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2024年5月5日主日礼拝

説教題: 主が洗礼を命じておられる 聖書箇所:マルコによる福音書1章1-8節

洗礼者ヨハネ、教えを宣べる 1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。 1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。 1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、 1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。 1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。 1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 ハレルヤ!五月の第一主日を迎えました。今日からマルコによる福音書を講解で学びます。初回ですので、先ず全体的なことからお話します。福音書とは「ナザレの村のイエスが、ガリラヤ地方やエルサレムで活動したこと。色々な人々と交わり、語り、病を癒し、慰め、教えました。その結果としてユダの宗教指導者から忌み嫌われ、十二弟子の一人のユダに裏切られ、十字架刑に処さられたのです。しかし、三日後に墓から復活された」という一連の出来事が記されています。ローマ帝国が強硬な支配権を握っていた時代のことです。福音書は四つあります。聖書に記されている順番はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。この内、マタイ、マルコ、ルカを共観福音書と言います。同じ観点で書かれているからです。ヨハネによる福音書を第四福音書という場合があります。福音書の中でマルコを講解説教で初めに学ぶ理由は二つあります。先ず、マルコによる福音書が一番最初に書かれているからです。パウロ書簡の講解説教の時も、一番最初に記されたテサロニケの信徒への手紙一から始めたのと同じ理由です。二番目の理由は、マルコによる福音書では、主イエスの地上生活の三年半のことについてしか記されておらず、四福音書中、最も簡潔です。福音書の入門編と言えます。四福音書の執筆年代には諸説ありますが、マルコがAD68年頃、マタイとルカが80年代、ヨハネが90年代と考えられています。著者のマルコはペトロ、パウロの同伴者として働いていました。ペトロの手紙一5章13節を見てみましょう。5:13共に選ばれてバビロンにいる人々と、わたしの子マルコが、よろしくと言っています。ペトロはマルコのことを「わたしの子マルコ」と呼んでいることから特に親しい関係だったことがわかります。初期キリスト教を代表する神学者の一人のクレメンスはこの手紙が書かれたことについて、次のように説明をしています。「ペトロが公にローマで宣教し、聖霊によって語っていた時、そこに居合わせた人の多くが、以前からペトロに従い、彼の語ったことをよく覚えているマルコに、ペトロの語ったことを記録するように頼んだ。それでマルコはそれを書いた」と。当時のキリスト者は、ローマを治める暴君皇帝ネロから大弾圧を受けていました。ローマ市に火災があったっときに、ネロが都市計画の必要上、わざと放火したのです。しかし、このことが市中に広まり、これを隠ぺいするためにキリスト者の犯行とし、キリスト者をとらえて犯行をしたのです。ですから、マルコはイエスの物語を告げ知らせることが、神の国の到来を証言し、読者を忠実な弟子にする最も良い方法と思い記したのです。今日は1章1-8節を通し、「主が洗礼を命じておられる」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①バプテスマは主が命じておられる

1節から見て参りましょう。1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。1節には主語と述語がありませんので、文というよりはマルコによる福音書の表題、タイトルといえます。敢えて、文にすれば「神の子イエス・キリストの福音このようにして始まった」と言えます。「福音」とありますが、原語のギリシャ語ではεὐαγγελίουユアンゲリオンと言います。英語のEvangelionの語源となった語ですが、ユアンとは「良い」という意味で、「ゲリオン」は「音信」です。この二つの合成語ですので、良いお知らせ、吉報の意味です。元々は戦いに勝利した時や王などに世継ぎの男子が生まれた際の吉報を意味していたと言われていますが、キリスト教用語としてはイエス・キリストによってなされた良いお知らせを言います。このお知らせについてはイザヤ書40章9節に預言されていました。見てみましょう。40:9 高い山に登れ/良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ/良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな/ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神 「福音」の前に「神の子イエス・キリストの」とありますが、これには理由があります。当時、ローマ皇帝は神の子であることを自称していました。ですから、マルコの福音書の表題とも言える1節は神の子を自称しているローマ皇帝とローマ市民に向かって、本当の神の子はキリストなのだ、本当の良い知らせはローマ帝国の勝利でも世継ぎの誕生でもない。キリストによってもたらされた福音なのだと大胆に宣言をしているのです。「イエス」という名はヘブル語の「ヨシュア」のギリシャ読みで、その意味は「ヤハウェは救い」という意味です。当時は、イスラエルの通俗的な名称であり、キリストの人間的な面を表しています。「キリスト」は、ヘブル語のメシアのギリシャ語読みであって油を注がれた者の意味で旧約時代は王,祭司、族長などに用いられていました。今日の箇所では主人公である救い主イエスは登場をしていません。イエスが登場する前に、道備えをした人が2-8節に描かれています。2,3節を見てみましょう。1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。1:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、

「預言者イザヤの書にこう書いてある」とありますが、実際にはイザヤ書40章3節とマラキ書3章1節と出エジプト記23章20節からのブレンド引用です。開いて見ましょう。 イザヤ40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。マラキ3:1 見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。出エジプト23:20見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ、わたしの備えた場所に導かせる。引用もとに「荒れ野に道を備え、わたしは使者を送る、あなたの前に使いを遣わして」とありますように救い主がこの世でその使命を果たすためには準備や先駆けとなる人物が必要でした。何事にも準備や先駆けとなる人物は必要です。16世紀にルターやカルバンによってなされた宗教改革も突然、起こったわけではありません。先駆けとなる人たちがいました。イタリヤのワルドー、イギリスのジョン・ウイックリフ、ボヘミアのヤンフスなどの働きが宗教改革運動への道備えをしたのです。4-5節を見てみましょう。1:4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。1:5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。救い主の道備えをする人物は旧約聖書に預言されていました。「洗礼者ヨハネ」です。「荒れ野に現れて」とあります。なんでわざわざ「荒れ野」なのか。という疑問があり、諸説あるのですが、ちょうどイスラエルが神の民としてその歴史を開始したのが荒野であったように、今や新しい神の民が荒野から誕生しようとしているという説が良いと思います。ヨハネがしていたことは、悔い改めを人々に語り、悔い改めた人には、洗礼、バプテスマを授けていました。そうしたことから人々はヨハネのことを「洗礼者ヨハネ」、「バプテスマのヨハネ」と呼んでいたのです。バプテスマという言葉はギリシャ語のバプティーゾーに由来しています。頭まで水に浸かるという意味です。ヨハネは悔い改めのしるしとしてバプテスマを行っていたのです。当時、異邦人がユダヤ教に改宗する時には異邦人に割礼と洗礼を授けていました。しかし、ヨハネの場合は異なります。ユダヤ人に洗礼を預けていたからです。つまり、これは全く新しいバプテスマといえるのです。やがて主イエスによって実現する神の国のための備えなのでした。注意して頂きたいことはバプテスマを授けることが目的ではありません。人を悔い改めに導くことが目的なのです。悔い改めには三つの要素があります。先ず、自分が罪びとであることを認めること。次に罪の告白をすること。最後が自分向きな生き方から神向きの生き方に方向転換をすることです。英語ではConviction, Confection, Conversionです。そして、ヨハネは悔い改めた者に対して行動が伴うことを語っています。マタイによる福音書3章8節を開いて見ましょう。 3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。また、ヨハネは厳格な人物でありました。不義を行ったヘロデ王を責め、その結果処刑されてしまいました。このことはこの福音書の6章以降に記されていますので、後日、詳しく学びます。ヨハネが悔い改めを述べていると「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆」洗礼を受けたのです。開きませんが、ルカによる福音書の7章12-14節にはユダヤ人だけでなく、ローマの兵隊や取税人も洗礼を受けに来たことが記されています。エルサレムはユダヤの一都市ですので、感覚的に言えば東京中央区を中心とし首都圏に住む全員が洗礼を受けたようなものなのです。ところで、今日、洗礼には三つの種類があります。文字通り水に浸かるもの。これを浸礼といいます。頭だけに水を垂らすもの。これを滴礼といいます。また、救世軍のように洗礼を行わずに入隊式をもって洗礼にかえるものです。これらはすべて悔い改めのしるしとしておこなわれるものです。この洗礼があるからこそキリスト教会は存続しているのですが、キリストを救い主として受け入れてもなかなか洗礼を受けない方がいます。信仰告白をしたので天国に行けるのだからわざわざ洗礼まで受けなくてもよいだろうという考え方です。しかし、これは正しくありません。マタイによる福音書28章19,20節を開いてみましょう。 28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」洗礼は単なる印ではありません。主がキリスト者に洗礼を授けなさいと命じているのです。信仰告白をした方はキリスト者です。洗礼を受けていない方がどうして他の人に洗礼を授けることができるのでしょうか。通例、洗礼は按手礼を受けた牧師が行いますが、臨終が近い場合などには信徒の方でも洗礼を授けることが出来ます。キリスト者は洗礼を受けなくてはならないです。もし、信仰告白をしていて洗礼を受けていない方は、これを機に洗礼の恵みに預かって頂きたいと思います。今日、先ず覚えて頂きたいことはバプテスマは主が命じておられるということです。

②旧約聖書は救い主の預言、新約聖書はその成就

6節を見てみましょう。1:6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。ヨハネはエリヤの風貌をして現れました。列王記下1章8節を開いて見ましょう。 1:8 「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と彼らが答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。「エリヤ」の名前があります。エリヤは旧約時代の最大の預言者の一人です。エリヤがその役目を果たしたように、バプテスマのヨハネも、主の到来を告げる預言者なのです。後半に「いなごと野蜜を食べていた。」とあります。「いなご」は昆虫の「いなご」か豆科の「いなごまめ」と思われます。昆虫のいなごは人々が食べることを律法により許されていました、開きませんが、レビ記11章22,23節に記されています。「野蜜」とは蜂蜜かある種の木の樹液と思われます。いずれにしてもヨハネの食べ物は質素なものだったことがわかります。ヨハネは旧約時代の締めくくりをするものでした。旧約聖書と新約聖書の架け橋になっているのです。ヨハネのことを旧約の最後の預言者という学者もいます。新約聖書に記されているイエス・キリストを知るためには旧約聖書を抜きにしては不可能なのです。残念なことに旧約聖書が苦手なのであまり読まないという人がいないわけではありません。かくゆう私もそうでした。しかし、旧約聖書を読んでいくうちに新約聖書との繋がりが見えてきて面白くなってくるのです。聖書は旧新約聖書66巻からなるものです。明治から大正にかけて活躍された内村鑑三先生は「旧約聖書を読まぬ者の信仰は、新約聖書のようにうすっぺらである」と言いました。うすっぺらとは、新約聖書のページ数が旧約聖書の三分の一以下だからです。旧約聖書にはイエスの誕生以前のことが記されており、新約聖書にはイエスご自身のことが記されています。そして、旧新約聖書を大きくわけますと旧約聖書は救い主についての預言で、新約聖書はその成就なのです。是非、旧新約聖書66巻を通読されてください。今日、二番目に覚えて頂きたいことは旧約聖書は救い主の預言、新約聖書はその成就ということです。

③聖霊に満たされ続ける

7,8節を見てみましょう。1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」「わたしよりも優れた方」とあります。言うまでもありませんが、救い主、キリスト・イエスです。当時、お客が家に来た場合、客人の「履物のひもを解」いたり結んだりするのは奴隷の仕事でした。履物のお世話は奴隷がしていたのです。しかし、ヨハネは主イエスと自分を比較すると奴隷以下の者に過ぎないと言うのです。この偉大な先駆者がそう語るのです。そして、身分の違いにだけでなく、その働きの違いについても述べています。水のバプテスマと聖霊のバプテスマです。聖霊のバプテスマについて主イエスご自身が語られています。使徒言行録1章5-8節を開いてみましょう。1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」 1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」聖霊のバプテスマとは、主の働きを力強くしていくためのものであることがわかります。私たちが所属している日本ホーリネス教団はホーリネスとあるように聖化を強調し続けています。この聖化について、日本ホーリネス教団も所属している日本聖化協力会のHPにわかりやすい図があります。

初期的聖化が水によるバプテスマの結果で、転機的聖化が聖霊のバプテスマの結果なのです。そして大事なことは転機的聖化のあとでも罪を犯してしまうということなのです。ですから、日々の悔い改めと聖霊に満たされることが必要なのです。信仰生活とは聖霊に満たされ続けることなのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは聖霊に満たされ続けるということです。聖霊のバプテスマについては教派間で解釈が大幅に異なります。このことについては、別の機会にお話をしたいと思います。

Today’s Takeaways

①バプテスマは主が命じておられる 

②旧約聖書は救い主の預言、新約聖書はその成就

③聖霊に満たされ続ける

Thinking Time 悔い改めにふさわしい実を結んでいるでしょうか