• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2025年7月27日 主日礼拝 伏見敏師

説教題: 愛の掟-ダビデが『主』と呼んだお方 聖書箇所:マルコによる福音書12章28-37節

◆最も重要な掟 12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。 12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」 12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。 ◆ダビデの子についての問答 12:35 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。 12:36 ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』 12:37 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

ハレルヤ!七月の第四主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、その36回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。12章13~27節を通して、「神様first-永遠の希望に生きる」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①最優先は神 ②聖書通読をする ③神との生きた関係が復活を保証する でした。今日は続く12章28-37節を通して「愛の掟-ダビデが『主』と呼んだお方」と題しお話しします。既に学んできていますが、当時の宗教家や学者たちは、イエスを恨み、ことあるごとにイエスを陥れようと企んでいました。サドカイ派の人たちの意地の悪い質問に対して、イエスは巧みに答えました。それを見て、今度は一人の律法学者が質問をし始めました。律法学者とは、モーセ律法を正しく行うために、どのような条項や細則を守るべきかを研究していた人々です。28-34節には律法学者と主イエスの問答が記されています。

①神を愛し隣人を愛す

28節から順番に見てまいりましょう。12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」一人の律法学者がイエスに近づき、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねました。この律法学者は、イエスに対する敵意を持っていたわけではなく、イエスが他の宗教家たちに対して見事な答えをしたのを見て感銘を受け、質問を投げかけたと考えられます。当時のユダヤ教においては、モーセの律法に613もの掟が存在するとされており、どの掟が最も重要であるかという議論は学者たちの間で絶えず行われていました。律法学者は、イエスがこの複雑な問いにどのように答えるのか、その見識を知りたかったのです。彼らは、誠実な探求者と言えるでしょう。この質問に対する主イエスのお答えが29-31節です。29-30節を見てみましょう12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』イエスは律法学者の質問にすぐに答えました。申命記6章4-5節から「シェマ」と呼ばれるユダヤ教の中心的な祈りを引用します。「シェマ」は、「聞け、イスラエルよ」で始まる、ユダヤ教でもっとも重要な祈り・信仰告白の一つです。申命記6章4節の冒頭の言葉で、伝統的に毎朝と毎晩唱えられています。申命記6章4-5節を開いて見ましょう。 6:4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。「唯一の主」という表現は一神教の核心を表し、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」という表現は、人間の全存在をもって神を愛することを意味します。神への愛が人間の全体、つまり感情(心)、生命力(精神)、知性(思い)、そして肉体的能力(力)すべてを使って表されるべきことを強調しています。31節を見てみましょう。12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」イエスは続けてレビ記19章18節後半を引用し、神への愛と隣人への愛が不可分であることを示します。レビ記19章18節後半を開いて見ましょう。19:18b自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。神への愛と同様に、隣人への愛も重要であることを示しています。「隣人を自分のように愛する」とは、一体どういうことでしょうか。それは、私たちが自分自身を大切にするように、他者も大切に思い、その幸福を願うということです。イエス・キリストは、「隣人」の範囲を、私たちと関わるすべての人々にまで広げられました。それは、地域的な隣人だけでなく、見知らぬ人、困っている人、さらには私たちを憎む人にまで及ぶのです。つまり、自分以外の人が「隣人」なのです。隣人愛を実践した人と聞くとノーベル平和賞を受賞した修道女のマザー・テレサさんを思い起こす方もおられると思いますが、今日は、ドロシー・デイ(1897-1980)さんをご紹介します。彼女は、アメリカのカトリック信者として「隣人愛」を実際に行動で示した人です。1933年にカトリック・ワーカー運動を始め、ホームレスや貧しい人たちのための施設を作りました。彼女自身も貧しい生活を選び、毎日たくさんの人に食事と住む場所を提供しました。ただお金や物を与えるだけでなく、一人ひとりと心を通わせ、その人の名前を覚えて個人的な関係を大切にしました。また戦争に反対し続け、信仰と社会への奉仕を一つにした生き方を貫きました。彼女は「貧しい人の中にイエス様がいる」と信じて愛を実践し、その姿は今でも多くの人に影響を与えています。イエスの語った「神を愛する」「隣人を愛する」という二つの掟は、600以上ある旧約律法の根本であり、どんな宗教的行為よりも重要であることが示されています。今日、まず覚えて頂きたいことは神を愛し隣人を愛すということです。社会の最少単位は家庭ですから、最も身近な隣人は家族ではないでしょうか。私たちはどうでしょうか。配偶者、子ども、親、兄弟姉妹。家族に対して、寛容さ、忍耐、赦し、そして無条件の愛を示すことができているでしょうか。忙しさや疲れを言い訳に、身近な人を疎かにしていないでしょうか。心を探ってみようではありませんか。

②成長の途上であることを自覚する

イエスは、この二つの掟がすべての律法と預言者の教えの根幹であると述べ、これらを超える掟はないと断言しました。神への愛と隣人への愛は切り離せない一体のものであることを語られたのです。このイエスのお答えに対する律法学者の応答が32,33節です。12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」律法学者はイエスの答えを聞いて、「先生、おっしゃる通りです。『神は唯一である。他に神はない』とおっしゃったのは本当です。」と賛同しました。そして、「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」と付け加えました。「焼き尽くす献げ物」(燔祭・全焼のいけにえ)については、レビ記 1章に規定があります。「いけにえ」(罪の贖いのための犠牲)レビ記 4章~7章に規定されています。 律法学者は、イエスの言葉が旧約聖書の教えと完全に一致していることを認め、神への愛と隣人への愛が、当時のユダヤ教で重視されていた儀式的な献げ物やいけにえよりもはるかに重要であるという深い理解を示しました。これは形式的な宗教儀式より、心からの愛と慈しみの方が重要であるということで、律法学者は、内面的な信仰と倫理的な実践こそが、神の御心にかなうものであることと認識していたのです。この律法学者の発言に対するイエスの応答が34節です。12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。イエスはその律法学者の答えを聞き、「あなたは、神の国から遠くない」と言いました。この言葉には重要な意味が二つ込められています。まず、イエスは律法学者が神の真理を正しく理解していることを認めています。この律法学者は他の宗教指導者と異なり、形式的な儀式よりも「神への愛」と「隣人愛」が信仰の本質であることを理解していたからです。次に、「遠くない」という表現は、完全に神の国に到達しているわけではないことを示しています。知識として理解するだけでは不十分で、心から信じ、実際に生き方を変えることが必要だというメッセージが込められています。この律法学者は、形式的な宗教儀式よりも、神と隣人への愛の方が本質的に重要であることを理解していました。イエスはこの理解を認め、「あなたは神の国から遠くない」と言われましたが、成長の途上だったのです。あるクリスチャンの友人の話です。彼は熱心に教会に通い、教会の活動に参加していました。日曜日の礼拝はもちろん、様々な奉仕活動にも積極的に関わり、教会のリーダーの一人として認められていました。彼は自分自身を非常に信仰深い人間だと思っていました。毎週聖書を読み、祈り、献金も欠かしませんでした。しかし、ある時、職場で非常に分別のないオーナーと、協力的でない部下との間でトラブルが起こりました。友人は正しいのは自分だと思い込み、怒りと不満でいっぱいになりました。家に帰っても、そのオーナーや部下のことを悪く言い、腹を立ててばかりいました。そんな時、彼はふと今日のマルコによる福音書12章の箇所を読み返しました。「隣人を自分のように愛しなさい」。この御言葉が、まるで自分自身に向けられているかのように響きました。彼は教会の活動では人からよく見られるように振る舞い、聖書や祈りの言葉は知っていましたが、心の中では怒りや不満に満ち、職場の隣人である上司や同僚を全く愛せていない自分に気づいたのです。むしろ、彼らを「敵」のように見なし、裁いていました。彼は愕然としました。自分の信仰は、律法学者たちが批判されたような、外面的なものに過ぎなかったのではないか。教会での活動は熱心でも、日常生活の中で最も身近な「隣人」を愛するという基本的なことができていない。心の中は、神への全面的な愛ではなく、自分の正しさやプライドで満たされている。長い祈りも、人からどう見られるかを気にする部分があったかもしれない。その時、彼は初めて、自分が「神の国から遠くない」どころか、むしろ「神の国から遠い」場所にいるのではないか、と感じたそうです。自分の中には、律法の本質である「愛」が、決定的に欠けていることに気づかされました。人を好きと思う心と愛は異なります。それは彼にとって、非常に痛みを伴う気づきでしたが、同時に、真の信仰とは何かを問い直す出発点となりました。相手をも愛せるようにと、祈り始めました。すぐには変われませんでしたが、意識的に上司や同僚の良い点を見つけようとしたり、彼らのために祈ったりする中で、少しずつ心の中に変化が生まれたと言います。10年以上も許せなかった方も許せるようになったのです。あるクリスチャンの友人とは熊本時代の私のことです。神の国に通達をしていない。成長の途上なのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは成長の途上であることを自覚するということです。この律法学者の応答の後、イエスの深い知恵と権威に人々は圧倒され、もはやイエスに質問しようとする者は現れませんでした。人々は、イエスの言葉が単なる議論ではなく、生き方そのものを問い直させる力を持っていると感じたのです。

③イエスは神の右に座る存在

35節を見てみましょう。12:35 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ここから話題が変わり、イエスはメシア(救い主)について教え始めます。当時のユダヤの人々は、メシアがダビデ王の子孫として現れ、政治的な支配者としてイスラエルを解放すると考えていました。「ダビデの子」という呼び名は、メシアを指す一般的な表現でした。しかし、イエスは律法学者たちのこの考えに疑問を投げかけます。それは、「ダビデの子」という理解だけではメシアの核心を理解することが出来ないからです。36,37節を見てみましょう。12:36 ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』12:37 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。「」は詩編110編1節からの引用です。開いてみましょう。110:1 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」この詩編はダビデ王が書いたとされています。その中でダビデは「神様が、わたしの主に言われた」と書いています。当時のユダヤ人たちは、この「わが主」という部分が、将来来るメシア(救い主)のことを指していると理解していました。イエスは、ダビデ自身がメシアを自分の「主」と呼んでいることから、メシアがただの人間の王、つまりダビデの子孫であるだけでなく、神の右の座に座る神聖な権威を持つ存在であることを話しました。メシアは「ダビデの子」以上の存在 ― 神ご自身なのです。律法学者たちが「メシアはダビデの子」と理解しているのは間違いではありませんが、メシアの全体像、特にその神性を十分に理解していないことをイエスは指摘したのです。この教えは、形式的な理解にとらわれていた律法学者たちとは違って、集まっていた多くの人々には新しくて権威あるものとして受け入れられ、彼らは喜んで耳を傾けたのです。今日、最後に覚えて頂きたいことはイエスは神の右に座しているということです。

Today’s Takeaways

①神を愛し隣人を愛す ②成長の途上であることをを自覚する ③イエスは神の右に座している