• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年4月16日主日礼拝

説教題:ヨセフ物語に学ぶ神の導き 聖書箇所:創世記45章:1-8節、50章:15-21節

◆ヨセフ、身を明かす45:1 ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。45:2 ヨセフは、声をあげて泣いたので、エジプト人はそれを聞き、ファラオの宮廷にも伝わった。45:3 ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。45:4 ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄ってください。」兄弟たちがそばへ近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。45:5 しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。45:6 この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。45:7 神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。45:8 わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。◆赦しの再確認50:15 ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。50:16 そこで、人を介してヨセフに言った。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。50:17 『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」これを聞いて、ヨセフは涙を流した。50:18 やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、50:19 ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。50:20 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。50:21 どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。

ハレルヤ!4月の第三主日を迎えました。今日は創世記から学びますが、創世記は二分することが出来ます。1-11章とそれ以降です。1-11章は人類の歴史です。天地創造、アダムとエバ、ノアの箱舟、バベルの塔などが記されています。12章以降はアブラハムから始まるイスラエルの歴史です。中でも「ヨセフ物語」については、創世記37章-50章に詳しく書かれており、創世記の四分の一近くを占めています。後ほど、是非読まれてください。先ず、今日の箇所までの「ヨセフ物語」を要約することから始めてみましょう。ヨセフの生涯は、まるでジェットコースターのようでした。アップダウンの連続です。妬み、いじめ、今日でいうセクシャル・ハラスメントのようなこともありました。ヨセフは父ヤコブと母ラケルとの間に生まれました。年をとってからの子でしたので、父ヤコブからに特別に寵愛をされていました。そのことで、10名の異母兄から疎まれていました。また、ヨセフは夢でみたことを兄たちに伝えたところ、彼らの妬みにあい、エジプトへ向かうイシュマエル人の隊商に売られてしまうのです。エジプトに連れて行かれましたが、主がともにおられたので、エジプト王のファラオの侍従長の家の管理を任されますしかし、侍従長の妻の誘惑を断った為、濡れ衣を着せられ投獄されてしまったのです。獄中で、給仕長の夢を解き明かし給仕長は釈放をされます。しかし、給仕長がそのことをのファラオに伝えるのを忘れ釈放されるのは二年もかかってしまいました。ファラオの夢を、「七年間の豊作と、その後の七年間の飢饉」と解き明かし、ファラオの顧問、宮廷全体の主(今で言えば国務長官といった地位)を得たのです。数年後、ヨセフの夢解きのとおり飢饉がおこります。ヨセフの兄たちは、食料求めエジプトへと旅立ったのです。無事、エジプトで食料を与えられたヨセフの兄たちは、父ヤコブの下へと戻り、ヨセフの要求通り、末子ベニヤミンを連れ再びエジプトを訪れ、ヨセフと再会をします。ヨセフは波乱万丈の人生を経てエジプトで王に次ぐ最高の地位にまで登りつめましたが、高慢にも、横暴にもならず、自分を貶めた兄たちでさえも赦しています。何故、そのようなことができたのでしょうか。今日は創世記45章:1-15節、50章:15-21節から「ヨセフ物語に学ぶ神の導き」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①神の導きを確信する

1,3節を見てみましょう。45:1 ヨセフは、そばで仕えている者の前で、もはや平静を装っていることができなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」と叫んだ。だれもそばにいなくなってから、ヨセフは兄弟たちに自分の身を明かした。 45:3 ヨセフは、兄弟たちに言った。「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。「もはや平静を装っていることができなくなり、わたしはヨセフです。」とあります。44章に記されていますが、兄のユダが父ヤコブとベニヤミンの事を語ります。ベニヤミンは母が同じで、まだ見たことのない弟このことを聞いているうちに、ヨセフは自制をする事が出来なくなり、兄たちに自分がエジプトに売られた弟のヨセフだと明かすのです。今日の御言葉はその時に語られたもので、「ヨセフ物語」の頂点と言えます。ヨセフは、兄たちに「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。」と言って自分を明かしました。このヨセフの言葉を聞いて兄弟たちはどんなに恐れおののいたことでしょうか。「兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができなかった。」とある通りです。今やヨセフは一国の国務長官のような地位です。過去の事を思い出し、どんな仕打ちを受けるか戦々恐々だったのです。そんな恐れおののく兄たちにヨセフは次のように語りました。5,8節を見てみましょう。「 45:5 しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。 45:8 わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」ヨセフは、神がこの世界と私たちの人生のすべてを支配しておられることを知り、信じていました。神が、この世界と私たちの人生に介入され、導かれることを信じていたのです。兄たちは猛省し、ヨセフもまた兄たちに自分を導いてくださった神の奇しき御業、全ての事が神の導きであることを告げ兄たちを許したのです。「理神論」という考え方があります。17世紀から18世紀にかけて盛んに唱えられたもので「神が世界を創られたことは認めるも、一度創造された世界はそれ自身の法則により自律し、神の摂理や奇跡が介入する余地がない」という考え方です。時計を作ったのは職人でも、一度作られてしまうと、時計がそれ自身の法則によって動くという考えと同じです。勿論、理神論は聖書の教えとは異なります。神は、世界を創造された後も、この世界に働きかけ、それを支え続けておられるお方です。とりわけ神は、ご自分のかたちに造られた人間を特別に愛して、ひとりひとりの人生を導いてくださっています。今日、先ず覚えて頂きたいことは神の導きを確信するということです。 

②神の導きは未信者にも及ぶ

神の導きはヨセフのように神を信じている者だけと思われている方がいますが、そうではありません。今、この礼拝を視聴している方の中に未信者の方もいると思いますが、たまたま見ているのではありません。キリスト教には偶然という概念はありません。聖霊なる神が導いてくださっているのです。ヨハネによる福音書16章8-11節を見てみましょう。16:8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。 16:9 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、 16:10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、 16:11 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。この御言葉は世に真実を伝えるためのものですから、全ての人が対象です。当然、未信者の方も含まれます。「その方」とは聖霊のことです。聖霊がこの世についてされる3つのことがわかります。先ず、主イエスを信じないことは罪であることです。次は、主イエスご自身が義であり、真理であること。最後に、「この世の支配者」(サタン)が裁かれたということです。三位一体なる神が皆さんを導いておられるのです。これは真理です。是非、今ここで主イエスを救い主として受け入れ天国行の切符を手に入れようではありませんか。今日、二番目に覚えて頂きたいことは神の導きは未信者にも及ぶということです。

③万事に益がもたらされる

50章15節を見てみましょう。50:15 ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。父ヤコブの存命中はヨセフとヨセフの兄弟はうまくいっていたでしょう。しかし、父ヤコブが死んでしまったので、ヨセフの兄弟たちはヨセフの報復を恐れていました。16,17節を見てみましょう。50:16 そこで、人を介してヨセフに言った。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。 50:17 『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」これを聞いて、ヨセフは涙を流した。ヨセフの兄弟たちは自分たち自身の罪を忘れることが出来なかったのです。そこで「人を介してヨセフに」父ヤコブの遺言とも言える言葉を伝えたのです。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』と。「これを聞いて、ヨセフは涙を流した。」とあります。ヨセフが涙を流した理由は父ヤコブの言葉に心を打たれたことに加え、兄弟たちが自分の気持ちに気が付いていない悲しさもあったと思われます。18-20節を見てみましょう。50:18 やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、50:19 ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。 50:20 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」ヨセフの涙は兄弟たちに勇気を与えました。ひれ伏してヨセフに「このとおり、私どもはあなたの僕です」と伝えました。するとヨセフは「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。 50:20 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」と答えたのです。この箇所からも神の導きに対するヨセフの信仰がわかります。自分を酷い目に合わせた兄たちに、こんなに優しい言葉をかけ、赦すことができたのは、ヨセフが謙遜であった、寛大であったからということだけではないと思います。また、父親の言葉に免じたものだけではなかったと思います。ヨセフが兄たちを赦すことができたのは、全てが神の導きだということを確信していたからです。神の導きは神学用語では摂理と言い、英語ではprovidenceです。この英語を三分解すると、なぜ神様が私たちを最善に導くことが出来るのかが良くわかります。providenceのpro-接頭辞「前に」vide「見る」-ence接尾辞「もの、こと」です。

私たちは私たちの前にあることを見ることが出来ません。将来の事、数年先の事だけではありません。日常生活でもそうです。例えば、交通渋滞の時、前の車が大型トラックの場合などがそうです。前が見えずに、渋滞の原因がわからずにイラついてしまったことはないでしょうか。しかし、神は時空を超えたお方です。神は私たちの将来に起こることを前もって知っておられるのです。だから、私たちを最善の方向へ導くことが出来るのです。私たちには、これから起ることを前もって見ることはできませんが、神はそれを見ることが出来るのです。今、苦難の最中におられる方もいると思いますが、いつの日か、「ああ、あれは、このためだったのか。」と「神の導き」を実感できる時が必ず来るものです。18節に「わたしが神に代わることができましょうか。」とあります。人を裁き、報いをなさるのは、主権者である神です。ヨセフは、エジプトの王に次ぐ権力者となりましたが、どんなに権力があっても、決して、主権者であり、審判者である神の立場をとろうとはしませんでした。神の主権にすべてを委ね、神のなさったことを受け入れています。20節に「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」とあります。神は悪を善にさえ変えることのできるお方です。そして、神が悪いことを良いことに変えてくださったのなら、どうしてヨセフは兄たちに仕返しをすることができるでしょうか。ヨセフは全てを導いてくださる神に信頼をしていました。ですから、ヨセフは、普通だったら、仕返しをしてやりたくなるようなことをも、完全に赦すことができたのです。ヨセフは摂理、神の導きを信仰生活の軸としていたのです。 私たちは、ヨセフ物語から、忍耐や赦しなども学ぶことができますが、なによりも学ばなければならないのは、ヨセフの、神の導きに対する信仰であると思います。ヨセフ物語は神の導き、摂理について語っているのです。ヨセフはそれを侍従長の家で、監獄で、そして、ファラオの宮廷で学びました。神の摂理は、たんに神学や教理の項目として学ぶものではなく、実際の信仰生活の中で学ぶものです。私たちは、それぞれに形は違っても、「なぜ、こんなことが起こったのだろう。」「なぜ、こんな苦しみに会わなければならないのだろう。」と思い悩むような状況に遭遇します。そのような中で、神の導きを学んでいくのです。ローマの信徒への手紙8章28節をアライブ訳聖書と一緒に見てみましょう。「8:28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。8:28そして私たちは、人が神を愛し、神の計画どおりに歩んでいるなら、自分の身に起こるすべてのことが益となると知っている!(アライブ訳)単に悪が善になるという意味ではりません。悪は悪、罪は罪です。しかし、「人が神を愛し、神の計画どおりに歩んでいるなら」主は私たちの悪事、私たちたちが犯してしまった大きな罪をも通して益、プラスになるように導いてくださるのです。私は19年前に九死に一生の転落事故にあったのですが、事故の当日、私が救急搬送された病院からの一報を受けて駆けつけてきた両親の顔を忘れることは出来ません。息子の状態がわからず不安で怯えている表情でした。私はこの時、「また迷惑をかけてしまった。今後も迷惑をかけるかもしれない。いっそ死んでしまった方が良かったのだ」と逆縁さえ願ったものでした。しかし、この事故がきっかけで、私は教会に通い始め永遠の命を得ることができたのです。私がキリスト者になる、まして牧師になるなど夢にも思っていませんでした。人生とはわからないものです。そして、この事故の五年後に父を導くことが出来き、今、父は天国にいます。親不孝の連続でしたが、最後に親孝行ができたと思っています。母は未信者ですが、昨年の秋から教会に来るようになりました。神の導きを確信しています。今日、最後に覚えて頂きたいことは万事に益がもたらされるということです。神の導きを確信する。私たちを導いてくださる神への全くの信仰を持つ時、今まで、とうていできない、こんなことは不可能だと思っていたことができるようになります。絶対に赦せないと思っていた人をも赦すことができるようになるのです。このヨセフの信仰を、私たちも自分のものとし、誘惑に勝ち、試練に耐え、そして、赦し、赦される生涯を送ろうではありませんか。

Today’s Takeaway

①神の導きを確信する、②神の導きは未信者にも及ぶ、③万事に益がもたらされる

考えてみましょう!

応えられなくて良かったという祈りの経験はありませんか。

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