• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年7月3日主日礼拝

説教題 神の安息にあずかる~全てをご存じなる神~

聖書箇所 ヘブライ人への手紙4章1-13節

4:1 だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。4:2 というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。4:3 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。4:4 なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。4:5 そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。4:6 そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、4:7 再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、/「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。4:9 それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。4:10 なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。4:11 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。4:12 というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。4:13 更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。

ハレルヤ!7月の第一主日を迎えています。先週は美恵子牧師にヨハネによる福音書1章1-18節を通して、「イエス・キリスト~全ての人を照らす光~」と題しお話をして頂きました。ヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその七回目です。おさらいをしますと、先々週は3章12-19節を通し、「神の言葉を聞く~励まし慰め信じ実行~」と題し三つの事を中心にお話をしました御言葉は励ましと慰めに使う、御言葉を信じる、御言葉を実行するでした。今日は、4章1-13節を通し、「神の安息にあずかる~全てをご存じなる神~」と題しお話を致します。今日の箇所で、著者は詩編を引用しつつ、出エジプの出来事と主イエスによる救いを対比します。ご一緒に学んで参りましょう。

①礼拝は安息の場

1節から順番に見て参りましょう。

4:1 だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。4:1Let us therefore fear, lest, a promise being left us of entering into his rest, any of you should seem to come short of it. (KJB)「神の安息」とあります。今日の聖書箇所で著者は「神の安息」を単なる休息の以上の意味で使っていますので都度、説明を致します。既に主イエスが大祭司であることを学びました。大祭司である主イエスはユダヤの民を導きユダヤの民を一人残さずに神の安息に預からせてくださるのです。そして、これは今日の私たちにも当てはまります。「気をつけましょう。」と訳された原語は「恐れよう」という意味です。英語の聖書KJBではLet us fearです。このおそれについて、箴言には次のように記されています。1:7 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。1:7The fear of the LORD is the beginning of knowledge: but fools despise wisdom and instruction. (KJB)主を恐れることなく御言葉を信じることはできませんし、主を畏れることは信仰生活の基本と言えます 1節も箴言1:7も英語ではfearが使われています。Fearは一般的なおそれの意味に加え、神をおそれる場合に使います。畏怖とも言えます。ですから、畏敬の念をもって主を正しく恐れれば、主は私たちを導き私たちを一人残さずに神の安息に預からせてくださるのです。2節を見てみましょう。4:2 というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。「福音が告げ知らされている」とありますが、この箇所の「福音」は一般的な福音の意味という意味よりも 1節の「神の安息にあずかる約束」の意味で解釈をすると良くわかります後半に、「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」とあります。せっかく、「神の安息にあずかる約束」を聞いたのに「信仰によって結び付かなかった」、つまり不信仰であったから役に立たなかったのです。「聞いた」とありますが、聞くとはどういうことなのでしょうか。ちいろば牧師こと榎本保朗先生は著書「新約聖書一日一章」の中で次のように解説をしています。とてもわかりやすいのでそのまま引用します。『聞くとはなんであろうか。イエスは説教をするときに、群衆をすわらせたという場面が良く出てくる。「すわらせた」ということは、仕事をしないということである。働くのをやめるということである。信仰とは、人間の側のわざをやめて、ただ神の働きを待つことである。「汝、静まりて我の神たるを知れ(文語訳詩篇46:10)」という御言葉がある。静まるとはやめることである。それが受け入れ、聞くことである』3節を見てみましょう。4:3 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。「わたしは怒って誓ったように、/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』」と言われたとおりです。もっとも、神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。前半に「この安息にあずかることができるのです。」この安息とは主を信じるものに与えられる霊的な意味の安息です。続いて、「わたしは怒って誓ったように、/『彼らを決してわたしの安息に/あずからせはしない』」と言われたとおりです。とあります。この箇所は詩編95編11節からの引用です。95:11 わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」引用元の詩篇の「憩いの地」とはユダヤの民に与えられた約束の地カナンです。ユダの民は約束の地にたどりつくまでに40年もの年月がかかってしまいました。不平不満ばかりつぶやき不信仰だったからです。指導者のモーセは不従順により約束の地には入れませんでした。(民数記20章1-13節は「メリバの水」の出来事)「神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。」とあります。この箇所は創世記2章2節を念頭に置いての記述です。2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。つまり、「神の業」とは安息を示しているのです。神が安息されたということは創造の目的を遂行されたということです。このように安息は世の始まりから神が定めており、私たちにも安息日を持つように命じられておられるのです。4節を見てみましょう。4:4 なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。4節の「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」は十戒からの引用です。出エジプト 20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。さて、私たちはどうでしょうか。安息の時をもっているでしょうか。忙し過ぎて安息どころではないなどと思ってはいないでしょうか。忙しいという漢字は立心偏に亡びると綴ります。つまり心が亡びるということなのです。毎日、忙しい、忙しいと言いながら亡びへの道を邁進していることに他ならないのです。疲れをとるために神は安息を用意してくださいました。疲れには肉体的なものと霊的なものがあります。肉体的な疲れは横になれば治る場合もありますが、霊的な疲れは御手の中でしか回復をすることはできないのです。それは、私たちは神の姿に似せて創られているからです。礼拝の中で私たちは今も生きておられる主の声を聞きます。主の御声を聞き、従うことで、私たちは安息に入ることができるのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは礼拝は安息の場ということです。5,6節を見てみましょう。4:5 そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。4:6 そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、5節は詩編95編11節の引用です。この手紙で詩編95編11節が引用されるのは三回目です。95:11 わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」6節に「安息にあずかるはずの人々がまだ残っている」とあります。ここで言われていることは民数記13章17-33節に記されている出来事です。約束の地であるカナンに近づいた時、モーセは12名の斥候を遣わしました。その内10名は「乳と蜜が流れている」良い地ではあるが、その住民は強いのでその地に入ることは不可能だと報告をしました。しかし、残りの二人のカレブとヨシュアは主に頼り前進すべきと訴えましたが、ユダヤの民は10名の斥候の話を信じ、その結果、荒野をさまよい、彼らは約束の地には入れず、かれらの子どもたちが入ることが出来たのです。7節を見てみましょう。4:7 再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、/「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、/心をかたくなにしてはならない」とダビデを通して語られたのです。7節に「既に引用したとおり、」とあるようにこの箇所は詩編95編7-8編からの二回目の引用です。95:7 主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。 95:8 「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。「心をかたくなにしてはならない」とあります。著者は再三にわたり旧約聖書から引用します。神は創造の御業を終えた後に安息をお定めになりました。そして被造物である人間にも安息を命じました。ですから、安息が失われているとすればそれは神のせいではありません。心をかたくなにしてしまっている人間のせいなのです。

②最終的な安息は御国

8,9節を見てみましょう。4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするのなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。4:9 それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。8節に「ヨシュア」の名前が記されています。ユダヤの民は不信仰ゆえに安息の場所でカナンに入ることは出来ませんでしたが、ヨシュアとカレブ、そして荒野のさまよいの中で生まれた20歳未満のものだけが約束の地に入ることができたのです。このことは民数記14章に記されていますのすで、後ほど読まれてください。しかし、この約束の地では本当の安息を得ることはできなかったのです。著者は既にイエスはモーセに勝ることを語りましたが、暗にイエスはヨシュアにも勝ると伝えているのです。9節に「安息日の休み」とあります。この安息と訳された原語は今までに記されている安息とは違う原語です。この箇所しか使われておらず特別な意味があります。主イエスを救い主と受け入れた人に与えられる永遠の安息、天国における安息の意味です。今日、二番目に覚えて頂きたいことは最終的な安息は御国ということです。10,11節を見てみましょう。4:10 なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。4:11 だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。「神の安息にあずかった者は」とあります。神は初めから、私たちのためにも安息を備えられました。これは、永遠の安息を思い起こす印として与えられたのです。それにもかかわらず、神はユダヤの民がエジプトを出たときに不信仰ゆえに安息をお与えになりませんでした。この地上での安息は永遠の安息の予型なのです。出エジプトの出来事とは、キリストの贖罪の御業の陰影に過ぎなかったのです。安息日中の安息日である年に一回の贖罪の日は、人間の大祭司によって、毎年繰り返さなければなりませんでした。しかし、キリストがだだ一回、十字架の死によって贖罪の御業を完成し完全なものとなったのです。そして、この御業を信じる者には永遠の安息が与えられるのです。「この安息にあずかる」ための唯一の方法がローマの信徒への手紙に記されています。 10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。たったこれだけですので、福音=良いお知らせ、英語ではGospel =Good newsというのです。宗教によっては、滝に打たれる修行や、不眠不休で断食をするとか、家財一式捧げるとかありますが、そんなものは一切不要なのです。

③神は全てをご存じ

12節を見てみましょう。4:12 というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。「神の言葉は生きており」とあります。聖書は過去に記された単なる書物ではありません。「どんな両刃の剣よりも鋭く」、人間の心の奥深くまで鋭く切り込み、その一切を暴露する力があるのです。また、コリントの信徒への手紙一には次の御言葉が記されています。一コリント 1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。御言葉は活ける神の力そのものなのです。御言葉は一点のごまかしもゆるさないのです。神の言葉を聞くとは神の御前にあるのと同じです。そして、このことは人間だけではありません。13節に記されています。神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。」「裸であり」と訳されていますが、原語では裸に置かれるという意味の動詞です。動物の皮を剥ぐ場合に使われます。名詞形としては次のような場合に使われていました。昔、刑場に連れていかれる犯罪人には顎の下に短刀を縛り付けていました。これは犯罪者が罪を恥じて顔を下に向かせないためのものです。「裸である」とは、このような仕打ちを受けた者のことです。続いて、「わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」とあります。私たちは人間に対しては外側を装いごまかすことができます。金融機関の職員や警察を装った特殊詐欺が良い例です。しかし、神の前では装いはことごとく取り去られ、ありのままで立たなければならないのです。どんな隠れ蓑や仮面も役に立たないのです。ケルミット・エビューは著書「神、汝の中にいます」の中で「人間はいつかは自分自身と神から逃避することをやめなければならない。最後には逃避する場所がなくなってしまうからである」と書いています。人間はいつか必ず神の前で自分の事を語らねばならない時が来るのです。「すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されている」からです。今日、最後に覚えて頂きたいことは神は全てをご存じということです。

Today’s Take-away

①礼拝は安息の場、②最終的な安息は御国、③神は全てをご存じ

Thinking Time

御前でどのように自分を語りますか。

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