団の組員に射殺され、その仇を討つために狙撃計画を主導し、逮捕されて札幌刑務所に5年間収監されることになります。刑務所の中では命を狙われるような危険な状況もありましたが、不思議な守りの中で生き延びました。出所後にクリスチャンの韓国人女性と出会い、結婚し、やがて1990年にはイエス・キリストを信じて、ヤクザの世界を完全に離れる決断をしました。現在は大阪のベタニヤチャーチで長老として仕え、またアンテオケ国際神学校の理事長としても働きながら、日本全国、そして世界30カ国以上で伝道を続けています。特に刑務所を訪ね、「人は誰でも人生をやり直せる」と力強く語り、多くの人に希望を伝えています。その波乱万丈の人生は映画『親分はイエス様』のモデルにもなっており、神の恵みによって人がどのように変えられるかを証しする生きた証人です。吉田長老の証しは、行いではなく神の賜物としての信仰によって救われ、誇るべきもののない過去から真の自分を見出し、今は同じ境遇の人々に神の恵みを伝える姿を通して、エフェソ2章8〜9節の真理を体現しています。恵みが吉田芳幸さんの人生を変えたのです。私は数回、お会いしたことがありますが、吉田さんが反社会的団体に属していた方とはとても思えませんでした。今日、二番目に覚えて頂きたいことは救いは信仰によって受け取るということです。
③救いに人間の誇る余地はない
聖書箇所に戻り、「それは、だれも誇ることがないためなのです」とありますが、なぜ神は、誰も誇ることがないような救いの方法を選ばれたのでしょうか。それは、誇りが人間の最も根深い問題の一つだからです。誇りは人を神から遠ざけ、他者との関係を破壊します。もし救いが私たちの努力や善行によるものだとしたら、救われた者は自分を誇り、救われない者を見下すようになるでしょう。そこには必ず比較や競争、優越感や劣等感が生まれてしまいます。しかし、恵みによる救いは、すべての人を同じ地平に置きます。誰も他者より優れているとは言えません。すべての人が、等しく恵みを必要とする罪人であり、同時に等しく神の愛を受ける存在なのです。溺れて意識を失った人が救助されたとき、救助隊の功績であって、溺れた人の手柄ではありませんよね。救いも同じ構造です。天国では、誰も誇ることはありません。みんなが神様の恵みによって救われた罪人だからです。教会では、社会的地位も、経済状況も、教育レベルも全く違う人々が、同じように神様の恵みを感謝し、へりくだって神様を賛美しています。これが、神様が望まれる姿です。救いは、私たちを平等にします。私たちは、自分に誇るものがなくても、いや、誇れないと思っているまさにそのところから、神の恵みによって新しい命に生かされるのです。それは、立派な人だけに与えられるものではなく、むしろ、自分の弱さや足りなさを知る人こそ、心から受け取ることのできる恵みです。この世界は、しばしば私たちに成功しなければ価値がない、役に立たなければ存在意義がないと語りかけます。現代社会は成果主義や能力主義が支配し、頑張った人が報われ、能力のある人が成功すると考えられています。しかし、神の恵みは、そのような価値観を根底から覆します。神様の救いの世界では、頑張った人だけが救われるのではなく、能力のある人だけが天国に行けるのでもありません。神は、私たちが何者であるか、何を成し遂げたかではなく、単に私たちが神に愛されている存在だからという理由で、私たちを受け入れてくださるのです。神の前では、すべての人が等しく愛され、価値ある存在です。学歴も、職業も、収入も、容姿も関係ありません。この恵みは、失敗した人にとっては慰めとなり、成功した人にとっては謙遜を教えます。貧しい人にとっては希望となり、富める人にとっては真の豊かさを示します。また、自分が神に無条件に愛されていることを知る人は、他者からの評価に一喜一憂する必要がありません。失敗を恐れて挑戦をやめる必要もありません。神の愛という確固たる土台の上に立って、自由に、喜びをもって生きることができるのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは救いに人間の誇る余地はないということです。
このような恵みによる救いを体験し、それに生きる場として、神は教会という共同体を与えてくださいました。教会は、完全な人々の集まりではありません。むしろ、恵みを必要とし、恵みによって生かされている罪人たちの共同体です。教会において、私たちは互いの弱さを認め合い、支え合います。成功した人も失敗した人も、健康な人も病気の人も、若い人も年老いた人も、すべてが神の恵みによって一つとされています。そこでは、世の中の価値観ではなく、神の愛という価値観が支配します。そこで私たちは、神の愛を受け取ると同時に、他者にその愛を伝える使命を受け取ります。皆さんは、今、何を誇って生きていますか?あるいは、誇れるものが何もないと感じているでしょうか。聖書は語ります。「神の前で誇れるものは何もない。しかし、その誇りなき私たちにこそ、神の恵みが注がれている、と。もしあなたが、まだ神様の恵みを受け取っていないなら、今日がその日です。神様は、あなたが何をしたか、どのような人生を送ってきたかに関係なく、あなたを愛しておられます。あなたは完璧である必要はありません。良い行いをたくさんしてから神様のもとに来る必要もありません。ただ、罪人であることを認め、神様の恵みを信仰によって受け取ればよいのです。また、あなたが既に神様の恵みを受け取っているなら、今日改めてその恵みに感謝しましょう。私たちは、自分の力や行いによってではなく、ただ神様の恵みによって救われたのです。だからこそ、私たちは希望を持って生きることができます。この恵みに感謝して、今日から新しい歩みを始めましょう。祈り
愛する天の父よ、あなたの測り知れない恵みに感謝いたします。私たちが誇るべきものを何も持たない者であるにもかかわらず、御子イエス・キリストを通して救いの道を開いてくださったことを心から感謝いたします。この恵みを受け取っていない人がいるなら、今日この恵みを受け取ることができますように。そして、既に救われた私たちが、この恵みに感謝して、あなたの愛を証しする人生を送ることができますように。すべての栄光をあなたにお返しいたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
①救いは神の恵み ②救いは信仰によって受け取る ③救いに人間の誇る余地はない