• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年4月14日主日礼拝

説教題: 律法が福音にかえられた 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一15章35-58節

 復活の体 15:35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。 15:36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。 15:37 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。 15:38 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。 15:39 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。 15:40 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。 15:41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。 15:42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 15:43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。 15:44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。 15:45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。 15:46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。 15:47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。 15:48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。 15:49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。 15:50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。 15:51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。 15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。 15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。 15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

 ハレルヤ!四月の第二主日を迎えました。コリントの信徒への手紙一の33回目で、復活についての最後の学びです。前回のおさらいから始めましょう。前回は、15章23-34節を通し、「復活があるから」と題し、三つの事を中心にお話をしました。①父なる神が最高の存在 ②復活があるから苦難に耐え、意義深く過ごせる ③付き合う相手を選ぶ でした。当時、古代ギリシャの哲学で霊魂不滅という考え方が広く普及していました。また、コリント教会の中には知識派と呼ばれる人たちがいたことは既に学びました。彼らは知性のみにおいて物事を判断し復活がないと判断していたのです。今日は15章35-58節を通し、「律法が福音にかえられた」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①復活後は霊の体になる

35節から順番に見て参りましょう。15:35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。これまで、パウロは復活の事実と、また、それがなければならない理由を述べてきましたが、それでも聞く耳を持たない知識派の人がいるかもしれないので、復活は「どんなふうに、どんな体」で起こるのかを具体的に語ります。36-38節を見てみましょう。5:36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。15:37 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。15:38 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。パウロはこの想定された質問に対して、先ず「愚かな人だ。」と言って一笑しています。そして、「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。」と38節まで植物の例えを用いて答えています。パウロは葬られた体がそのままの状態で息を吹き返すことが復活ではないというのです。種が地に蒔かれれば、そこから新しい命が生まれます。種としての使命は終わります。このことをパウロは「蒔くものは、死ななければ命を得ない」というのです。種としての使命が終わらなければ、新しい命は起こりません。これは自然界における自明の理です。同様に、人間の体も一度死んで、そこから新しい体が生まれることが復活だとパウロは語るのです。「麦であれ他の穀物であれ」とありますように、麦の種であろうが、落花生の種でも、種は種粒にすぎません。その種粒が地に蒔かれると、種の使命は終わり、種という体はなくなります。しかし、種の中には命があるのです。やがて芽を出し、その姿は種とは全く異なるものなのです。人間の復活も同じことなのです。種が地に落ちたり蒔かれたりすると、そこから芽、茎、葉といった新しい体が生まれます。これは、神が「御心のままに」定められていた自然界の法則によるものです。人間の復活も同じことなのです。39,40a節を見てみましょう。15:39 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。 15:40a また、天上の体と地上の体があります。次に、パウロは動物の例えを用いています。肉」とは肉体の意味で、原語には有機体の意味もあります。それぞれの動物の体に違いがあるように「天上の体と地上の体」が違うのです。復活した体とこの世の体の異なることを再度語ります。40b,41節を見てみましょう。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。 15:41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。更に、パウロは天体の例えをもって話を続けます。太陽や月や星にはそれぞれの輝きがあります。同様に「天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。」と語ります。パウロは、復活した体とこの世の体の異なることの三つの例えを持って説明をしています。42節から49節にはこの世の体と復活した体の対比です。42-43節を見てみましょう。15:42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、 15:43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。自然の法則を三つの例を挙げて話しましたが、「死者の復活もこれと同じ」なのです。「蒔かれるとき」つまり、この世の体は「朽ちるもの」、「卑しいもので」「弱いもの」ですが、復活した体は「朽ちないもの」、「輝かしいもの」、「力強いもの」なのです。 44節を見てみましょう。15:44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけ「自然の命の体」とありますが、新改訳では「血肉のからだ」、口語訳では「肉のからだ」と訳されています。そこには罪が宿り、死を免れることは出来ません。しかし、「霊の体」は罪なき朽ちることもない体です。ここで注意したいことは、人は復活すると、霊になるわけではないのです。「霊の体」になるのです。復活によって人は実体としての体を持つことになるのです。目で見ることも体に触ることもできる体なのです。キリストの復活が霊の復活ではなく、実体を伴った復活であったことの最大の証拠は主イエスご自身の言葉です。ルカによる福音書24章39節を見てみましょう。24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」この御言葉から復活の体について、地上の体の連続でも継続でもないが、少なくとも地上で持っていた人格と個性は継続しているものと考えられます。復活信仰にとって極めて大切なことは、聖書は体の復活を説いているのであり、けっしてギリシャ哲学に見られる霊魂不滅を説いているわけではないのです。44節の後半に「自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」とあります。地上の生活のために肉の体があり、その後の永遠の生活のために霊の体があるのです。45,46節を見てみましょう。15:45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。 15:46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」の部分は創世記2章7節からの引用です。開いて見ましょう。2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。以前にもお話をしましたが、「最後のアダム」とはキリストです。最後のアダムというのは、最初のアダムによって始まられた人間の生活を、キリストが最後に完成されるという意味で用いているのです。初めの人類であるアダムは生命を与えられました。しかし、その生命は朽ちゆく、卑しい、弱い肉の体です。この最初の人アダムと対極するものが「最後のアダム」、キリストなのです。キリストは復活によって、霊の生命の始祖となられたのです。46節は44節の言葉を補足し繰り返しています。 47-49節を見てみましょう。15:47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。 15:48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。 15:49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。アダムとキリストとの対比が土に属するものと天に属するものとして示されています。「最初の人」つまりアダムは土のちりからつくられました。先ほど開いた創世記2章7節に記されています。そして、やがては土に帰るものなのです。そのことをパウロは地に属する者」と表現しています。これに対して「第二の人」、すなわち復活からなる新しい人は、地からではなく天からくるのです。これは、霊の力によっての支配であり、罪の穢れによる妨げもないのです。今日の全人類はアダムの子孫ですから、地に属するものであります。しかし、キリスト者には別の一面があるのです。コリント人への手紙二5章1節を開いて見ましょう。5:1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。キリスト者は地に属する者であると同時にキリストに贖われ、永遠の命が与えられた、天に属するものなのです。この世においてアダムと同じく土くれだったものが、霊の体を得てキリストと等しくなるのです。私たちは、現在、この世にあって土に属するアダム形をとっています。肉の思いから来る罪の力に悩まされています。しかし、復活の幸いに入れられたとすれば、そこには死もなく悩みもなないのです。「天に属するその人の似姿にもなる」とあるように、栄光の主に似た霊のからだとされるのです。この素晴らしい約束があるから、地上での試練にも耐えることが出来るものなのです。42-49節に記されていることを表にするとよくわかります。

今日、先ず覚えて頂きたいことは復活後は霊の体になるということです。

②復活は瞬時に起こる

パウロは復活の福音を説いて来ましたが、15章の最後で福音の神秘を語ります。 50節を見てみましょう。15:50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。」とい言い、改めて読者に注意を促しています。それは、「肉と血、朽ちるもの」とはこの世の体の意味です。「朽ちないもの」「神の国」を言い換えたものです。この世の体には弱くて罪に陥りやすい性質があります。この世の朽ちるべき体は、来るべき神の国に適合しないということをパウロは語ります。生まれながらの人間のままでは神の国に入れないのです。 51,52節を見てみましょう。15:51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。「神秘を告げます。」とあります。「奥義」と訳されている聖書もありますし、多くの英語の聖書ではa mysteryですが、具体的には救いの完成です。「最後のラッパが鳴る」とありますが、キリストの再臨の時の意味です。キリストの再臨の時まで生存しているキリスト者は、「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに」栄光の朽ちない霊の体に変えられるのです。では、キリストの再臨の前に死んだキリスト者はどうなるのでしょうか。テサロニケの信徒への手紙一4章16節を開いて見ましょう。4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、 4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。キリスト者には死んでから復活するタイプを死ぬことなく生きたまま栄光の体に変えられるという二つのタイプがあることがわかります。後者には再臨の時まで生存でしていた人と例外的にエノクとエリヤをあげることが出来ます。開きませんが、へブル人への手紙11章5節と列王記下2章11節を読まれてください。復活により二度と朽ちない霊の体に瞬時に変えられる。このことを進学用語で栄化といいますが、復活と栄化は死を征服することに他ならないのです。死が征服されなければキリスト者の救いの完成はあり得ないのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは復活は瞬時に起こるということです。

③律法が福音にかえられた

53-55節を見てみましょう。15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。 15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。「着る」という動詞が使われています。この朽ち行く地上の体は再臨の時、それを脱ぎ捨てるいとまもなく、新しい復活体を装わせるという比喩的な表現です。「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」とありますが、イザヤ書25章8節とホセア書13章14節を要約したものです。開きませんが、後程読まれてください。「とげ」とありますが、人を死に至らせる罪です。しかし、主の再臨を経て、やがて新天新地が現れるとき、もははそこには死をもたらす罪も死も存在しないのです。そこには死を打ち破った勝利のみ残るのです。「罪の力は律法」とありますが、そもそも罪とは律法があるからのものです。しかし、キリストの復活はその律法を福音に変えてくださったのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは律法が福音にかえられたということです。 57,58節を見てみましょう。15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。 15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。いつの日か、全てのキリスト者には死を打ち破る復活に預かるのです。恐れるものは何一つありません。まさに、「勝利を賜る神に、感謝」せざるを得ません。ですから、どんなことがあっても固く信仰に立ち、「常に主の業」に励もうではありませんか。主の業に「常に」と形容されていますが、これは自転車にたとえられます。自転車に乗って走っていると前に進みます。ゆっくりでも走っていれば前進するのです。自転車に乗っているだけでは前に進むことは出来ませんがペダルをこげば前進するのです。毎回、全力で走る必要はありあせんし、出来ません。自分のできるペースで信仰のレースを走り続ければよいのです。自転車に乗るとは主に結ばれているということです。主は私たちのこの世での働きをすべてご存じなのです。「苦労が決して無駄にならない」とある通りなのです。

Today’s Takeaways

①復活後は霊の体になる ②復活は瞬時に起こる ③律法が福音にかえられた

Thinking Time 苦労が決して無駄にならない確信はありますか