• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年4月25日主日礼拝

説教題:「キリスト者の戦い」 聖書箇所:フィリピの信徒への手紙1章27-30節

1:27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、1:28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。1:29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。1:30 あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。

ハレルヤ!4月の第四主日を迎えています。先々週からフィリピの信徒への手紙を学んでいて、今日は三回目です。先週は、フィリピの信徒への手紙1章12-26節から「生きるとはキリスト」と題し、三つのことを中心に学びました。①信仰は連鎖反応する②福音伝搬が第一③主が内に生きていることでした。今日は、1章27-30節から「キリスト者の戦い」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①天国市民の言動がキリストの兵士を生む

27節から順番に見てまいりましょう。27節は、30節までに進められている内容の標題と言えます。フィリピの人々がいかに生きるべきかの基本的な事項が記されていますので、細かく見てまいりたいと思います。ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。とあります。ひたすら とは、パウロの身の上を案じることなく、ただひたすらにの意味です。このフィリピの信徒への手紙は、パウロが獄中で執筆しています。パウロは、女奴隷を占いの霊から解放しのですが、女奴隷の主人から逆恨みを受け、牢屋に入れられてしまったのです。(開きませんが使徒言行録16章16-24節)その獄中にいるパウロが、自分のことを考えなくて良いからひたすら キリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。と勧めているのです。次に、キリストの福音とあります。パウロは福音にキリストを加え、福音の出所を明確にしています。聖書にはキリストの福音という言葉が10個所記されています。福音書に1ヶ所とパウロ書簡に9ヶ所です。いずれも福音がイエス・キリストの十字架によってもたらされたことを強調したり明確にしたりする場合です。全ては開けませんが、マルコを見てみましょう。マルコ1:1 神の子イエス・キリストの福音の初め。その他、ガラテヤ1:7 などにも記されています。27節に戻り、生活を送りなさい とありますが、これは普通に日常生活を送るという意味ではありません。英語の聖書をみるとその意味が分かります。1:27aOnly let your conversation be as it becometh the gospel of Christ: (KJB)Conversation(会話)という名詞が使われています。英語を含めヨーロッパの言語はほとんどギリシャ語かラテン語から派生しています。英語のConversationはラテン語のカンバーサリから派生し、その意味は「振る舞い」や「身を処する」の意味です。ですから生活するとは会話する、振舞うという意味です。当時、フィリピはローマの植民地でした。また、ローマは世界の中心でしたので、フィリピの人々はローマに対する憧れがあったのです。実際、フィリピの生活様式はローマに似ていました。ローマの風俗習慣をそのまま取り入れ、ローマ市民の誇り、特権、責任を心に留め生活をしていたのです。しかし、パウロはローマ市民の誇り、特権、責任よりももっと高いものがある。つまり、神の国の市民としての誇り、特権、責任を忘れるなと語るのです。神の国の市民としての誇りを持ち、会話する、振舞えと勧めているのです。新改訳聖書では、欄外注に別訳として「御国の民の生活をしてください」とあります。パウロはこの手紙の3章20節の前半で次のように記しています。フィリピ3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。わたしたちの本国は天にあるのですから今日の個所でローマ市民のように振舞うのではなく天国市民の務めを果たせとフィリピの人に勧めているのです。主イエスは山上の垂訓で次のように語りました。マタイ 5章16節 を見てみましょう。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」この個所は「地の塩、世の光」と言われる部分の結論です。主イエスはクリスチャンを世の中で絶対必要な「地の塩、世の光」のようにありなさいと語られました。16節は、次のように言い換えられると思います。『そのように、あなたがたは、キリストの香りを放ち、未信者があなたがたの良い行いをみて、天におられるあなたがたの父の子となるように導きなさいです。簡単にいえば、身を持って示し範となり、主イエスへ導きなさいです。』私の父が10年前の88歳の時に主イエスを受け入れ、5年半前に94歳で天国に行きましたことは何回かお話ししていますが、父が主エスを受け入れたとき、私は神学生で、当時、所属していた教会の牧師と共に父が一時的に入所していた施設に見舞いに行った時のことです。その牧師先生に導かれ父は救われたのですが、父は次のようにその牧師に告げました。「先生、息子は本当にどうしょうもない息子でしたが、教会に行くうちに本当に変りました。神様、イエス様のおかげです。ありがとうございました。」と。私たちの言動、振る舞いによって人は救われるということです。すなわち、私たちの言動、振る舞いによってキリストの兵士が生まれるのです。今日先ず覚えて頂きたいことは、①天国市民の言動がキリストの兵士を生む ということです。キリストの香りを放つ。などと聞くと自分には不可能だなぁと思う方もいるかもしれません。しかし、クリスチャンは、主イエス様を救い主と告白した瞬間から、聖なる神様、聖霊様が内に住まわれ始め、内住する聖霊様によって、日々作りかえられ、私たちには出来ないことが可能になるからです。エフェソ4:13を開いてみましょう。エフェソ4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。最終的にはイエス様の身の丈にまで成長をさせて下さるのです。それでは、パウロはキリストの福音にふさわしい生活を送る人々に何を期待しているのでしょうか。27節の後半です。一つの霊によってしっかり立ち とあります。一つの霊によってとは霊的一致は一つの御霊による一致の意味です。御霊による一致で信仰に固く立つことができるのです。残念なことに当時から今日に至るまで、世の中には多くの差別があります。民族差別、職業差別、宗教による差別、地域による差別、性別による差別など様々ですが、差別の本質は人を見下すことで自己肯定感を高めることです。そして、差別とはある集団からの排除でもあります。これが分派や分裂の一因となります。先週、学んだようにフィリピの教会には党派心から福音を伝えるものがいたのです。また、4章2節には次のように記されています。フィリピ 4:2 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。ですから、パウロは、一つの霊によってしっかり立ちと書いたのでしょう天国市民であるクリスチャンは同じ御霊のもとに同じ思いを抱き一つとされなければ、キリストの福音にふさわしい生活を送ることはできません。大事なことは、これは独力でできるものではありません。18-19世紀に活躍したドイツの神学者のフリードリヒ ・ シュライエルマッハーはこの27節の勧告を「律法的な命令ではなく、福音的、霊的、カリスマ的なものである」と述べています。つまり聖霊に満たされて初めて可能となるのです。

②戦いの相手は悪魔

27節の最後に心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、とあります。天国市民であるクリスチャンは戦いという行動による一致も求められています。私たちの信仰の戦いとは自分ひとりだけするものではありませんし、出来るものでもありません。共通の目標に向かって進んでいる共同の戦いです。戦いの相手は福音伝搬を妨害する悪魔、サタンです。サタンの支配下にある人々にキリストの福音を延べ伝える。一人でも多くの方をキリストに導くため奮闘しなければならないのです。御霊による一致はそれ自体が目的ではありません。御霊により一致しイエスキリストの福音という信仰に固く立ち、共同で悪魔と戦うためのものです。元フェリス女学院大学学長の佐竹明先生は著書の中で、「教会とはこのような共同の戦いのための共同体に他ならない」と記しています。また、悪魔との戦いは霊的な戦いで、エフェソの信徒への手紙の6章12節にはこう書かれています。エフェソ  6:12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。聖書個所に戻り28節を見てみましょう。1:28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。前半にどんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。とありますが、これは27節の後半の内容を否定形で言い直したものです。28節の後半に滅び、救いとあります。これは終末時にキリスト者と反対者が迎える行先です。この個所をもう少し広げて読めばキリスト者とキリスト者でない者が迎える行先です。そしてこのことは神からくることなのです。未だ主イエスを救い主と受け入れていない方は、どうかこのことを真剣に考えてみようではありませんか。29節を見てみましょう。1:29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。キリストのために苦しむことも、恵みとあります。キリストのために苦しめ!という命令形ではなくそれが、恵みであると記されています。信仰のために戦うことや苦しむことは偶然の出来事ではありませんし、神から見放されたものでもありません。それは神から与えられるもので、しかも恵みなのだとパウロは語ります。新興宗教の中には入信すれば悩みや苦しみから一切解放され、病が癒され、お金持ちになることを盛んにPRしている団体がありますが、キリスト教はそうではありません。クリスチャンの信仰生活は楽なことばかりではありません、必ず苦しみも伴うものなのです。パウロはテモテへの手紙二で次のように記しています。二テモテ 3:12 キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。戦時下、将軍は一番困難な戦いを勝つために一番優れた兵士を選ぶそうです。今日、日本でクリスチャンということで迫害を受けることはないと思いますが、キリストのために何かの苦難を受けることは名誉なことです。そして、この苦難こそ、やがて天国において光栄に変わるものに他ならないのです。

③戦いは続いている

30節を英語の聖書と一緒に見てみましょう。1:30 あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。1:30 since you are going through the same struggle you saw I had, and now hear that I still have.(NIV)30節でパウロはフィリピの人々のキリストのための苦しみをパウロ自身の戦いに関連付けています。わたしの戦い とはパウロがフィリピでの滞在中に辱められたできごとです。牢獄に入れられるときに衣服をはぎ取られ裸で打たれたことです。そのことをフィリピの人々が以前みて、今また聞いているとパウロは記しています。見る(Saw)と聞く(Hear)の動詞の時制が異なりますが、それは、この戦いが既に終わってしまったものではなく、今も続いていることを強調しているのです。英語の聖書ではStill(今でも)が使われています。そして、この戦いは私たちに受け継がれているのです。今日、三番目に覚えて頂きたいことはこの戦いは続いているという事です。最後にフランスの兵士の話をご紹介したいと思います。ある時、新参兵が危険な状況に置かれ恐怖で震えていました。すると老練な兵士が彼のところにきて次のように言いました。「息子よ、さあおいで。君も私もフランスのために戦おう」パウロは「戦いは続いている。一緒にキリストのために戦おうではないかと」とフィリピの人々に語りかけているのです。そして、この語りかけは私たちにたいするものでもあるのです。

Today’s point①天国市民の言動がキリストの兵士を生む、②戦いの相手は悪魔、③戦いは続いている

Thinking timeキリストの兵士である自覚はありますか。