• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年4月28日主日礼拝

説教題: 何事も愛をもって行いなさい 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一16章1-24節

◆エルサレム教会の信徒のための募金 16:1 聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。 16:2 わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。 16:3 そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。 16:4 わたしも行く方がよければ、その人たちはわたしと一緒に行くことになるでしょう。 ◆旅行の計画 16:5 わたしは、マケドニア経由でそちらへ行きます。マケドニア州を通りますから、 16:6 たぶんあなたがたのところに滞在し、場合によっては、冬を越すことになるかもしれません。そうなれば、次にどこに出かけるにしろ、あなたがたから送り出してもらえるでしょう。 16:7 わたしは、今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくない。主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています。 16:8 しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。 16:9 わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。 16:10 テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。わたしと同様、彼は主の仕事をしているのです。 16:11 だれも彼をないがしろにしてはならない。わたしのところに来るときには、安心して来られるように送り出してください。わたしは、彼が兄弟たちと一緒に来るのを、待っているのです。 16:12 兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くようにと、しきりに勧めたのですが、彼は今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。 ◆結びの言葉 16:13 目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。 16:14 何事も愛をもって行いなさい。 16:15 兄弟たち、お願いします。あなたがたも知っているように、ステファナの一家は、アカイア州の初穂で、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました。 16:16 どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください。 16:17 ステファナ、フォルトナト、アカイコが来てくれたので、大変うれしく思っています。この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。 16:18 わたしとあなたがたとを元気づけてくれたのです。このような人たちを重んじてください。 16:19 アジア州の諸教会があなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。 16:20 すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。 16:21 わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。 16:22 主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。 16:23 主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。 16:24 わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。

 ハレルヤ!四月の第四主日を迎えました。先週は美恵子師に御言葉を取り次いで頂きました。感謝します。昨年の6月から学んでいるコリントの信徒への手紙一の講解説教も34回目でいよいよ最後となります。前回のおさらいから始めましょう。前回は、15章35-56節を通し、「死を打ち破った復活」と題し、三つの事を中心にお話をしました。①復活は霊の体になる、②復活は瞬時に起こる、③復活は死を打ち破った、でした。パウロはこれまでに警告を発し、勧めをなし、教えを説いてきましたが、筆をおくにあたり、とても大事なことを記しています。今日は続く16章1-24節を通し、「何事も愛をもって行いなさい」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①各教会はキリストの一つの肢体

1-4節は献金についてです。新共同訳聖書の小見出しは「エルサレム教会の信徒のための募金 」となっています。1節から順番に見てまいりましょう。16:1 聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。「聖なる者たちのための募金」とはエルサレム教会の信徒のための捧げものです。この要請の背景には、ユダヤ全土に大きな飢饉があり、エルサレム教会は財政的に窮乏の状態にあったのです。また、エルサレムはユダヤ教の本拠地です。そこでキリスト者になるということは職を失うこともあることを意味します。エルサレム教会の信徒は非常に厳しい生活を強いられていたのです。そのため、パウロは伝道旅行の時に「ガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。」と勧告をしているのです。援助をするにあたりパウロは二つのことを勧告します。初めの勧告が2節です。16:2 わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。「週の初めの日」とあります。言うまでもありませんが日曜日のことです。キリストの復活が日曜日だったので、それ以降、多くの教会では、土曜日に行われていた礼拝は日曜日に行われるようになりました。日曜日は週の初めの日ですので、一週における日の初穂とも言え、聖別され礼拝を捧げる日なのです。「各自収入に応じて」とあります。コリント教会には富める人も貧しい人もいました。ですから、各自が無理のないように、日曜日ごとに自分の収入に応じて、お金を取り分けておくのです。このように前もって蓄えていれば、パウロが来た時にすんなりと渡すことができるのです。ところで、今日、献金については二つの考え方があります。先ず、収入の十分の一を捧げる什一献金です。民数記18章26節を開いてみましょう。18:26 レビ人に告げてこう言いなさい。わたしがあなたたちの嗣業として与えた十分の一を、あなたたちがイスラエルの人々から受け取るとき、そのうちの十分の一を主にささげる献納物としなさい。開きませんが、ほかにもレビ記27章30節、申命記14章22節、歴代誌下31章5節に記されています。次が、什一献金は旧約時代の概念とし、新約の時代は「各自収入に応じて」とあることから各自が捧げる額を決めるという考え方です。ですから、十分の一を超えることもあるでしょうし、十分の以下の場合もあります。私たちが所属する日本ホーリネス教団では什一献金を推奨していますが、強制ではありません。大事なことは、什一献金にしてもそうでなくとも喜んで捧げることです。コリントの信徒への手紙二9章7節を開いて見ましょう。9:7 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。3,4節を見てみましょう。6:3 そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。 16:4 わたしも行く方がよければ、その人たちはわたしと一緒に行くことになるでしょう。二つ目の勧告は、代表者を選んで、その人たちが集められたお金を「贈り物」として、添え状と共にエルサレム教会に届けることです。ギリシャのコリントからユダヤのエルサレムは約3000Kmという大変な長旅です。日本列島の長さが約3500Kmですので、距離の想像が出来ると思います。しかも、必要であればパウロ自身もその長旅に参加するというのです。その理由は、コリント教会を含め全世界の教会が一つの体であり、キリストの肢体だからです。この手紙の12章26節にはこうありました。見てみましょう。 12:26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。パウロはエルサレム教会の窮乏を我がこととして、このための援助を惜しまないように訴えているのです。このことを今日の私たちに当てはめて考えてみましょう。八街栄光キリスト教会は日本ホーリネス教団という一つのからだなる教会の肢体なのです。私たちの教団の英語の表記はJapan Holiness Church で複数形のChurches ではありません。日本ホーリネス教団を含め全国に約8000ある教会もキリストの一つの体とも言えるのです。ですから、私たちは他の肢体のために共に悩み、助け会うべきなのです。東日本大震災直後のGWに物資の輸送のため被害の大きかった宮城県塩釜市の教会を訪ねたのですが、そこでお会いした牧師はこう言いました。「失ったものは多いが、得たものも多い」と。それまで同じ地域にある教会でも教団教派の壁があり全く付き合いがなかったそうですが、震災後にその壁は吹き飛んでしまい、お互いに祈り助けあう関係になったのです。正常なキリストの肢体の関係に戻ったとも言えます。今日、先ず覚えて頂きたいことは各教会はキリストの一つの肢体ということです。

②計画の実現は主が許してくださるから

5-12節はコリント訪問の計画についてです。新共同訳聖書の小見出しは「旅行の計画」となっています。5-7節を見てみましょう。16:5 わたしは、マケドニア経由でそちらへ行きます。マケドニア州を通りますから、 16:6 たぶんあなたがたのところに滞在し、場合によっては、冬を越すことになるかもしれません。そうなれば、次にどこに出かけるにしろ、あなたがたから送り出してもらえるでしょう。16:7 わたしは、今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくない。主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています。「マケドニア経由で」コリントを訪問したいという計画を述べています。使徒言行録20章には、このことが実現したことが記されています。マケドニアには小さな教会がありましたが、問題もないため通過したものと考えられます。「冬を越すことになるかもしれません、しばらくあなたがたのところに滞在したい」とありますが、コリントの数々の問題を解決するためには時間がかかることと、冬場の渡航が困難だったことも考えられます。いずれにせよ、パウロはコリントの人々とひざを交えてゆっくり話し合いたいと願っていたのです。「次にどこに出かけるにしろ、あなたがたから送り出してもらえる」とありますパウロは平素からローマに行くことを願っていました。使徒言行録19章21節を開いてみましょう。19:21 このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、「わたしはそこへ行った後、ローマも見なくてはならない」と言った。パウロの次の訪問先がどこであれ、コリントの人々からの祈りと援助を切望したことは間違いがありません。勿論、全てのことに「主が許してくだされば」とある通りです。私たちは色々な計画を作りますが、御心を第一にしているかが問われるのです。人間的な観点で見てどんなに完璧な計画でも主がお許しにならなければその計画が実現することはないのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは計画の実現は主が許してくださるからということです。

③何事も愛をもって行う

8,9節を見てみましょう。16:8 しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。 16:9 わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。「エフェソ」はパウロがこの手紙を場所で、「五旬祭」とはペンテコステのことです。過越し祭から50日目にあたる日であり、現在の5月~6月に行われます。今年のペンテコステは5月19日です。パウロはペンテコステまでは「エフェソに滞在します」と言うのです。その理由はエフェソに滞在している間に伝道の門戸が大きく開かれたからです。具体的なことは不明ですが、伝道のための大きな機会が与えられたのです。伝道が盛んになれば「反対者もたくさんいる」ことはどの時代にあっても常なのです。エフェソで人々の反対にあったことは使徒言行録19章に記されています。後ほど読まれてください。10,11節を見てみましょう。16:10 テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。わたしと同様、彼は主の仕事をしているのです。 16:11 だれも彼をないがしろにしてはならない。わたしのところに来るときには、安心して来られるように送り出してください。わたしは、彼が兄弟たちと一緒に来るのを、待っているのです。「テモテがそちらに着いたら」とあります。テモテをコリントに遣わすことはこの手紙の4章17節に記されていました。開きませんが、後ほど読まれてください。また、使徒言行録19章22節には次のように記されています。そして、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた。パウロ自身はエフェソに留まっていましたが、「テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し」たのです。この二人の弟子はマケドニアの諸教会を訪れた後にコリントに行く予定でした。コリントの信徒への手紙一は彼らがコリントへ到着する前に届いていたのです。主にある同労者であるテモテのことを大事にして「だれも彼をないがしろにしてはならない。」と告げ、無事に自分のところへ戻って来ることを願っているのです。愛弟子を思う切々たるパウロの愛が偲ばれます。12節を見てみましょう。6:12 兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くようにと、しきりに勧めたのですが、彼は今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。「アポロ」の名前が挙げられています。この手紙の1章で学びましたが、コリントの教会にはパウロ派、アポロは、ペトロ派、キリスト派といった派閥の問題があったのです。1章12節を開いて見ましょう。 1:12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。アポロは雄弁で博学でした。それゆえアポロを慕う人たちがコリント教会の中にいたのです。ですから、パウロがコリントに行くことを「しきりに勧めたのですが、彼は今行く意志は全くありません。」と言うのです。アポロは自分が行くことで派閥の問題を再燃させることを危惧していたのです。しかし、「良い機会」、主が導かれる最善の機会にはコリントを再訪できるものなのです。13節から24節は最後の奨励と挨拶です。新共同訳聖書の小見出しは「結びの言葉」となっています。13,14節を見てみましょう。16:13 目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。 16:14 何事も愛をもって行いなさい。13,14節はこの手紙に記された最後の奨励で、四つのことが勧められています。このことはコリントの人々のみならず、現在の私たちにとってもとても重要ことです。「目を覚まして」いることはコリントのように誘惑の多い都市に住んでいる人にはとても大事なことだったのです。現代も誘惑にあふれた時代です。誘惑に陥らないためにも、私たちも目を覚ましつつ、四方八方に目を配りながら信仰生活を歩むのです。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。とありますが、信仰に固く立つことについて、主イエスはマルコによる福音書13章18-23節の「種を蒔く人のたとえの説明」で教えています。要約をしますと、御言葉を聞くと直ぐに喜んで受け入れるが、自分の内に根がないので、困難や迫害がおこると、すぐに躓いてしまう人がいるのです。一方、御言葉を聞いて信仰に固く立ち続ける者には100倍、60倍、30倍の実を結ぶのです。「雄々しく強く生きなさい。」とありますが、ヨシュア記の中心ともいえる1章6節を念頭に置いて、述べたものと思われます。 1:6 強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。信仰の勝利は神の御言葉に従う時に与えられるのです。「何事も愛をもって行いなさい。」あります。コリント教会が抱えていた様々問題は、元をたどれば愛の欠如が原因なのです。15,16節を見てみましょう。16:15 兄弟たち、お願いします。あなたがたも知っているように、ステファナの一家は、アカイア州の初穂で、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました。 16:16 どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください。「アカイア州」とありますが、コリント湾の南岸から下方に広がる区域です。「ステファナの一家は、アカイア州の初穂」でした。この地方における最初の信者だったのです。福音を伝えることが難しいこの地方で、ステファノ一家が救われたことはパウロにとってどんなに嬉しいことだったでしょうか。そして、初穂となっただけでなく、「聖なる者たちに対して労を惜しまず世話」をしていたのです。そのような信頼がおける一家なので、「この人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください。」と述べているのです。17,18節を見てみましょう。16:17 ステファナ、フォルトナト、アカイコが来てくれたので、大変うれしく思っています。この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。 16:18 わたしとあなたがたとを元気づけてくれたのです。このような人たちを重んじてください。「ステファナ、フォルトナト、アカイコ」の三名が来たことを喜び、コリント教会の人々が当然すべきことを怠り、この三人が「代わりを務めて」平安をもたらしたことを褒めたたえ、「このような人たちを重んじてください。」と勧めているのです。19-24節は最後の挨拶の言葉です。16:19 アジア州の諸教会があなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。 16:20 すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。 16:21 わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。 16:22 主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。 16:23 主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。 16:24 わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。「アキラとプリスカ」の夫婦は、福音によってパウロと固く結ばれた同労者で、コリント教会にも大いに尽くしてくれました。開きませんが、使徒言行録18章23節、ローマの信徒への手紙16章34節に記されています。「聖なる口づけ」とは宗教的な愛の表現で、頭や手や頬にしていました。21節以下でパウロ筆を置くにあたり自筆で書いています。22節の前半の言葉は、教会を乱し、信仰を動乱させる者への警告として発しているのです。後半のマラナ・タ(主よ、来てください)は初代教会時代の祈りの言葉であり、挨拶代わりの定句です。23,24節は祝祷です。他のパウロ書簡と同様に祝祷で始まったこの手紙も祝祷で閉じられていますが、「わたしの愛が」とあります。パウロはこの手紙の中で厳しい𠮟責や警告もしてきましたが、コリントの人々への愛があったからこそなのです。パウロはこの手紙において色々なことに叱責、警告、勧告してきましたが、すべてのことは14節の「何事も愛をもって行いなさい。」に帰結するのです。③何事も愛をもって行う

Today’s Takeaways

①各教会はキリストの一つの肢体 ②計画の実現は主が許してくださるから ③何事も愛をもって行う

Thinking Time 

計画は御心にかなっていますか