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2022年8月21日主日礼拝

説教題:バプテスマのヨハネの証 聖書箇所:ヨハネによる福音書1章19-28節

◆洗礼者ヨハネの証し 1:19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、 1:20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。 1:21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 1:22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」 1:23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」 1:24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 1:25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、 1:26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 1:27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」 1:28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

おはようございます。

二か月毎に、ヨハネ福音書からお話ししています。前回は、「イエス・キリスト~すべての人を照らす光~」と題して、お話ししました。今朝は、キリストを証しするために来られたバプテスマのヨハネについてです。まずこのバプテスマのヨハネがどのような人物であったか見て行きましょう。祭司ザカリヤ夫婦には子供がいませんでした。ある時、ザカリヤが聖所で香を焚いていると、天使が現れ、子どもを授かると告げられます。ルカ 1:15 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、1:16 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。 1:17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」バプテスマのヨハネは祭司ザカリヤの子であり、メシヤが来る前に、人々の心を整え主に導く使命が与えられていた人物で、メシアの先駆者です。ところで、メシヤ、キリストという言葉がよくつかわれますが、その意味は両方とも「油注がれた者」と同じです。メシヤはヘブル語で、キリストはギリシャ語です。ルカ1:17 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、とありますが、エリヤとはどんな人物でしょう。彼はイスラエルの国が南と北に二つに分裂していた時代、BC870年ころ、北イスラエルで活躍した預言者です。当時のイスラエルの民は、真の神様から心が離れ偶像崇拝をしていました。バアルに礼拝を捧げていたのです。エリヤはそれを悔い改めさせ、イスラエルの民を真の神礼拝に引き戻しました(列王上18:21)。彼は死を見ず天に引き上げられました。ルカ1:16イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。バプテスマのヨハネも、エリヤの霊と力により主に先立って、イスラエルの民を悔い改めさせ、そのあとに来られる神である主、メシヤに立ち返らせるという使命を与えられていました。その上、服装もエリヤそっくりでした。エリヤは毛衣を着て、腰には革帯を締めていました(列王下 1:8)。バプテスマのヨハネも、ラクダの毛衣を着、腰に革の帯を締めていたとありますから、エリヤと同じような格好をしていました。ルカ 1:15 彼は主の御前に偉大な人になり、とあるように、イエス様も彼のことを「女から生まれた者の内で、彼よりも偉大なものはいない」(ルカ7:28a)と言っています。それでは今朝の聖書箇所の19節から見ていきましょう。1:19 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、時は、律法によるところの旧約の時代から、キリストの贖いによる恵みの時代、新約の時代に移行していく時です。ユダヤの人々はメシヤが現れるということを昔の預言者から聞いていたので、メシヤを待ち望む思いが高まっていました。当時ユダヤはローマの属国となっていたので、霊的な意味での罪の許しを与える救い主としてのメシヤではなく、国を独立させる政治的なリーダーとしてのメシヤを待望する機運が高まっていました。らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた、ヨハネの一風変わったいでたちや、その歯に衣着せぬ、核心を突いた力強いメッセージから、多くの群衆は、もしかしたらヨハネが、皆が待望しているところのメシアかもしれないという期待をもって、彼のところに来てヨルダン川でバプテスマを受けていたと考えられます。このような状況を黙ってみているわけにはいかなかったのが、エルサレムのユダヤ人でした。エルサレムのユダヤ人たちとはサンヘドリンと呼ばれるユダヤ最高議会の指導者たちであろうと言われています。それはサドカイ派の祭司とパリサイ派のユダヤ人の二大勢力によって構成されていました。多くの人々が、もしかしたら、この人がメシヤかもしれないと、バプテスマのヨハネのところに集まり扇動されているが、彼は何の目的でやっているのか、社会秩序を乱すのではないか、被害が出るのではないかといった危機感があったと思います。また一方で、ヨハネは祭司ザカリヤの息子であり、レビ人の一人です。彼らはそのことを知っていたと思うので、ヨハネを敬う気持ちから、もしかしたら「この人は本当にメシヤなのか」という思いもあったかもしれません。とにかく彼のことを調べ、何の目的でまた何の権威によってやっているのかを調べようと、祭司やパリサイ人をヨハネのもとに遣わしました。 1:20 彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。ヨハネははっきりと自分はメシヤではないと断言しました。これは非常に強い打消しを意味する言葉だそうです。自分がメシヤだと思われるなどとんでもない、畏れ多いことだ。私は彼よりはるかに劣る者なのだから。と言わんばかりです。人間には、他人から価値あるものと認められたいという承認欲求があります。それはよいことですが、ただ実力以上に自分を大きく見せようとするところに罪があります。例えば学歴詐称などがあると思います。バプテスマのヨハネは祭司ザカリヤの息子ですから、敬われる中で育ってきたのではないかと思いますが、自分がメシヤと思われるなんてとんでもないと、強い否定を表しています。また、ルターは、栄誉をヨハネ自身のものとさせる強烈な誘惑が、ヨハネの道に置かれたこと、そしてこの誘惑に打ち勝った時に示した卑下(自分を低くすること)と信仰とに、評価を与えています。当時の宗教指導者たちは、人の前で自分を大きく見せることを求めていたようで、イエス様から非難されました。

マタイ◆律法学者とファリサイ派の人々を非難する 23:1 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。 23:2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 23:3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 23:4 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 23:5 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。 23:6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、 23:7 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。とあります。このような人の評価を気にし、内側よりも外側を良く見せようとし、上座に座ること、先生と呼ばれることを好んでいる時代でした。宗教指導者たち特にパリサイ人らは、自分たちは律法を守っているから正統派だと自負していました。しかしそれは昔からの言い伝えを守っていることで、神の御心からは離れていました。また自分たちの先祖にはアブラハムがいる、自分たちは神の選びの民であると自負し、神の律法を持たない異邦人を軽蔑するような傲慢さがありました。ヨハネはそのような時代の人々に、罪を悔い改め、遜って、真の神に立ち返るように、悔い改めのバプテスマを授け、メシヤを迎える道備えをしました。「悔い改める」とはどう言うことでしょうか。悪いことや罪を犯したことを後悔し、神に告白して許していただきくこと。確かにそれも含まれますが、今までの自分勝手な生き方を許していただき、自己中心な生き方から神中心の生き方へ180度方向転換して、今度は神に向かって生きていくことです(方向転換し、神に向かっていく、二つの行為)。私たちは悔い改めても、しょっちゅう自己中心になりやすいものです。だからイエス様も「熱心に悔い改めなさい」(黙示録3:19b)と言われています。

➀熱心に悔い改める

パリサイ人を責めることはできません。私たちも人目を気にし、自分を大きく見せようとする誘惑があります。自己中心になったり、神様以外のも、例えば家族や仕事、趣味などが人生のよりどころとなってしまうこともあります。しかしそれらのものもやがて変化していきます。永遠に信頼できるお方は神様だけです。そのようなことを示されたら、遜って熱心に悔い改め、方向転換して神様の方に向かっていけますようにと祈りましょう。1:21 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。 1:22 そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは自分はメシヤ、キリストではないと断言しました。すると彼らはさらに「それでは、エリヤですか」と尋ねます。メシヤの来臨に先立って、エリヤが再来するというマラキ書の預言からきています。(マラキ3:23,24 別訳では4:5,6)マラキ 3:23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 3:24 彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。とあるので、メシヤでないのなら、メシヤの前に来ると預言されているエリヤの再来かもしれないと思ったわけですが、ヨハネは「違う」と答えています。派遣された人たちはそれも否定されたので「それではあの預言者ですか」と再度尋ねます。これは申命記18:15で、神がモーセの時代に、彼のような預言者をたてると約束されていたので、あなたはモーセに約束されていたあの預言者なのですかと尋ねました。ヨハネはそれも違うと言ったので、しびれを切らしたように「いったいあなたはだれなのですか。私たちを遣わした人たちに返事ができるようにはっきりと教えてください」彼らは権威ある者たちからの任命を受けて派遣されたので、きちんとした答えを持って帰れるようにはっきり教えてくださいと、更に食い下がります。ヨハネは答えます。 1:23 ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。」彼は「私は声だ」と言いました。これはイザヤ40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。40:4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。 40:5 主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。のみことばを引用したものです。これは捕囚となっていたイスラエルの民への回復の預言です。ヨハネはこのみ言葉を用いて、「私は声である」と言い切りました。どのような声でしょうか。『主の道をまっすぐにせよ』とメシヤを迎える準備をせよと、呼びかける声です。彼は自分の使命をよく理解していました。メシヤこそ、世界の救い主です。ヨハネは自分がそのお方を知らせ、人々を整えるように叫ぶ声に過ぎないことを自覚していました。自分のアイデンティティをしっかりと持っていました。声は言葉を伝えるために出すものですがやがて消えていきます。しかし声によって発せられた言葉、その実体、本質はいつまでも残ります。自分はやがて消えゆく声にすぎないが、後から来られるメシヤを伝えることができればそれで満足だったので、そこに立ち続け、ぶれませんでした。

②キリストを指し示す声となれるよう願う

大きな声でイエス・キリストを伝えることができなくても、例えばトラクトをわたすこと、特別集会に誘うこと、また親切な行いをすることなど、自分にできることでキリストを指し示すことをしていきましょう。またここで簡単に声となれるものを紹介しましょう。15秒の証(by  T&Mセミナー (例)①かつて私は ②怒りを覚えたり、不安がありました。③イエス様に出会って ④今は赦しと喜びをいただいています。⑤あなたはこのような経験がありますか。)イエス様を伝える簡単な方法です。それは自分の救いの証を15秒にまとめます。私の場合ですと「かつて私は、人と比較して自分の価値を図っていたので、確信がなく不安定でした。しかしイエス様に出会って、今は、神の目に、私は高価で貴いことを知り、人と比較しなくなり、安定した生き方ができるようになりました。あなたはこのような経験がありますか。」。救われる前の自分の状況を一言で述べ、イエス様に出会い救われてから、今はどう変わったかを、Before,Afterで簡単に伝えます。自分の15秒の証を考えるのも楽しいものです。いろいろなパターンが出てきます。これなら伝道しようと構えないで、普通の会話の流れの中で、証しすることができます。 1:24 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。 1:25 彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ファリサイ派は律法を守る自分たちこそがユダヤ教の正統派であると自負していたので、いったい何の権威によって洗礼を授けるのかといった非難する思いも混じったような質問をしました。それに対して1:26 ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。1:27 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」1:28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。ヨハネの答えを補うと、私は神に遣わされて、人々がメシヤを迎えるための心備えとして、水による悔い改めのバプテスマを授けている者である。しかし、私の後から来られる方は、私よりもはるかに優れたお方であり、「その方は聖霊で洗礼をお授けになる。(マルコ1:8)」お方なのだ。と伝えています。ところで、水のバプテスマは、イエス様を信じる決心をして、自分中心の生き方から、神中心の生き方へと方向転換する悔い改めのものです。これはバプテスマのヨハネもしていましたが、私たちも牧師先生から授けて頂きました。聖霊のバプテスマは、イエス様から頂くもので、神の御心を行っていく生き方に変える力のあるものです。既にすべてのクリスチャンは聖霊を頂いていますが、使徒1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」にあるように、弱かった弟子たちが命がけで主を証していく者にかえられたのは、聖霊のバプテスマによるものです。聖霊のバプテスマを求めましょう。その方、つまりメシヤはすでにあなた方の中におられるが、あなた方はまだその方を知らない。しかし私の後から来られるその方こそ、真のメシヤなのだ。と伝えます。そして私はその方の履物のひもを解く値打ちもないと伝えます。当時は僕の中でも最も身分の低い者が履物のひもを解いていたそうです。ヨハネは自分はその方の僕にも劣る者であると、自分を低くし、その方メシヤはそれほど偉大な優れたお方であることを示しました。先には「私はやがて消え去る声に過ぎない」と言い、ここでは、「私はその方の履物のひもを解く値打ちもない」と徹底的に遜っています。

③ヨハネの徹底的な謙遜は私たちの手本

すぐ傲慢になりやすいものです。常に謙遜であるように求めて生きたいです。ヨハネはこのようにしてメシヤを証ししました。今の時代、周りを見ながら自分の都合の良いようになびいていく生き方が、何か賢いように錯覚させられ、惑わされるのではないでしょうか。今政治家と旧統一協会との癒着が明らかになりました。政治家にとってはお金や選挙の得票数を得られるというメリット、統一協会側にとっては、これだけ力のあるの政治家が支援しているのだという信頼度が上がります。お互いに利用し合っている、欲をはらんだ悪知恵ではないでしょうか。そのようなこざかしい人の知恵によるのではなく、すべてを明け渡して主に信頼して、与えられた使命を果たしていくバプテスマのヨハネの生き方は、私たちを励ましてくれます。16世紀に活動したドイツの画家マティアス・グリューネヴァルト(1470/1475年頃 – 1528年8月31日)の代表作にイーゼンハイム祭壇画があります。この作品は、イーゼンハイムの聖アントニウス会修道院付属の施療院の礼拝堂にあったのですが、現在はフランスのコルマールにあるウンターリンデン美術館に収蔵されています。十字架上のキリストの左右に聖母マリア、マグダラのマリア、使徒ヨハネ、バプテスマのヨハネが描かれています。バプテスマのヨハネはキリストを指さしているのです。彼の口の横には「彼は必ず栄え、私は衰える」(ヨハネ3:30)の言葉がラテン語で書かれています。神学者のカール・バルトはこのヨハネの指が長いことに気が付きました。実際、キリスト教美術史家によればこの指はヨハネの身体のプロポーションからすると異常に長く、むしろキリストの身体のプロポーションに対応しているいそうです。  グリューネヴァルトがどのような意図をもってこのように描いたかはわかりませんが、証しの業の意味を教えてくれています。私たちはキリストを証しするにはあまりにも小さく弱く、みじめで、人々につまずきを与えることばかりかもしれません。しかしそんな私たちでさえ、ひとたびキリストを指すとき、その指は大きくなり、美しくなり、キリストのプロポーションとなって、まっすぐにキリストご自身を指すことができるのです。私たちのみすぼらしい証が、キリストを指し示し、そのままキリストの恵みと栄光につつまれるのではないかというのです。イエス様を信じるだけで救われる恵みの時代に、私たちは生かされています。しかしこの時代もいつまでも続きません。やがて主の再臨があります。今度はイエス様が王様として再び来られ正しい裁きをなさるその日は一日一日近づいています。求道中の方は早く信じる決心をなさることをお勧めします。また先に救われた私たちも働けなくなる夜が必ず来ます。主を証しし、主を指し示す指とさせていただきましょう。聖霊様に助けられながら、それぞれがおかれた所で、地の塩、世の光として主を証ししていけますように祈りましょう。

Today’s Take-away➀熱心に悔い改める、②キリストを指し示す声となれるよう願う、③ヨハネの徹底的な謙遜は私たちの手本

Thinking Timeキリストを指し示す声として、どんなことができるだろうか

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