本日は、詩編59編1-4節から「御覧ください、主よ」と題し、短くお話をします。
詩編 59:1 指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。※ミクタム。サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき。】 59:2 わたしの神よ、わたしを敵から助け出し/立ち向かう者からはるかに高く置いてください。 59:3 悪を行う者から助け出し/流血の罪を犯す者から救ってください。 59:4 御覧ください、主よ/力ある者がわたしの命をねらって待ち伏せし/争いを仕掛けて来ます。罪もなく過ちもなく
1節に「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき。」とあります。これはサムエル記上19章に記されてている出来事です。ダビデは、元々はサウル王に寵愛をされていましたが、功績に対して、サウル王に妬みや猜疑心が生まれ、命を狙われることになります。ダビデの妻のミカル(サウル王の娘)がダビデを窓から降ろしたので、ダビデは逃げ、難を逃れることが出来たのです。そのことを読んだのがこの詩で、危険と困難の中での揺るがない信仰の歌です。4節を口語訳で見てみましょう。 59:4 わたしにあやまちもないのに、彼らは走りまわって備えをします。わたしを助けるために目をさまして、ごらんください。
明治時代に活躍したキリスト教思想家の内村鑑三は旧制一高の嘱託教員時代に天皇のご真影(写真)を礼拝することを頑なに拒絶しました。それが原因で解雇され、世間から大批判を受けました。仲間のキリスト者から「よくやった!さすがに内村だ!」と信仰が褒め称えられると思いきや、驚いたことに「余計なことをしてくれたものだ、そんなことをするからキリスト教はますます嫌われるのだ!」と教会とキリスト者からも冷遇をされてしまったのです。後日、内村は「求案録」で次のように記しています。「ひとからちやほやされている間は、人間は神に安きを求めることはできないのである。真理のためにさびしさをあじわったものだけが、その所でいかに神が慰めをに満ちたかたであるのかを知ることができるのである。」と。
理由はわかりませんが、私たちは災害など思いもよらぬことを経験します。私たちは新型コロナウイルスとの三年目の戦いに入っています。この二年間、三回の会堂のクローズを余儀なくし、外向きの活動はほどんど出来ていませんし、愛燦会もおこなっていません。四回目の会堂クローズになるかもしれません。しかし、このような時こそキリスト者の信仰が試され、信仰が強められる機会なのです。「御覧ください、主よ」と祈りましょう。
※「ミクタム」が何であるかは諸説あり断定はできませんが、音楽関係のものではないかとの学説があります。それに因み、日本にゴスペル専門レーベルのミクタムレコードという会社があります。代表取締役は小坂忠牧師夫人の小坂叡華さんです。