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2022年6月26日主日礼拝

説教題 イエス・キリスト~全ての人を照らす光~ 聖書箇所 ヨハネによる福音書1章1-18節 

◆言が肉となった 1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2 この言は、初めに神と共にあった。 1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

おはようございます。初心に戻り、もっとイエス様を知りたいと思いヨハネの福音書を選んだ。20章31節にこの書の書かれた目的が書いてある。ヨハ 20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。ヨハネの福音書を学びながら、共に主の命に満たしていただこう。

➀キリストは言葉であり、命であり、光です。

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。今朝の聖書箇所に「言」がなんと13回出てくる。ヨハネはキリストを紹介するのに「言」という表現を用いた。私たちは何かをする時、先ず頭の中で言葉を使って物事を考えそして実行に移していく。また他人との会話で、意思の疎通ができ、お互いのことを知ることができる。このように言葉は、私たちの心の思いや意志を表し伝えることが出来る。では神の言葉は何だろう。神の言葉は、霊なる存在である神ご自身の心と意志である。私たちは、目に見えない神様の思いと意志を、神の言葉を通して知ることができる。今から約2020年前に、神様の思いと意志を私たち人間がわかるようにと、キリストはそのことを伝える言葉として来てくださった。ヨハネは感動と感謝をもってこのように書き出している。だから「言」のところを「イエス・キリスト」と入れ替えて読むとよくわかる。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。すべてのものは「言」なるイエス・キリストによって作られた。コロサイ1:16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。イエス・キリストはこの世界の初めから父なる神とともに存在し、この世界を創造なさったと、聖書は語る。 1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。「言」すなわちイエス・キリストのうちに真の命がある。この真の命は、肉体の命だけではなく、霊的な命を与え、人を導き照らす光である。かつて私は青年時代に、能力や魅力のない自分、人との比較からくる劣等感を感じ、将来の具体的な目標が見えず、体は元気でも、心が空しくて暗闇の中を歩んでいた。その時出会った統一協会に惹かれ、やがて貯金を全て捧げ、仕事をやめ、家を出て、同じ年代の青年たちと共同生活をしながら統一教会の教祖のために働いた。人生の目的がわからず迷う心に偽りの教えが入り、マインドコントロールされてしまったのだ。十分な食事や睡眠もとれず働いていたので、青年と言っても病気の人たちもいた。合同結婚の祝福と言われ、言葉も話せない、素性もわからない外国人とマッチングされて海外に行く青年たちも多くいた。洗脳の恐ろしさである。当時救出活動をされていた森山牧師により、それは間違いであること、聖書こそ正しい神の言葉であることを教えていただき、イエス・キリストを信じ救われた。空洞のような虚しい心が神の愛に満たされた。絶望的な暗い心に希望の光が注がれました。神の言葉を学んでいくうちに、この大きな失敗は神様を知らない罪によること、それをすべて許し救い、そんな私をも神は愛してくださっていること、イエス・キリストは真の神であることを知り、慰められ次第に生きる力が与えられてきた。まさに神の言葉は死んだようなものに命を与え、生きる目的を教え、人生を照らす光として導いてくれた。そして今も現在進行形で希望の光は私の中でますます光輝き、落ち込んだり、迷う時に、慰め励まし導いてくださっていることを実感し、ただただ感謝にたえない。失敗からくる自責の念、人との比較やこの世の価値感にさらされて心が暗くなる時、神の言葉を心の中で思いめぐらすと、そんなちっぽけなものにはるかに勝る神の恵みを知らされ、心に光が戻り明るくなり勇気が湧いてくる。神の言葉には命があり、私たちの中心である心を照らし、人生を導いてくれる。 1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。聖書は、神に造られた最初の人アダムが神に背き罪を犯し、神との交わりが断たれ、神の恵みを受けることができなくなってしまったことを教えている。ちょうど放蕩息子のように、毎日父の愛の中で恵まれて暮らしていたのに、もっと自分の好きな生き方がしたいと家を飛び出し、結局ボロボロになって初めて、父のところにいた時は本当に恵まれていたんだと気づくように。でもこの息子はそれに気づいたからよかったが、人間は父なる神のところに最高の幸せがあるということに気づかないのだ。人の堕落以来、人間の世界は罪に塗れ、神を知ることができない暗闇の世界となってしまった。しかしキリストはその暗闇の世界を照らす光として来てくださった。初めの世界のように人が神と愛の交わりを回復し、平安を得ることが出来るように。しかし罪に塗れた暗闇の世界は、光なるイエス・キリストを理解することができなかった。1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。【新改訳改訂第3版】新改訳では打ち勝たなかったとある。マッチ一本の光でも暗闇は明るくなる。光は闇を打ち消すことができるが、逆に闇は光を消すことはできない。人を罪に誘惑し滅びに向かわせる暗闇の支配者、それは悪魔サタンだ。しかし彼はどんなに太刀打ちしても光なるキリストに打ち勝つことはできない。光は闇の中に輝き続けている。確かに暗い世の中だが、キリストは光として私たちの行くべき道を照らし続けてくださっている。キリストは圧倒的な勝利者なのだ。そしてキリストの中にいる私たちもまた圧倒的な勝利者なのだ。キリストは父なる神の心を伝える言葉として、暗闇を照らす光として、私たちに真の命を与えるために来てくださった。

②キリストは神が人となってくださったお方

1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。これはバプテスマのヨハネのことだ。彼は神から使命を与えられ遣わされた人物である。それは光なるイエス・キリストを証しするため、そしてすべての人が彼の証によってイエス・キリストを信じるようになるために、神によって遣わされた。 1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。ここからまたキリストの説明になる。キリストは「真の光」なのだ。では「偽りの光」と言えるものは何だろうか。表面的には光輝いているように見えて人々をだますもの。そこに命はない。むしろ人を駄目にしてしまうものだ。二コリント11:14 だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。とある通りだ。そのような誘惑はこの世界にたくさんある。私たちは騙されないように気を付けよう。キリストこそ真の光であり、全ての人を照らし、命を与え豊かな祝福へと導くために来てくださったのだ。そしてその光は人を分け隔てしない。無条件で全ての人を照らす光なのだ。 1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。キリストはご自分が造られたこの世界に来られたのに、、、人間の罪により神との交わりが断たれたこの暗闇の世界は、光なるイエス・キリストを受け入れなかった。それはあたかも暗闇に住む者たちには、真の光はまぶしすぎて耐えられないかのように。だから神の民であるイスラエルの民はキリストを拒絶して十字架につけ殺してしまった。しかしこの十字架こそ神の救いの方法だったのだ。私が救われて聖書に親しみ、神の教えを学んでいくと、それまではみんなやっていることだからとさほど気にも留めなかったことが気になりだした。そして聖書の光に照らされるほど、自分の内面の醜さ、罪深さ、愛のなさに気が付かされて苦しくなった。そのたびに主を仰ぎ、悔い改める。罪穢れから救い、洗いきよめるためにキリストは来てくださったのだ。救い主キリスト、何という恵みであろうか。1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。このようにキリストを信じ受け入れた者はすべての罪が許され、神の子となる資格が与えられるのだ。人間の子でも一般的には、親の愛を受けて養育され、子としての恵み、特権を受け、親の財産を相続することができる。はるかに素晴らしいのが神の子とされることだ。神との交わりが回復し、愛によって育てられ、全ての神の恵みと祝福を受け、永遠に神と共に生きる者とされるのだ。この素晴らしい神の子としての資格、特権は人間的な方法によって与えられるのではない。ただイエス・キリストを受け入れ信じる人々に与えられる。 1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。この人々は、血統によるのでもなく、また人間的な情欲や様々な欲によってでもなく、ただ神によって、新しく生まれたのである。つまり人間の側でどんなに努力しても得ることはできない。ただ神が一方的に与えてくださる恵みなのだ。その恵みを信じて受け取るかどうかは、人間の側のことだ。神は無理強いはされない。この恵みを信じ受け取るだけで神の子となる資格が与えられる。人はやがて必ず死ぬ。死んだ後どうなるのか。答えは聖書にある。神は手を差し伸べておられる。永遠を決定する大切な選択を誤ることがないようにしたい。 1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。言は肉体を持ってこの世界に来てくださった。つまりキリストは栄光に満ちた神であられるのに、私たちと同じ人間となってこの世界に来てくださった。父なる神様の一人子としての栄光に輝いたお方であり、生涯を通して神の恵と真理に満ちておられた。

③キリストは私たちに神を示すために来られた

愛と憐れみに満ちた神は、罪びとを救うために、一人子イエスを人間としてこの世に送られた。キリストは神の思いを伝えるために、栄光に輝く神の立場を捨て、あえて私たちと同じ弱さや限界を持つ人間になって来てくださった。父なる神に従い、人間の罪をその身に負い、自ら十字架の上で命を捨て、罪の赦しを成し遂げてくださった。このキリストを信じるものは全て罪赦され、真の命を頂いて、神の子としての特権に預かれるのだ。恵みとしか言いようがない。どうして私たちはこんなに大きな愛を知らずにいてよいだろうか。私を救うため身代わりに死んだ人がいたことを無視して自分勝手な生き方をしてよいだろうか。主の十字架は人間の罪の許しのためである。自分の罪を認めそのことを信じ、イエス・キリストに信頼していこう。私たちが神の子とされ、神の豊かな祝福をいただき永遠に神と共に住む者となるための代価は、全て神が払ってくださったのだから。 1:15 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」バプテスマのヨハネはキリストが、当時のユダヤ人たちに待ち望まれていたメシア、救い主であることを証しした。 1:16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。キリストのご人格は満ち溢れる豊かさがあり、この手紙の著者である使徒ヨハネやそのほかの信じる人々はみな、恵の上にさらに恵みを受けた。それは今も主につながる者には同じように尽きることのない恵みが注がれている。 1:17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。イスラエルがかつて、モーセを通して神から与えられた賜物は律法であった。しかし律法はあくまでも人を神に導く養育係のようなもの。古い時代は過ぎ、律法は終わった。新しい時代を迎え今や、神の本質である恵みと真理はキリストを通して現れ、直接神のみ元にいくことができ、初めの世界のように神との自由な交わりが回復された。それはキリストの十字架による罪の許しと救いの恵みによるもの。 1:18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。神を見た者はいない。肉眼で神を見ることはできない。しかし父なる神の懐にいる一人子イエス・キリストが人となってこの世界に来てくださったことにより、私たち人間は御父なる神を知ることができるようになった。なぜなら御父と御子は一つだから。御子イエス・キリストは神ご自身だから。ヨハネ14:9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 14:10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 14:11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。当時のユダヤ人たちはモーセの律法に様々な規則を付け加え、本来の神の思いからかけ離れた、命のない形骸化した信仰となっていた。彼らにとって神を父と呼ぶことすら驚きであったようだ。そのような中、本当の神の心,思い、意思をユダヤ人たちはもとより、全ての人に伝え、進むべき道を照らす光として、キリストは来てくださった。そしてキリストこそ救い主、メシアであることをヨハネは感謝と感動を持って伝えた。神聖ローマ帝国の皇帝フリードリッヒ2世は、言葉を習わずに育った子は何語を話すのかという疑問を持ち、幼い捨て子50人を部屋に隔離し、栄養は与えるが、一切言葉がけをしないなどの恐ろしいルールのもと実験を行った。はたして子供たちは何語を話したのか。結果は一歳を前にして全員死亡してしまったということでした。真実な愛の言葉がけがどんなに大事であるかがわかる。あなたは毎日神の言葉がけを聞いているだろうか。イザ 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。【新改訳改訂第3版】神様は今日も絶叫するような思いで、心の底から私たちに愛を叫んでくださっている。「自分はダメだ、価値がない」と思うとき、それは暗闇の声、騙し屋サタンの声だ。私たちは毎日神の言葉に耳を傾けよう。全ての人を照らす真の光として、キリストはそのために来てくださったのだから。

Today’s Take-away

①キリストは言葉であり、命であり、光です、②キリストは神が人となってくださった、③キリストは私たちに神を示すために来られた

Thinking Time

キリストがどんなに自分を愛してくださっているか、受け止めているだろうか。どうしますか?