説教題:生きた石として共に建てられる
聖書箇所:ペトロの手紙一 2章1-10節 講解③
中心成句:2章5節 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
今日の聖書箇所で、ペトロは迫害のただ中にあった初代のキリスト者たちに向けて、「神の民として、どのような立場と使命を与えられているのか」を語っています。信仰が個人の内面だけにとどまるものではなく、共同体として建て上げられていくものである、という方向性を示します。キリストを信じた者は、キリストという確かな土台の上に、互いに結ばれ、教会として建てられていく「生きた石」とされるのです。
①霊的成長を求め続ける(1-3節)
ペトロは「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」と語ります。教会が「霊的な家」として建て上げられていくためには、これらの罪をそのままにしておいてはいけません。健全な共同体は、まず自分自身の悔い改めから始まるものです。 「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」とありますが、これは聖書、御言葉です。十字架で罪が赦され、復活によって新しい命を与えられ、神の子として生きる恵み。それが混じりけのない乳です。私たちは、自分の努力で成長するのではありません。御言葉に養われ、イエスと結ばれて歩むことで、少しずつ成長していくものなのです。「味わう」という言葉は、頭で理解するだけでなく、実際に体験することです。一度神の恵みを「味わった」人は、もっと知りたい、もっと近づきたいと、求めるようになります。私たちは御言葉と祈りを通して霊的に養われ、成長するのです。
②イエスを土台とする(4-8節)
「主のもとに来なさい」は、日々の歩みの中で繰り返される招きです。どのような中にあっても霊的に成長することができる秘訣は、キリストという確かな土台の上に留まり続けることです。
イエスが「生きた石」であるなら、そのイエスにつながっている私たちもまた「生きた石」です。神は、世の中が「価値がない」と見なす者を拾い上げ、磨き、「霊的な家」である教会を支える大切な石として用いてくださいます。 しかし、石は一つでは家になりません。教会には、年齢も背景も考え方も異なる人たちが集まっています。そこから不満が生まれることもあります。しかし、そこでイエスを思い出すのです。「イエスは、こんな私を赦してくださった。ならば、私も相手を赦したい」と。意見の異なる人を祈りつつ、言葉を選び、相手を立てる言葉へと変えていく。これが、「生きた石として共に建てられる」教会の姿です。 私たち一人ひとりが「聖なる祭司」とされています。日曜日だけが礼拝なのではありません。日々の生活そのものが、神に献げられる霊的な献げ物です。
③神の民として生きる(9-10節)
ペトロは、キリスト者のアイデンティティを四つの呼び名で語ります。「選ばれた民」「王の系統を引く祭司」「聖なる国民」「神のものとなった民」です。このような呼び名が与えられたのは、暗闇から光へと招いてくださった神の御業を、伝えるためです。10節では、「かつて」と「今」が対比されています。「神の民ではなかったが、今は神の民とされた」。この変化こそ、福音の力です。神の民として生きるとは、完璧になることではありません。憐れみによって生かされている者として、日々を歩むことです。その歩みを通して、神の光は静かに周りへと広がっていくのです。
今日、私たちは三つのことを学びました。第一に、霊的成長を求め続けること。第二に、イエスを土台とすること。第三に、神の民として生きることです。私たちの「かつて」と「今」の変化そのものが、何よりの証しです。まだイエスを信じていない方へ。主は「わたしのもとに来なさい」と招いておられます。神様はあなたも「生きた石」として選び、ご自身の家に加えたいと願っておられるのです。