説教題: 律法学者とやもめーイエスは心を見られる 聖書箇所:マルコによる福音書12章38-44節
◆律法学者を非難する 12:38 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、 12:39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、 12:40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」 ◆やもめの献金 12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。 12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。 12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
ハレルヤ!8月の第一主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、その37回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。12章28-37節を通して、「愛の掟-ダビデが『主』と呼んだお方」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①神を愛し隣人を愛す ②成長の途上を自覚する ③イエスは神の右に座している でした。今日は続く12章38-44節を通して「律法学者とやもめーイエスは心を見られる」と題しお話しします。今日の聖書箇所には、二つの出来事が記されています。新共同訳聖書の小見出しの一つは「律法学者への非難」、もう一つは「やもめの献金」の話です。イエスは、エルサレムでの最後の教えの場面で、律法学者たちの偽善を厳しく責められました。そして、その直後に、貧しいやもめの真実の捧げ物を褒め称えられたのです。この二つの出来事は、まったく対照的な内容となっています。この箇所は、イエスが十字架に向かう最後の歩みの中で語られた、とても大切な教えなのです。ここで、イエスは私たちに、神様が大切にされることと、人が重んじることの違いを、はっきりと示してくださいました。私たち人間は、どうしても外から見える信仰の形や、社会的な地位、そしてお金といったものを気にしてしまいます。しかし、神様が見ておられるのは、私たちの心の中なのです。どのような思いで行動しているのか。神様を信じ、愛をもって自分自身を捧げているかどうか。そうした心こそが、神様が喜んでくださるものなのです。
①真の信仰が問われている
38節から順番に見てまいりましょう。12:38 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、イエスは教えの中で、「律法学者に気をつけなさい」と警告されました。「長い衣」というのは、当時の宗教的権威者が着用していた特別な服装のことです。これは普通の衣服よりも長くて装飾的で、着る人の社会的地位や宗教的権威を示すものでした。現代でいえば、学位のガウンや牧師のガウンのようなものです。一種のユニフォーム、職業を表す衣服と言えるでしょう。私も洗礼式などではガウンを着用しています。ですから、問題なのは衣服そのものではありません。問題は、「歩き回る」という表現が示している態度にあるのです。これは単に移動することではなく、人目につく場所をわざと歩いて、自分の地位を見せびらかそうとする行動を指しているのです。「広場」というのは、昔の町の中心にあるにぎやかな場所で、商売や人との交流が行われるところでした。多くの人が集まる場所で、社会的地位が特によく見える場所でもありました。「挨拶されること」というのも、ただの日常的な挨拶ではありません。「先生」「ラビ」といった敬称で呼ばれ、特別な敬意を表されることを意味しています。律法学者たちは、そうした特別な挨拶を受けることを期待し、楽しんでいたのです。彼らは、自分たちの行動を神への奉仕のためではなく、自分を目立たせるために用いていました。イエスは、このように外見だけを整えた信仰の姿に潜む偽善を、はっきりと指摘されたのです。39節を見てみましょう。12:39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、新共同訳聖書では「望み」と訳されていますが、原語をみると「好む」と訳した方が良いと思います。イエスは、「会堂では上席、宴会では上座を好む」と律法学者たちを非難されました。「会堂」は礼拝や祈り、聖書の教えが行われる神聖な場所で、「上席」はもっとも名誉ある前の席を指します。律法学者たちは、そこで自分の地位を人々に見せようとしていました。本来、会堂は神を礼拝する場所ですが、彼らにとっては自分を誇る場になっていたのです。また、「宴会」は当時の大切な社交の場で、「上座」は主催者の近くにある一番良い席でした。律法学者たちは、こうした場所で注目と尊敬を受けることを求めていたのです。イエスは、似た内容の話を繰り返すことで、これらの行動が一時的なものではなく、彼らの心に根付いた問題であることを指摘されたのです。40節を見てみましょう。12:40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」イエスは律法学者たちの偽善を厳しく批判しました。彼らは「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」と非難されています。当時のやもめは社会で最も弱い立場にいました。夫を失い、働き手となる息子もいない女性たちです。旧約聖書では孤児や寄留者と並んで、神が特別に守る存在として繰り返し登場します。申命記10章18節と詩編146章9節を開いてみましょう。10:18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。146:9 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。寡婦とはやもめの別の言い方です。しかし律法学者たちは、その律法を教える立場でありながら、弱者を食い物にしていたのです。そして長い祈りをして、自分たちが敬虔であるかのように見せかけていました。この偽善をイエスは「人一倍厳しい裁きを受ける」と警告しました。律法学者は本来、律法を解釈し教える重要な役割を担っていました。しかしイエスが批判したのは、その地位を自分の利益のために悪用し、偽善と高慢に陥った者たちでした。彼らは律法の知識はあっても、その精神である「弱者への配慮」や「神への純粋な献身」を見失っていたのです。イエスの批判は、知識や地位よりも心の状態と動機が神にとって重要であることを教えています。形式的な宗教行為は、かえって神との真の関係を妨げる危険があるのです。38節から40節は見せかけの信仰への警告です。私たちはどうでしょうか。見せかけの信仰になっていないでしょうか。心を探ってみようではありませんか。今日、まず覚えて頂きたいことは真の信仰が問われているということです。
②主は心を見られる
41節を見てみましょう。12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。40節までの律法学者への厳しい警告から、41節では場面が神殿の境内に移ります。この場面転換は偶然ではありません。前の部分で批判された偽りの敬虔さと、これから描かれる真の敬虔さが明確に対比されています。神殿には13個のラッパ型の賽銭箱が設置されており、この場所は神殿の中でも特に人通りが多く、献金の様子が多くの人に見られる場所でした。賽銭のうちのいくつかは貧しい人々をサポートするための義援金を集めることが目的でした。金持ちたちは多額の寄付をしており、一部の人々は少額の貨幣に両替して、わざと長く音が鳴るように投げ入れ、自分がたくさん献金していることを人々にアピールしていました。「大勢の金持ちがたくさん入れていた」という表現は、多数の裕福な人々が大きな額の献金をしていた状況を強調しています。イエスが「向かいに座って」いたということは、たまたま通りかかったのではなく、意図的に観察する位置に身を置かれたことを示しています。そして、「見ておられた」は、ただ目で見るだけでなく、深く観察し理解するという意味を含みます。イエスは外見的な行為だけでなく、その背後にある動機や心の状態を見抜いておられました。イエスが献金箱の前に座って観察していたという描写は、神が私たちの生活のあらゆる側面における「動機」と「心」を深く見抜いておられることを象徴しています。人間が見る「量」ではなく、神が見る「質」に焦点を当てるための導入です。イエスは献金の「額」だけでなく、その背後にある「心」を見抜いており、この観察は神の基準が人間の基準と異なることを示すための準備として、次に描かれるやもめの献金との対比へとつながっていきます。今日、二番目に覚えて頂きたいことは主は心を見られるということです。
③神にすべてを委ねる
42節を見てみましょう。12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。「ひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨二枚を投げ入れた」とあります。ここで使われている「貧しい」という言葉は、単にお金がないという意味を超えて、日々の食事にも困るような深刻な貧しさを表しています。そして「やもめ」という言葉と合わさることで、この女性が社会的にも非常に弱い立場に置かれていたことがわかります。また、「ひとりの」という表現は、たくさんの金持ちたちと対比して、彼女がただひとりであったことを強調しています。それは、彼女の孤独さや弱さを表してもいます。つまり、この女性には頼る家族も、助けてくれる人もいなかったと考えられます。「レプトン」は当時のイスラエルで使われていた最も小さな銅貨です。その名は「細い」「小さい」という意味の言葉から来ており、文字通りわずかな価値しかありませんでした。二枚のレプトンは、労働者の日当の64分の1、つまり12分の労働にも満たないほどの金額です。現代の感覚でいえば、数十円くらいでしょうか。この物語の中心は、この献金の「額」ではなく、その「中身」や「心」にあります。金額があまりにも少ないからこそ、彼女の献身の大きさがより際立って見えるのです。金持ちたちは「余っている中から」たくさんの金を捧げましたが、このやもめの献金はまったく性質が違います。神は金額の多さではなく、その人の心と態度を見ておられるということが、ここで示されています。このやもめがわずかでも献金したという事実は、三つの意味で重要です。まず、彼女が神殿の礼拝に参加していたということは、貧しさの中でも信仰を持ち続けていたことを示しています。そして、ほんの少しでも献金をしたという行動は、神に対する感謝と献身の心のあらわれです。そして、最も大事な点は、44節で明らかになるように、この2枚の銅貨が彼女の「全財産」だったということです。つまり彼女は、自分が生きていくための最後のお金を、神のために差し出したのです。金持ちたちは余った分を献げましたが、このやもめは「生活費すべて」を献げました。今日は、1941年7月にアウシュヴィッツで起こった、フランシシェク・ガヨヴニチェクとコルベ神父の物語についてお話ししたいと思います。この恐ろしい時代、囚人の脱走を受けて、ナチスは10人を餓死刑にすると決めました。その中で選ばれた一人、ガヨヴニチェクは「私には妻と子がいる!」と叫びました。その瞬間、コルベ神父が前に出て、「私があの人の代わりになりたい」と申し出たのです。ナチスの将校が「お前は何者だ?」と尋ねると、コルベ神父は「カトリックの司祭です」と答えました。この申し出は驚くべきことに受け入れられました。餓死牢に閉じ込められたコルベ神父は、祈りと聖書の言葉で他の囚人たちを励まし続けました。看守たちの証言によれば、彼は最後まで平静を保っていたと言います。そして、2週間後、彼はフェノール注射で命を奪われました。戦後、ガヨヴニチェクは生き延び、毎年コルベ神父の命日にはアウシュヴィッツを訪れ、感謝の思いを捧げました。彼は「彼は命だけでなく、真の愛を教えてくれました」と語り、その後の人生を人々に仕えることに捧げたのです。この物語は、「アウシュヴィッツの聖者コルベ神父」という本にも記されています。コルベ神父の犠牲は、マルコ12章の「やもめの献金」の生きた証です。彼は自らの命を捧げることで、神への全き信頼と愛を示しました。私たちもまた、命を捧げることが求められているわけではありませんが、日々「自分中心」ではなく「他者中心」に生きることが求められています。さて、私たちは何を「献げる」ことができるのでしょうか?小さな親切、時間、愛情、そして思いやり。これらは、他者を思う心から生まれるものです。コルベ神父のように、私たちも自分の周りの人々に手を差し伸べることができるのです。この物語を心に留め、日々の生活の中で他者に愛をもって接していきましょう。聖書箇所に戻り43節を見てみましょう。12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。イエスが「はっきり言っておく」と言ったとき、それは特に重要なことを伝えようとしているサインです。この言葉は、私たちにとっても大切なメッセージが含まれているのです。イエスは、やもめの献金を通して、真の献身とは何かを教えてくださいました。ただ金額を評価するのではなく、献げる人の心やその背後にある動機を見ておられたのです。彼は「だれよりもたくさん入れた」と言いましたが、これは私たちの常識を覆す言葉です。たとえ金額が少なくても、その献金がどれほどの犠牲を伴っているかが大切なのです。神は金額そのものではなく、献げる人の心の状態に目を向けています。多くの人々が目の前の金額に囚われる中で、イエスはその人の真意や献金の意味を理解しておられました。彼の言葉は、私たちの人間の論理や経済的価値観に対する挑戦でもあります。神の国の価値観は、この世のものとは逆なのです。真の豊かさとは、持っているものの量ではなく、どれだけ神に委ねているかにかかっています。やもめの献金はごくわずかでしたが、イエスはそれを「だれよりもたくさん」と評価されました。神が見ておられるのは、金額ではなく「割合」と「心」なのです。私たちの評価基準は、神のそれとは根本的に異なります。自己犠牲と全き信頼こそが、最も価値のあるものとされるのです。私たちも、日々の生活の中で、どのように神に委ねるかを考え、他者に愛をもって接していきましょう。私たちの心がどれだけ神に向けられているかが、真の献身を示すのです。44節を見てみましょう。12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」イエスがやもめの献金を称賛された理由について考えてみたいと思います。裕福な人々が余ったお金を献げる中で、この貧しいやもめは、生活に困るほどの状況で、自分の持っている全てのお金を神に捧げました。彼女は、明日の生活さえも保証されない中で、神に全てを委ねるという全き信頼の行為を示したのです。やもめの献金は、単なる金銭的な行動ではありませんでした。彼女は社会的にも非常に弱い立場にあり、頼れる人もいない中で、神に全てを委ねるしかありませんでした。だからこそ、イエスは彼女の献金を金額ではなく、その信頼の深さにおいて最も価値のあるものとして評価されたのです。この教えは、山上の説教にも通じるものがあります。マタイによる福音書5章3節には、5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。とあります。神が喜ばれるのは、余裕からの行動ではなく、どんな状況にあっても神に頼る謙遜な心からの信仰です。今日の聖書の箇所では、うわべだけの信仰と本物の信仰がはっきりと対比されています。神さまが大事にされるのは、見た目の立派さや社会的な地位ではなく、その人の心の動機や、どれだけ真剣に神に献げているかということです。また、献金についても、いくら献げたかという額ではなく、その人の生活の中でどれだけの思いと犠牲をもって献げたのかが大切だということを教えられています。私たちも、日々の生活の中で、心から神に委ねる信仰を持って、献げることができるよう努めていきましょう。イエスは、ここで、やもめの献金を称賛された理由を明確に示しました。裕福な人々は、自分の生活には何の影響もない余ったお金を献げていましたが、このやもめは、生活にも困るほど貧しい中で、自分の持っていた全てのお金を、つまり明日の生活さえも保証されないような状況の中で、神に献げました。それは単なる金銭的な行動ではなく、自分の人生そのものを神にゆだねる、全き信頼の行為だったのです。当時、やもめは社会的にも非常に弱い立場にあり、頼れる人もいない中で、ただ神にすべてを委ねるしかありませんでした。だからこそ彼女の献金は、金額ではなく、その信頼の深さにおいて最も価値あるものとして、イエスに高く評価されたのです。今日、最後に覚えて頂きたいことはと神にすべてを委ねるいうことです。
Today’s Takeaways ①真の信仰が問われている ②主は心を見られる ③神にすべてを委ねる