説教題 信仰勇者列伝③~死を乗り越える信仰~ 聖書箇所 ヘブライ人への手紙11章17-28節
11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。11:18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。11:19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。11:20 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。11:21 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。11:23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、11:25 はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、11:26 キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。11:27 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。11:28 信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。
ハレルヤ!11月の第一主日を迎えています。私たちの教会ではヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその20回目です。前回のおさらいから始めましょう。11章8-16節を通し、「信仰勇者列伝②~天に目を向けて歩もう!~」と題し三つ事を中心にお話をしました。➀罪を重ねても神に頼る、②キリスト者の本国は天にある、③天に目を向けて歩むでした。今日は続く11章17-28節を通し、「信仰勇者列伝③~死を乗り越える信仰~」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。
➀死の問題は解決されている
先週は二人信仰の勇者(アブラハム、サラ)から学びましたが、今日の箇所の信仰の勇者はアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセの関係者、そしてモーセです。17,18節から見て参りましょう。11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。11:18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。17-19節はアブラハムの信仰についてです。アブラハムの人生において最大の試練は、最愛の子イサクを主のご命令によって完全に捧げる生贄として捧げることでした。このことは創世記の22章に記されていますので、後ほど読まれてください。「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」とあります。この箇所は創世記21章12節からの引用で、主はアブラハムに約束の子としてイサクを与え、その子孫が偉大な民となると語られました。その主がイサクを生贄として捧げよと命じたのです。アブラハムは大きな矛盾を感じていたことでしょう。しかし、アブラハムは「信仰によって、イサクを献げ」たのです。ある教会でのことです。教会学校が始まる前に二人の子どもがノアの箱舟に登場する動物のおもちゃで遊んでいました。教会学校の先生が「この動物のなかから何を神様に捧げますか」と二人に質問をしました。すると二人は動物のおもちゃをひとつずつ調べ始めました。そして、二人が選んだものは足の折れた一匹の羊でした。これは捨てても良い壊れたおもちゃです。私たちはどうでしょうか。価値のないもの、捨てても良いようなものを捧げてはいないでしょうか。捧げるとは献金や献品だけではありません。礼拝もそうです。最高の礼拝を捧げているでしょうか。心を探ってみようではありません。アブラハムは信仰によって最高なものを捧げたのですが、その具体的な理由が19節に書かれています。19節を見てみましょう。11:19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。「神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じた」とあります。創世記22章には主から御言葉を聞いたとき、すぐにイサクと二人の若者を連れて指定された場所に向かいました。そして、その三日後にその場所が見えるところまで来ますと、アブラハムは若者に次のように語りました。創世記22章5節です。22:5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムはイサクを燔祭の生贄として捧げても主が生き返らせてくださることを信じていたことがわかります。主は御使いを通して燔祭の直前で次のようにアブラハムに告げました。創世記22章10-12節です。22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」イサクは犠牲になりませんでした。ですから、著者はアブラハムの信仰について「イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」と語るのです。20節を見てみましょう。11:20 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。20節はイサクの信仰についてです。創世記27章28,29節を見てみましょう。27:28 どうか、神が/天の露と地の産み出す豊かなもの/穀物とぶどう酒を/お前に与えてくださるように。 27:29 多くの民がお前に仕え/多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり/母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ/お前を祝福する者は/祝福されるように。」イサクは自分の死期が近いことを感じて息子たちに祝福を与えました。この祝福はその時点では現実となっていない未来のことです。目に見えないものを確信させるイサクの信仰がわかります。21節を見てみましょう。11:21 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。21節はヤコブの信仰についてです。約束の地であるカナンが飢饉になり、ヤコブとその一族はエジプトに行きます。そこには神の導きにより先にエジプトに行って司政者(国務長官)になっていた息子のヨセフの世話になります。自分の死期が近づいていることを悟っていたヤコブはヨセフとその「息子たちの一人一人のために祝福を祈」ったのです。ここには死の恐れはなく、あるのは神の祝福が子々孫々に続くことへの信仰です。22節を見てみましょう。11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。21節はヨセフの信仰についてです。ヨセフは父ヤコブが年老いて与えられた息子ですので、ヤコブから特にかわいがられていました。そのことが原因で兄たちに憎まれ、エジプトに売られてしまい様々な試練にあいます。しかし、夢を解き明かす賜物が王に認められ、司政者(国務長官)となって国を飢饉から救い、父や兄弟たちと再会するのです。創世記37-50章にはヨセフを中心とした、いわゆる「ヨセフ物語」が記されています。後ほど、お読みください。ヨセフはエジプトが寄留地に過ぎないことを確信していました。ですから、「イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与え」たのです。そして、この指示は約400年後に実現したのです。これもまた、神の約束を信じる信仰の結果なのです。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの信仰を見て参りましたが、彼らは死を恐れていなかったことが読み取れます。自分の死のことだけを考える人、それだけを見つめる人は死を恐れるばかりです。しかし、彼らは神が彼らに約束をしたことを覚え、死期が迫っても子々孫々を祝福したのです。これが死を乗り越えた信仰です。死に縛られた人生には自由がありません。死の問題から解放されたときに本当の自由が与えられます。そして、死の問題の解決は主イエス。キリストによって既にもたらされているのです。この手紙の2章で学びましたが、2章14,15節には次のように記されています。2:14 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、 2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。イエス・キリストの十字架の死と復活を信じているキリスト者は死の問題から解放された本当の自由を得ているのです。ですから、死を乗り越える信仰を持つことができるのです。未だ主イエスを救い主として受け入れていない方は、本当の自由を得てください。今日、先ず覚えて頂きたいことは死の問題は解決されているということです。
②最終的な判断は信仰
23節を見てみましょう。 11:23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。23節はモーセを取り上げた二人の助産婦の信仰です。モーセの母親の信仰も読み取れます。出エジプト記1,15-17,2:2,3を見てみましょう。 1:15 エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。一人はシフラといい、もう一人はプアといった。 1:16 「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」 1:17 助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた。 2:2 彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。 2:3 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。助産婦たちは信仰者でした。信仰には恐れを征服する力があるのです。モーセの母親は「三か月の間隠しておいた」のですが、隠し切れないことを悟り、生後三か月の息子を「ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた」のです。これも信仰です。一切を神の手に委ねたのです。信仰というのは、これは主にお任せする、これは主にお任せしないということではありません。さて、一切を主にお委ねした結果はどうだったでしょうか。出エジプト記2章4-10節を要約します。ナイル川でファラオの娘、つまりエジプトの王女が侍女を連れて水浴びをしていました。そこにモーセを乗せた小舟が行き着いたのです。幼子を見つけて憐れに思った王女は、籠から引き揚げ自身の手で育てることにしたのでした。ちなみに、モーセの名前の由来は、ヘブライ語で「川から引き揚げられた子」という言葉ですが、王女によって命名されました。そしてその一部始終を陰から見守っていた姉ミリアムの計らいにより、モーセの実の母親が乳母として雇われ、モーセは王女の庇護の下で不自由なく成長していくのでした。モーセの生い立ちは摂理、真に奇しい神の御手の下にあったのです。24-26節を見てみましょう。11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、11:25 はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、11:26 キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。24節以降はモーセの信仰についての記述です。「ファラオの王女の子」であることは、社会的名誉、地位、王家の財宝などあらゆる歓楽が約束されていることです。しかし、モーセは信仰により、それらのはかなさを見抜いていたのです。「キリストのゆえに受けるあざけり」ありますが、キリストの部分を信仰と置き換えると意味がハッキリします。神が示した道をユダヤの民とおこなう方が「財宝よりまさる富」と悟っていたのです。この箇所からとても大事なことがわかります。私たちはしばしば人生の岐路に立たされます。進学、就職、結婚など重要な選択を判断しなくてはならないものです。判断を経験、知識、常識に頼ることもあるでしょうし、家族友人にアドバイスを求めることもあるでしょう。しかし、最終的な判断は信仰によるものだということを覚えて頂きたいと思います。今日、二番目に覚えて頂きたいことは最終的な判断は信仰に基づくということです。ところで、著者があえて「キリストのゆえに」という表現を使ったのには大きな意味があります。この手紙の受取人(共同体)は「キリストのゆえに受けるあざけり」、迫害を受けていたのです。その結果キリスト教信仰から離れ、ユダヤ教へ遡りする可能性があったのです。また、この手紙の受取人にとってモーセとは史上最大の人物なのです。ですから、著者はこの手紙の3章でイエスがモーセに勝ることを述べ、今日の箇所ではあたかもモーセもキリスト信仰をもっていたように語るのです。モーセを信じているならモーセが信じているキリストを信じなさいです。旧約における神の民も新約における神の民も同一線上にあることを教えているのです。
③素直に信じて実行する。
27,28節を見てみましょう。11:27 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。11:28 信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。27節は出エジプトに至ることを念頭にいれての記述です。「目に見えない方を見ているようにして」とあります。これは1節に書かれていたことを言い換えたものと言えます。11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。ルターは「信仰の特質は『だれも見ていないものを見よ。誰もが見ているものを見るな』に帰着する」と語りました。28節は過越しの生贄を念頭に入れての記述です。過越しの生贄については出エジプト記12章に記されていますので、後ほど読まれてください。神は先ず9つの災を持ってファラオを打ちましたが、ファラオは最後まで心を頑なにして神に抵抗をしました。それで神はエジプトの血の全ての初子を打ったのです。しかし、神はかもいと門柱に小羊の血が振りかけられた家は過ぎ越すと言われたのです。そこで、モーセはイスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。神の言葉と命令を素直に信じて実行したユダヤの民の家は全て過ぎ越されたのです。信仰とは神の言葉と命令を素直に信じて実行することです。今日、最後に覚えて頂きたいことは素直に信じて実行するということです。信仰による歩みは、私たちの足で歩くよりも早く、目的地に至らせるのです。機会はしばしば熟慮によって失われてしまうのです。始まりました一週間、主イエスに信頼し歩んで参りましょう。
Today’s Take-away
➀死の問題は解決されている、②最終的な判断は信仰、③素直に信じて実行する。
Thinking Time主にお委ね出来ないことはありませんか