• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2026年1月4日主日礼拝 伏見敏師

説教題:信じて遣わされる者たち-主が共におられる
聖書箇所:マルコによる福音書16章9-20節(新共同訳新約97-98頁)賛美   /

◆マグダラのマリアに現れる16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。16:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。◆二人の弟子に現れる16:12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。16:13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。◆弟子たちを派遣する16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。16:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」◆天に上げられる16:19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。16:20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕◇結び 二16:20 〔婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。〕

ハレルヤ! 1月の第一主日を迎えています。改めまして新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。今日は、マルコによる福音書の講解の50回目で最後となります。次週からはペトロの手紙一を講解で学びます。では、いつものように、前回のおさらいから始めましょう。16章1-8節を通して、「恐れず前に進もう-誰が石をどかしたのか」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①石は神が取り除いてくださる②生きておられる主に目を向ける③恐れず、前に進む でした。
 今日の聖書箇所は、マルコによる福音書の最終章です。復活のイエスが弟子たちに現れ、彼らを全世界へと送り出す場面が記されています。疑い深く、恐れに満ち、失敗ばかりだった弱い弟子たちが、どうして大胆な証人に変わったのでしょうか。その秘密は、「主が共にいてくださる」という約束にあります。この物語は、2000年前の出来事であると同時に、今日の私たちへの招きでもあります。
 ところで、マルコ16章9-20節は初代教会が付け加えた部分との学説があります。真偽を問うより、教会がこの言葉を信仰としてどう受け継いできたかが大切です。今朝は、マルコによる福音書16章9-20節から「信じて遣わされる者たち-主が共におられる」と題してお話をします。共に学んでまいりましょう。

①復活を信じて歩む

9節から順番に見てまいりましょう。16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。

「週の初めの日」(日曜日)は、ユダヤ人の安息日(土曜日)の翌日で、新しい週の始まりです。これは新しい創造を表します。「朝早く」は、闇から光へ、死から命への象徴です。教会が日曜日を「主の日」としたのは、イエスの復活に基づきます。
 復活のイエスが最初に現れたのがマグダラのマリアだったことは、当時驚くべき選択でした。女性の証言は法的に認められなかったからです。もし福音書が作り話なら、男性弟子を最初に選ぶはずです。しかし全ての福音書が女性を最初の証人と記すのは、これが真実である証拠です。社会で軽く見られていた女性を、最も大切な出来事の証人に選ばれたことは、「価値の逆転」を表しています。「後の者が先になり、先の者が後になる」というイエスの教えが、ここで実現しているのです。
 マリアは「以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人」です。「七」は完全数で、彼女が深く支配されていたことを示します。人々から避けられていた彼女に、イエスは癒しと尊厳を与え、最初の証人に選びました。これこそ福音の核心です。闇から光へ導かれた者が、その救いを証しするのです。

10 ,11節を見てみましょう。16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。16:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。弟子たちは「泣き悲しんで」いました。愛する師を失った悲しみ、メシアへの希望が崩れた絶望、そしてイエスを裏切った罪の思い—この三つが重なっていたのです。そんな絶望の中に、マリアは「イエスが生きておられる」という史上最大の喜びを伝えました。これは全てのキリスト者の使命です。私たちも復活の主に出会った者として、特に悲しむ人々にこの喜びを届けるよう遣わされています。
 彼らが信じなかった理由は二つあります。死者の復活が人間の常識を超えていたこと、そして女性の証言が軽視された社会だったことです。しかしここに大切な真理があります。復活信仰は、人間の理性や感情から自然に生まれるものではありません。復活は神の導きと聖霊の働きによって初めて信じられるのです。

12,13節を見てみましょう。16:12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。16:13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。「別の姿で」という表現は、復活したイエスの体が十字架の前と同じでありながら、どこか違っていたことを示します。弟子たちは目に見える証拠だけでは、神の助けなしにイエスだと分かりませんでした。イエスは特別な場所ではなく、普通の道で現れました。神は日常の中で私たちに出会ってくださるのです。
 13節には「この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった」とあります。二人の証言も信じられませんでした。この拒絶が、後に主が弟子たちを叱る理由となります。疑いの原因は情報不足ではなく、心が「かたくな」だったからです。信仰は証拠の多さで決まるのではなく、心を開くかどうかで決まります。

14節を見てみましょう。16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。「十一人」という数は、ユダを失った不完全さや傷、失敗を表します。イエスは、そんな不完全な弟子たちが弱り、恥じ、悲しんでいる時に来られました。「食事をしているとき」に現れたのは、関係の回復と交わりの始まりを意味します。
 イエスは弟子たちの「不信仰とかたくなな心をおとがめになった」のです。厳しく聞こえますが、これは愛の表れであり、期待と信頼の証しです。彼らの権威は自分たちの完璧さではなく、復活のキリストの恵みと力によるものです。主は責めるだけでなく、新しい使命へと導かれます。
 神は私たちの弱さを指摘されますが、そこから新しい働きへ導いてくださいます。私たちも信仰が弱まり、復活の力を忘れる時があります。しかし主は現れて、信じる心を新たにしてくださいます。疑いにとどまらず、「主は生きておられる」と告白し、日々主の臨在を信じて歩みましょう。今日まず覚えていただきたいことは、復活を信じて歩むということです。

②福音を伝える者として生きる

15節を見てみましょう。16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。主は弟子たちの失敗を指摘した後、すぐに「全世界」へ送り出すという大きな使命を与えました。これが「大宣教命令」と呼ばれる、キリスト教宣教の土台です。特に大切なのは、この宣教が「全世界」だけでなく「すべての造られたもの」にまで及ぶことです。これはキリストの支配が全宇宙に及ぶことを示しています。そしてこの命令は、昔の弟子たちだけでなく、今の教会への使命でもあります。
 19世紀のイギリスに、ハドソン・テーラーという青年がいました。医師を志していた彼は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい(マルコ16:15)」というこの言葉に動かされ、中国宣教へと進みました。当時の中国は外国人に閉ざされ、内陸に入ることは危険でしたが、テーラーは「神が命じられるなら、道を備えられる」と信じたのです。日本でも同じです。新島襄は命がけでアメリカに渡り、帰国後、同志社を創立して若者たちに福音を伝えました。「全世界へ」という使命は、国境を超えて、私たち日本人にも託されているのです。
 では、21世紀の私たちには、どのような「行って」があるのでしょうか?それは、学校で一人ぼっちの友達に「一緒にお昼食べよう」と声をかけることかもしれません。職場で疲れている同僚に「何か手伝える?」と聞くことかもしれません。SNSで誰かが傷つくような投稿を見た時、優しい言葉をかける勇気かもしれません。あるいは、長く連絡していない友人に「元気?」とメッセージを送ることかもしれません。
 大切なのは、遠くの特別な場所だけが宣教の場ではないということです。主が私たちを置かれた「今、ここ」—あなたの学校、職場、家庭、近所—が、宣教の最前線なのです。あなたのスマホも、趣味のコミュニティーも、すべてが「全世界」の一部です。
 「自分には特別な才能がない」とためらう必要はありません。イエスが最初の証人に選ばれたのは、七つの悪霊を追い出していただいたマリアでした。神は私たちの弱さや過去を超えて、福音の証人として用いてくださいます。今日二番目に覚えていただきたいことは、福音を伝える者として生きるということです。

③主が共におられる確信を持つ

16節を見てみましょう。16:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。16節は、福音に応える大切な結果を示します。救いは「信じること」と「洗礼を受けること」という行動に結びついています。洗礼は信仰のしるしですが、それ自体が信仰を生み出すものではありません。一方、福音を信じない人には滅びという結果がもたらされます。これは、イエスの復活の知らせが、無関心ではいられない大切なメッセージであることを示しています。福音は今すぐ応答すべき招きであり、信じるかどうかの選択には重い意味があります。滅びとは、神の恵みを自ら退けることによって生じる結果なのです。
「滅びの宣告」という厳しい言葉に戸惑うかもしれません。しかし神は、すべての人が救われて真理を知ることを望んでおられます(1テモテ2:4)。だからこそ私たちは、福音を伝える使命を与えられているのです。滅びとは、神の愛の招きを最終的に拒み続けることの結果です。

17,18節を見てみましょう。16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」主イエスは弟子たちを権威ある使節として遣わす時、言葉の真実を示す「しるし」を約束されました。「しるしが伴う」とは、奇跡が信仰に従って現れることです。これらは弟子たちの力ではなく、復活のキリストの力による「認証マーク」でした。「わたしの名によって」という言葉が鍵で、ここに主の権威と力が現れます。「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず」という言葉に戸惑うかもしれません。これは信仰を証明するために危険なことをするよう勧めているのでしょうか?いいえ、違います。イエスご自身が「神を試みてはならない」(マタイ4:7)と教えておられます。
 この約束の真の意味は何でしょうか?使徒言行録28章で、パウロは宣教中に毒蛇に噛まれましたが害を受けませんでした。これは自分から危険を求めたのではなく、福音のために遭遇した危険から神が守られた出来事です。この約束は、「福音のために避けられない危険」に対する神の守りの保証なのです。

19節を見てみましょう。16:19 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。昇天は、イエスの地上での苦しみと贖いの働きが完成した出来事です。それはイエスが天の栄光と支配の座に入った「即位の儀式」と言えます。「神の右の座に着かれた」という表現は、最高の権威と支配、敵への勝利を意味します。キリストは父なる神からすべての権威を委ねられ、「王として即位された」のです。イエスが神の右に座すことは、贖いの完成、私たちのとりなし、全宇宙の支配を示しています。

20節を見てみましょう。16:20 一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕◇結び 二16:20 〔婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。〕この最終節は、キリストの即位と教会の使命が深く結びついていることを示します。弟子たちは主から使命を受けると、すぐ「出かけて行って」福音を伝えました。かつて疑いと恐れで弱かった彼らが大胆になったのは、聖霊の力によるものです。
 宣教の鍵は、昇天され神の右に座して、全宇宙の支配を示しているキリストが今も「彼らと共に働き」続けることです。これが教会の力の源です。イエスは離れるために天に上げられたのではなく、聖霊を通してより深く共におられます。福音の真実を「それに伴うしるし」で示されました。使徒言行録のしるしや、教会の存続自体が主の臨在の証しです。
 弟子たちは弱く不信仰でした。しかし主は、その弱さを超えて「行きなさい」と遣わされました。今日の私たちにも同じ主が語りかけます。信仰とは、すべてを理解してから歩むことではなく、「主が共におられる」という約束を信じて一歩踏み出すことです。その一歩に主は伴われます。
 さて、復活の主が弱い者を証人として選び、昇天した主が今も共に働かれることを学びました。では、なぜこんなにも不完全な私たちが「全世界へ」と遣わされるのでしょう。その根拠は二つあります。
 第一に、復活の主があなたを証人として選ばれた事実です。弱さにもかかわらず、主はあなたに出会い、価値ある者として立ててくださいました。第二に、昇天した主が「必ず共におられる」という約束です。あなたを通して主の権威と力が現されます。私たちが遣わされる根拠は自分の力ではなく、「主ご自身」にあります。この確信が、臆病な弟子たちを変え、私たちを「信じて遣わされる者」へと変える力なのです。
 だからこそ、今週あなたは一歩を踏み出せます。主が共におられると信じて踏み出すその一歩は、隣人への一声かもしれません。SNSでの正直な投稿、あるいは避けてきた誰かへの赦しかもしれません。
 私たちは今、新しい年の始まりに立っています。喜びの日も、思い通りにならない日もあるでしょう。しかし変わらない事実があります。主は今年の最初から最後まで、あなたと共におられます。私たちが完全だからではなく、主が真実であられるからです。
 弟子たちがそうであったように、主は「弱く小さな私たち」を通して働かれます。新しい年の扉は、恐れではなく信頼によって開かれます。主が共におられることを確信して、「信じて遣わされる者」として一歩を踏み出しましょう。今日最後に覚えていただきたいことは、主が共におられる確信を持つということです。

Today’s Takeaway

①復活を信じて歩む ②福音を伝える者として生きる ③主が共におられる確信を持つ

祈り

主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

天の父なる神様、新しい年を迎え、御前に集うことができる恵みを感謝いたします。過ぎ去った一年も、あなたは私たちと共にいてくださいました。復活の主イエス・キリストが今も生きておられ、この新しい年も私たちと共に働いてくださることを感謝いたします。どうか、弱い私たちをも福音を伝える器として用いてください。近くにいる人々に、あなたの愛と救いを伝える者としてください。この一年、困難の中でも「主が共におられる」という確信をもって歩むことができますように。また、日本に住む多くの未信者の方々を憐み、求道者の方が信仰へと導かれますようお導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。