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2025年11月9日主日礼拝 伏見敏師

説教題逆説の王-降りなかった愛 聖書箇所:マルコによる福音書15章16-32節

兵士から侮辱される 15:16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。 15:17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、 15:18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。 15:19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。 15:20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。 十字架につけられる 15:21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 15:22 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。 15:23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。 15:24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。 15:25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 15:26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。 15:27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。 15:28 こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。 15:29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 15:30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」 15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 15:32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

ハレルヤ!11月の第ニ主日を迎えています。私たちの教会では、マルコによる福音書を講解で学んでおり、その47回目です。いつも通り、前回のおさらいから始めましょう。15章1-15節を通して、「群衆の声or良心の声?」と題し、三つのことを中心にお話ししました。①神のご計画を信頼する ②群集心理に陥らない ③神の真理に生きる でした。今日の聖書箇所は「逆説の王」と呼ばれることがあります。王であるはずの人が、とてもみじめな姿で死んでいきます。勝つはずの人が完全に負けているように見えます。救うはずの人が自分さえ助けられない。しかし、この不思議なことの中に、キリスト教の大切な心理があります。今日は、続く15章16-32節を通して「逆説の王-降りなかった愛」と題しお話しをします。ご一緒に学んで参りましょう。

①主の受難を心に刻む人

16節から順番に見てまいりましょう。5:16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。ローマ総督の「官邸」で、兵士を呼び集めました。歴史的資料によれば、その数は約400から600人と考えられています。イエスは地上の力には無力に見えましたが、その弱さの中に神の真の力が現れています。この場面は、私たちに「本当の力や王とは何か」について問いかけています。イエスは苦しみを通して王となり、私たちに希望を与えてくださるのです。このことをパウロは「神の弱さは人よりも強いからです。神の弱さは人よりも強い」と言いました。開きませんが、コリント一1章25節に記されています。

17節を見てみましょう。15:17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、「紫の服」は王族だけが着る高価な衣装でした。兵士たちはイエスを「ユダヤ人の王」と皮肉って着せましたが、実はそれが預言的な行為でした。イエスは真の王でしたが、この世の王とは全く違う方です。「茨の冠」はとても大事な意味があります。創世記3章18節には、神が人間の罪の結果として「土地は茨とあざみを生えさせる」と書いてあります。茨は罪と呪いのしるしです。イエスが茨の冠をかぶることで、人間の罪と呪いを自分の体に受けたことを示しています。王の冠が栄光と権威を表すのに対して、茨の冠は苦しみと恥を表します。兵士たちは「ユダヤ人の王」とイエスを笑いましたが、実は彼らがしていたことは、真の王の戴冠式だったのです。戴冠式とは、新しい王が王冠をかぶって正式に王となる儀式です。これは王の権威を示す大切な行事です。イエスの場合は、兵士たちが嘲笑のために「いばらの冠」(マタイ27章29節)を彼の頭にのせました。これは美しい冠とは違い、痛みと侮辱の印でした。しかし、その侮辱の中で、イエスは苦しみを通して真の王となったのです。

18,19節を見てみましょう。15:18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。 15:19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。兵士たちは「ユダヤ人の王、万歳」と叫びながらイエスを嘲笑しました。これは皇帝への「カエサル万歳」のまねでした。しかし、彼らの前にいたのはカエサルよりもはるかに勝る真の王でした。兵士たちは三つの侮辱をしました。まず、王の持つ笏(権力のしるし)に見立てた葦の棒でイエスの頭をたたきました。次に、最大の侮辱である唾を吐きかけました。最後に、嘲笑しながらひざまずいて拝みました。これらは、イザヤ書45章22-24節にある「苦難の僕」の預言を成し、知らないうちに真の礼拝となっていました。イエスはこれらの侮辱を静かに受け入れました。これは弱さではなく、神の意志に従う決意であり、人間の罪をすべて引き受ける姿勢でした。権力者が見下そうとしたとき、イエスには静かな王としての威厳がありました。

20節を見てみましょう。15:20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。兵士たちは嘲笑の王の衣装を脱がせてイエスの元の服を着せました。外見上の王の姿は一時だけでしたが、イエスの本当の王の性質は消えませんでした。イエスは十字架につけられるために連れ出されました。これは、人がイエスを嘲笑した場面から、神が全人類の罪を救う計画への大きな転換点でした。イエスは「偽りの王」の役から離れ、「苦難の王」として十字架を歩み始めました。驚くことに、この十字架こそがイエスの真の王座となります。イエスがこの辱めを引き受けたことで、私たちの罪の代わりに神の裁きを受けてくださったのです。この主の苦しみを思い起こすとき、私たちは「自分のためにこれほどされた」という恵みを新たに感じ、感謝と心からの献身に導かれるのです。受難が恵に変えられたのです。今日、まず覚えて頂きたいことは主の受難を心に刻むということです。

②苦しみに耐え抜かれた主に従う

21節を見てみましょう。15:21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。イエスは、むち打たれ、ひどく苦しめられて、もう自分の力では十字架を背負うことができませんでした。そこへ、ちょうど通りかかったのが、過越祭に出るために田舎から来ていたキレネ人のシモンでした。彼は北アフリカのキレネという町に住むユダヤ人で、ローマの兵士に「無理に」十字架を背負わされました。 この出来事には深い意味がありました。イエスを一番支えるはずだった弟子たちは逃げてしまいましたが、イエスと関係のなかった外国人のシモンが、強制的に十字架を担ぐことになったのです。 1960年代の半ば、アメリカで一人のクリスチャンの公民権運動家が平和的なデモ行進の途中、警官隊に殴られて重いけがをしました。彼は病院で意識を取り戻したとき、こう言いました「私はこの十字架を背負いたくありませんでした。痛くて、重くて、理不尽でした。」しかし、彼はキレネのシモンのことを思い出しました。シモンも望まずに十字架を担がされました。けれども、伝えられるところによると、その後、彼の息子たちアレクサンドロとルフォスはイエスを信じるようになり、宣教師になったと言われています。強制的に始まった十字架の道が、やがて彼の家族を救いへと導いたのです。私たちの人生にも、背負いたくない十字架があります。でも、それが思いがけず祝福につながることがあるのです。

22節を見てみましょう。15:22 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。イエスは「ゴルゴタ」という場所に連れて行かれました。この名前はアラム語で「頭蓋骨」を意味し、マルコは外国の人にも分かるように「されこうべの場所」と説明しています。そこが頭の骨の形をしていたのか、それとも処刑によって本当に頭蓋骨が残っていたのかは分かりませんが、どちらにしても死を象徴する場所でした。イエスは、この世の王のように豪華な宮殿で栄光を受けたのではなく、この恥ずかしく苦しい処刑の場で、苦しみを引き受ける王として立たれたのです。しかし信仰の目で見ると、この死の場所こそ、死を支配してきた悪魔が最後に打ち負かされた場所でもありました。

23節を見てみましょう。15:23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。十字架につけられる前に、イエスに「没薬を混ぜたぶどう酒」が差し出されました。これは、ユダヤの親切な婦人たちが用意していた麻酔のような飲み物で、処刑される人の苦しみを少しでもやわらげるためのものでした。苦しむ人に強い酒を与えて痛みを忘れさせるという、思いやりのある行いだったのです。しかし、イエスはこの飲み物を受け入れませんでした。それは、人間の罪の代わりにご自分がすべての苦しみを引き受けるため、痛みをやわらげることをあえて拒まれたことを意味しています。イエスは意識をはっきり保ち、苦しみをすべてそのまま受け止める道を選ばれました。このようにしてイエスは、自分から進んで苦しみを受け入れたという、自発的な愛の犠牲を示されたのです。イエスの苦しみは、神の御心に対する完全な従順のあかしであり、人類のすべての罪を背負う強い決意の表れでした。

24節を見てみましょう。15:24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。兵士たちはイエスを十字架につけたあと、その服をくじ引きで分けました。これは、処刑される人の持ち物が兵士のものになるというローマの習わしでした。しかし、この出来事は詩篇22篇19節の「わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。」という言葉が実現したものでした。ふつうに見えるこの行動の中にも、神の救いのご計画が隠されていたのです。くじ引きのように偶然に見えることも、箴言16章33節bにあるように「ふさわしい定めはすべて主から与えられる。」と語られているとおり、神の主権の中で起こっていました。この場面は、イエスの受けた深い屈辱をあらわしています。持っていた衣服さえ奪われ、裸で十字架にかけられたのです。しかし、いちばん恥ずかしく悲しいこの瞬間こそ、人類の救いが実現した最も尊い時だったのです。

25-27節を見てみましょう。15:25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 15:26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。 15:27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。イエスが十字架につけられたのは午前九時でした。この時間は、神殿で朝のいけにえが捧げられる時であり、イエスご自身が究極の供え物として、完全な犠牲になられたことを示しています。イエスの上には、「ユダヤ人の王」と書かれた罪状書きが掲げられました。これは総督ピラトが皮肉のつもりで書いたものでしたが、実はそれこそが神の真理を語る預言的な宣言となっていました。イエスは確かに王でした。この世の政治的な王ではなく、神の国の王として、十字架という王座から全世界を治められたのです。イエスは二人の強盗と一緒に十字架につけられ、真ん中に置かれました。これはイザヤ書53章12節の「罪人のひとりに数えられたからだ。」という預言が実現したことを意味しています。見た目には屈辱的な配置でしたが、そこには深い意味がありました。イエスは罪人たちの間に立ち、彼らのために神の前でとりなしをされたことを示しているのです。イエスは正しい人のためだけでなく、罪深い私たちのためにも来られ、最も低いところで共にいてくださるお方なのです。イエスは私たちのために苦しみに耐え抜かれたのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは苦しみに耐え抜かれた主に従うということです。

③愛ゆえに十字架から降りなかった

28節を見てみましょう。15:28 こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現したと書かれています。これはイザヤ書53章12節からの引用です。 53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。イエスは、罪を犯していませんでした。しかし、人間の罪の身代わりとして、罪人と同じ立場に立たれたのです。コリントの信徒への手紙二 5章21節にもこう書かれています。 5:21 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。この預言の実現は、イエスの苦しみと死が悲しい事件ではなく、神の救いの大きな物語の一部であることを教えています。旧約聖書と新約聖書は別々のものではなく、一つの神の救いの計画としてつながっているのです。イエスの十字架の死は偶然ではなく、神が永遠の前から備えておられた救いの中心だったのです。

29,30節を見てみましょう。15:29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 15:30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」そこを通りかかった人たちは、頭を振りながらイエスをあざけりました。これは同段落Read詩篇22篇7節の預言が実現した出来事でした。人々は「神殿を打ち倒し、三日で建てる者」と言って笑いましたが、実はこの言葉には深い意味が隠されていました。イエスは本当に三日目によみがえり、ご自分の体という神殿を再建されたからです。「十字架から降りて自分を救ってみろ」という挑戦するような言葉は、当時の人々が持っていたメシア(救い主)に対する考えを表していました。彼らは、目に見える奇跡を起こし、力で敵を倒すメシアを求めていたのです。しかし、そこにこそ本当の救いの逆説がありました。弱さの中にこそ真の強さがあり、死を通してのみ永遠の命が得られるのです。これがイエスが逆説の王と呼ばれる所以で、今日の説教題に使わせて頂いています。イエスには十字架から降りる力がありましたが、あえてそうしませんでした。ご自分を救うことではなく、人類を救うことを選ばれたのです。人々の嘲りの言葉は、「苦難の僕」として苦しみを引き受ける救い主の姿と、世の中の人々が期待した力強い支配者としての姿との違いをはっきり示すものでした。イエスが選ばれた自己犠牲の道こそ、真の救い主であることの証だったのです。

31,32節を見てみましょう。15:31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 15:32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。祭司長や律法の専門家たちは、民衆とともにイエスをあざけりました。神に仕える立場の人が、神の子を笑うというのは悲しい姿でした。「他の人は救ったのに、自分は救えない」という言葉は皮肉でしたが、その中に福音の真理が隠されていました。イエスは自分を救わなかったからこそ、私たちを救えたのです。「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りてこい。それを見たら信じてやる」という言葉は、彼らが誤ったメシア像を持っていたことを示しています。本当の信仰とは、目に見える証拠を求めることではなく、見えない神の計画を信じることなのです。もしイエスが十字架から降りてしまっていたら、それは神の救いの計画 が途中で終わってしまうことを意味していました。イエスは自分を救いたいという人間的な誘惑に勝ち、最後まで神の御心に従われました。だからこそ、イエスの従順と犠牲は、人々を救うための神の深い愛をあらわしています。今日、最後に覚えて頂きたいことは愛ゆえに十字架から降りなかったということです。

Today’s Takeaways
①主の受難を心に刻む ②苦しみに耐え抜かれた主に従う ③愛ゆえに十字架から降りなかった