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2024年3月31日主日礼拝(イースター記念礼拝)

説教題:復活があるから 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一15章23-34節

 15:23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、 15:24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。 15:25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。 15:26 最後の敵として、死が滅ぼされます。 15:27 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。 15:28 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。 15:29 そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。 15:30 また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。 15:31 兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。 15:32 単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、/「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。 15:33 思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。 15:34 正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。

ハレルヤ!三月の第五主日を迎えました。今日はイースター礼拝です。死を打ち破り復活された勝利の主キリスト・イエスを褒め称えます。コリントの信徒への手紙一の32回目の学びとなり引き続き復活について学びます。前回のおさらいから始めましょう。前回は、15章12-22節を通し、「キリストは復活した」と題し、三つの事を中心にお話をしました。①キリストは神であり人でもある、②キリストの復活は歴史的事実、③キリストに結びついている、今日は、続く15章23-34節を通し、「復活があるから」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①父なる神が最高の存在

23節から順番に見て参りましょう。15:23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、キリストにあって全ての人が復活となりますが、「順序」があります。先ず、初穂であるキリストの復活です。次いで、再臨のときに「キリストに属している人たち」、つまりキリスト者です。キリストの復活は既に起こったこと、過去の事実であり、キリスト者の復活はこれから起こること、未来のことなのです。 24,25節を見てみましょう。15:24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。15:25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。「次いで」とありますが、キリスト者が復活した後の意味です。その時に終末がくるのです。この「世の終わり」であり、最後の大審判が行われる時です。その時、キリストは有形無形を問わず、「すべての敵を御自分の足の下に置く」とあるように反キリストの勢力を徹底的に滅ぼすのです。そして、「国を支配」「父である神に国を引き渡され」るのです。この箇所の「国」とは支配の力と言う意味です。究極の支配者はキリストの父なる神です。キリストは委ねられた人類救済という使命を完全に果たされた後、救い主という使命を果たされた後に、全ての源である神に支配権を返還されるのです。 26節を見てみましょう。15:26 最後の敵として、死が滅ぼされます。キリスト者にとって「敵」である死が擬人化され滅びるのですが、「最後の」と形容され強調されています。滅ぼされます」と訳された原語の時制は現在形です。未来の行為に対して現在形が使われていますので、確実性がわかります。キリストの復活は死の克服を前提としているのです。パウロは復活などないと言っていたコリントの人々に死もなくなると答えているのです。 27節を見てみましょう。15:27 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。「神は、すべてをその足の下に服従させた」の部分は詩編8篇7節からの引用です。8:7 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。この詩編は旧約におけるメシア預言の一部です。万物をその足元に従わせるという厳かな情景が現れる時が必ず来るのです。しかし、キリストが万物を従わせるとしても、万物を従わせた神はその中に入っていないことは「明らかです。」とパウロは語ります。パウロが言わんとしていることは父なる神は御子に、万物を無限に統治し続ける支配権を譲渡されたということですが、勿論これは父なる神の主権に抵触することはないのです。 28節を見てみましょう。15:28 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。28節は24節の言葉を換えたものです。「すべてが御子に服従するとき」、つまり、悪の勢力がことごとく滅ばされ世界が新しい秩序に服する時が来るのです。その時、御子キリストも父なる神に自らを従わせられるのです。これは子としての任務が終了することを意味します。万物がキリストに帰り、キリストが神に帰られる。これが終末の意味なのです。キリストが父なる神に帰られるその時、「神がすべてにおいてすべてとなられる」のです。完全に万物を総治、統合的に統治されるのです。23節から述べてきたことを聖書の表記に従い見てみましょう。①初穂であるキリストの復活23節)、②キリストの再臨(23節)、③キリストの再臨時にキリスト者の復活(23節)④この世の終わり(24節)、⑤キリストにあらゆる支配、権威、権力の滅亡(24節)⑤キリストにあらゆる支配、権威、権力の滅亡(24節)⑥国(支配の力)を父なる神に引き渡すこと(24節)、⑦最後の敵である死の滅亡(26節)、⑧万物の、神への服従(27節)、⑨キリストの神への服従と神の完全支配(28節)今日、先ず覚えて頂きたいことは父なる神が最高の存在ということです。

②苦難に耐え意義深く過ごせる

29節を英語の聖書【NKJV】と一緒に見てみましょう。15:29 そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。1Co15:29 Otherwise, what will they do who are baptized for the dead, if the dead do not rise at all? Why then are they baptized for the dead? 【NKJV】「そうでなければ」とありますが、29節は話の筋からすると14節に続くものです。 15:14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。「死者のために洗礼を受ける人」とあります。論理的に矛盾しているので、この解釈には諸説ありますが、私は「死者ゆえに洗礼を受ける人」という解釈が最も妥当だと思います。多くの英語の聖書ではforが使われており、forには理由や原因を示す前置詞です。あるキリスト者が死んだ時、その方の生前の行いや祈りが、遺族や近親や友人を信仰に導くことがあります。キリスト者の葬儀に参列した方が葬儀を通して導かれることがしばしばいます。亡くなった家族や友人と一緒に天国に行きたいと思うのです。そのことを「死者のため(ゆえに)に洗礼を受ける」とパウロは語ります。それなのに復活がないとすれば、このような再会もあり得ないのです。 30節を見てみましょう。15:30 また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。「なぜわたしたちはいつも危険を冒している」とあります。実際、パウロの宣教に伴う苦労は大変なものでした。コリントの信徒への手紙二 11章23-28節を開いてみましょう。同段落PPT11:23 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。11:25 鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。11:26 しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、11:27 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。11:28 このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。これほどの苦労をしながらも、パウロは主ために命をかけて福音を述べ伝えていたのです。これも復活という希望があるからこそ勇気をもって宣教を行い、これらの苦労を乗る超える事ができたのです。今日、日本で福音を述べ伝えることで、嫌われたり、友人でなくなったりすることはとはあるかもしれません。私自身、だいぶ以前のことですが、友人から新興宗教の勧誘を受け、「今度、勧誘したらもう付き合わないよ」とはっきり伝えたことがありました。このように嫌われたり、友人でなくなったりすることはあるかもしれませんが、迫害を受けることはないと思います。しかし、世界に目を向ければ共産圏や他の宗教が盛んな国では、かなりのキリスト者が迫害を受けています。2024年ワールドウォッチリスト(WWL)によると、「作年、5千人近くのクリスチャンがその信仰のゆえに殺害され、4千人近くが拉致され、1万5千近くの教会が攻撃を受け、または閉鎖された」とあります。迫害がなくなりますよう祈りましょう。それでも、多くのキリスト教の宣教師が命がけで外国に行き、キリストの福音を述べ伝えています。それは、キリスト教を知らない方に永遠の命を得させ得るためですが、それも死後の復活を信じているからこそできることなのです。31節を見てみましょう。15:31 兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。パウロは、身に迫る危険に対して、「日々死」を覚悟していました。これは精神的な苦痛に加え、肉体の死にもさらされていたのです。ですから、「あなたがたに対する誇りにかけて言えば」と断言しているのです。パウロはコリントの人々をキリスト信仰に導いたその名誉にかけると言っているのです。パウロの苦労の記述は続きます。32節を見てみましょう。15:32 単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、/「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。「エフェソで野獣と闘った」とあります。確かに、当時、犯罪人を闘技場で野獣と戦わせるという習慣がありました。しかし、パウロはローマの市民権を持っていたので、このような扱いを受けたとは思われません。また、聖書にその記述もないので比ゆ的に野獣のような暴徒と戦ったという意味で解釈をすれば良いと思います。パウロは、このような非常な苦痛と危険に直面しても耐え忍ぶことが出来たのは、ひとえに復活の信仰を持っていたからです。永遠の命を思えばこそ、この世の数々の苦難にも微笑むことすらできるのです。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」の部分はイザヤ書22章13節からの引用です。確認をしてみましょう。 22:13 しかし、見よ、彼らは喜び祝い/牛を殺し、羊を屠り/肉を食らい、酒を飲んで言った。「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」と。当時、コリントではエピクロース派哲学の流れを汲む快楽主義が盛んでした。人生は短い。明日のことはわからない。だとしたら短い人生の今日の日を好きなように過ごそうという考え方です。かくゆう、私自身もキリストと出会う前はそう思っていました。「好きなことをして太く短く生きてやろう。宵越しの銭は持たない」です。人生楽しまなければ損という考え方でした。キリストを信じない、復活を信じない、否定する人はこのように考えます。これは現世享楽主義ですが、キリスト者から見れば絶望的享楽主義に過ぎないのです。現代がまさにそうとしか思えません。復活を信じているキリスト者は死後の事だけでなく、この現世をも意義深く過ごせるものなのです。復活があるので苦難に耐えられるし、現世をも意義深く過ごせるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは復活があるから苦難に耐え意義深く過ごせるということです。

③付き合う相手を選ぶ

33節を見てみましょう。15:33 思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。「思い違いをしてはいけない」とは、32節まで述べてきたように、復活を否定する結果を良く考えなさいと警告をするのです。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」は紀元前3~2世紀に活躍したギリシャの喜劇作家メナンドロスの作品から引用したものと考えられています。コリント教会の中で復活を否定する人は、でたらめな生活をしている異教の人との付き合いの結果だと指摘をしているのです。日本の諺に「朱に交われば赤くなる」があります。交わる仲間や友人によって良い方にも悪い方にも感化されることのたとえです。勿論、先に救われたキリスト者はあらゆる人に福音を述べ伝えるものですが、同時に付き合う相手を選ぶことも必要なのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは付き合う相手を選ぶということです。34節を見てみましょう。15:34 正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。パウロはコリント教会の信者に猛省を求めています。「正気になって身を正しなさい」とありますが、復活を否定している迷夢から覚めなさいと言う意味です。「神について何も知らない人」を原語で直訳しますと、「神について無知を持っている人」で、「神について無知な人」のことではありません。神についての知識をもっていても、その一部でも間違っていたら意味がないのです。復活を否定する人がその典型です。神を信じると言っても復活を否定するのであれば、刹那的な快楽主義者に陥ってしまっているのです。ですから、「罪を犯してはならない」と命じるのですが、この部分は原語では現在命令形なので、「罪を犯し続けるな」の方がベターな訳です。パウロは「あなたがたを恥じ入らせるため」とまで言いますが、「恥じ入らせる」とはパウロはコリントの復活を否定する人々に反省をさせるためです。つまり、復活を否定するとは神について正しい知識を持っていない証拠であると言い、彼らを恥じ入らせ、彼らが猛省し、一日も早く、正しい信仰を持つことを切望しているのです。神について正しい知識を持たないと生活も乱れてしまうものなのです。

Today’s Takeaways ①父なる神が最高の存在、②苦難に耐え、意義深く過ごせる、③付き合う相手を選ぶ

Thinking Time 迫害を受けている方のために何ができるでしょうか