• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2026年2月22日主日礼拝説教要旨 伏見敏師

今日はウエルカム礼拝として、初めて教会に来られる方にも分かりやすいメッセージをお届けします。ザアカイという一人の男の物語を通して、人生を変える出会いについて学びます。この短い物語の中に、私たちの人生を変える三つの大切な真理が込められています。

①勇気をもって見えない壁を越える(1-4節)

ザアカイは徴税人の頭で金持ちでしたが、ローマ帝国に協力して同胞から税金を取り立てる裏切り者と見なされ、誰からも嫌われていました。お金はあっても心の平安がない、地位はあっても本当の友がいない、彼の心には大きな空洞がありました。イエスという人が町を通るという噂を聞いたザアカイは、イエスがどんな人か見たいと思いました。これは単なる好奇心ではなく、自分の人生を変えてくれる何かを探していたのです。しかし彼は背が低く、群衆は彼を嫌っていたので道を譲ってくれず、何も見えませんでした。ザアカイはあきらめず、走って先回りし、木に登りました。当時の社会で、大人の男性が、しかもお金持ちで地位のある人が人前で木に登ることは恥ずかしいことでしたが、ザアカイはプライドよりもイエスを見たいという思いの方が強く、人の目という見えない壁を越えたのです。私たちにも「教会に行くなんて弱い人間だと思われるのでは」といった見えない壁があります。人生を変える出会いのためには、時に、自分のプライドや見栄を捨てる勇気が必要なのです。

②神があなたを探している(5-7節)

イエスがその場所に来られた時、立ち止まり、上を見上げて木の上にいるザアカイに声をかけられました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。イエスはザアカイの名前を知っておられました。二人は初対面でしたが、イエスにとってザアカイは群衆の中の一人ではなく、かけがえのない一人の人でした。神はあなたの名前を知り、あなたの心の奥底まで分かっておられます。あなたの過去の失敗も、今の苦しみも、未来の不安も、すべてご存じで、その上であなたを愛し、受け入れてくださるのです。そして注目すべきは、声をかけたのはイエスの方からだったということです。これが福音の本質です。私たちが神を探す前に、神が私たちを探しておられるのです。多くの人は、自分が良い人間になったら神に近づこうと思いますが、聖書は逆です。神の方から、あなたに近づいてくださるのです。あなたがどんな状態でも、神はあなたを探し、あなたの名前を呼んでおられます。当時、誰かの家に泊まることはその人を完全に受け入れることを意味しました。イエスは、社会から拒まれていたザアカイを完全に受け入れると宣言されたのです。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えました。長い間、誰からも本当に受け入れられなかった彼が、ついに受け入れられたのです。

③キリストの愛が新しい人生を開く(8-10節)

イエスとの出会いは、ザアカイの心を完全に変えました。彼は立ち上がって言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。イエスはザアカイに金を返せとも寄付しろとも一言も言われませんでした。それなのに、ザアカイは自ら進んでそうしたのです。これが本物の変化です。イエスの愛と受け入れを経験したことで、ザアカイは内側から変わりたいと願ったのです。神の愛を体験した時、人は内側から変えられていくのです。神は、あなたが完璧になるのを待っておられるのではなく、今のあなたのままで愛し、受け入れてくださいます。イエスは宣言されました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。「今日」という言葉に注目してください。救いは将来の約束ではなく、今この瞬間に起こることなのです。ザアカイは何年も修行をしたわけでも特別な儀式を受けたわけでもありません。ただイエスを信じ、受け入れたその日に、救いが彼のものとなりました。救いとは、単に罪が赦されることだけではなく、神との関係が回復され、新しい人生が始まることです。イエスは、失われた一匹の羊を探す羊飼いの愛をもって、ザアカイを探しておられたのです。

今日、私たちは三つのことを学びました。勇気をもって見えない壁を越える、神があなたを探しているということ、キリストの愛が新しい人生を開くです。ザアカイがイエスを探していたように見えましたが、実はイエスの方がザアカイを探しておられました。イエスは今も、失われた者を探しておられます。イエスは今も、名前を呼んでおられます。イエスは今も、「あなたの家に泊まりたい」と言っておられます。この招きに応答するのに、特別な資格は要りません。今のあなたのままで良いのです。ザアカイのように、ただイエスを迎え入れる、それだけで良いのです。