• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2024年4月7日主日礼拝 

説教題: 求め続けなさい、行い続けなさい~一筋縄ではいかなかったけれど~

聖書箇所:マタイによる福音書7章1-12節

◆求めなさい  7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。 7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。 7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。 7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

ハレルヤ!四月第一主日を迎え、2024年度が始まりました。今年度もとうぞ、宜しくお願い致します。今まで、私たちの教会では事前に収録した礼拝を配信していましたが、今日から聖書朗読と説教をリアルタイムのLive配信となります。7節は私たちの教会の今年度の年度成句であり、非常に有名な成句です。私が学生時代にキリスト者だったらこの句を机の前に貼り付けて受験勉強に励んでいたことでしょう。しかし、このように有名な成句は一人歩きしてしまう可能性があります。ですから、どのような背景で語られたのかを確認しつつ、注意深く読まないと大切な点を見落としてしまいます。真珠はそれ一つで美しいですが、ネックレスにするとその美しさが際立ちます。これと同じことです。マタイによる福音書の5章-7章に記された内容は一般的に「山上の垂訓」、「山上の説教」と呼ばれています。そう呼ばれている理由は5章1,2節にあります。開いて見ましょう。5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。「弟子たちが近くに寄って来た」とありますので、この垂訓は癒しなどを求めてきた一般大衆に語られたものではなく、主イエスの弟子に語られたものなのです。山上の垂訓には「主の祈り」や、「地の塩、世の光」などキリスト者にとって中心的な教義が述べられています。日本語の「豚に真珠」や「砂上の楼閣」もこの山上の垂訓から取られています。今日は今年度の年度聖句7章7節を含む7章7-12節を通し、「求め続けなさい、行い続けなさい~一筋縄ではいかなかったけれど~」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。今日の箇所は二つに分けることができます。7-11節の「求めなさい」という主題の部分と12節の「しなさい」という主題の部分です。

①熱心に祈り続ける

7節から順番に見て参りましょう。7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

山上の垂訓はイエスの弟子、天国市民になれるキリスト者の在り方について述べられたものですが、単なる道徳訓ではありません。また、天国市民になれるキリスト者でもこの山上の垂訓には実行が不可能としか思えない教えがあります。マタイによる福音書5章39,44節を開いて見ましょう。5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。この山上の垂訓は天国市民の在り方の理想に過ぎないのでしょうか。そうではありません。天国市民となるもの全てのキリスト者には実行が可能なものなのです。これを可能にするものが祈りなのです。そのことを祈り「求めなさい」と主は語られるのです。「求めなさい」は祈り求め続けなさいの意味で解釈をすると良いです。そもそも祈り求めない者に神は応えてくださいません。しかし、それは主が私たちの求めをご存じでないからではありません。主は私たちが求める以前から私たちに必要な物をご存じなのです。マタイによる福音書6章8節を開いてみましょう。6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。神は私たちに「必要なものをご存じ」ですが、願い求めもしない者にはお与えにはならないので。祈り求めるということには二つの意味があります。先ず、私たちにとってそれが本当に必要なものであるということの表明です。次がそれを与えてくださる天の父なる神であるという信仰の表明です。日本の諺に「鰯の頭も信心から」という諺があります。その意味は「鰯の頭」のように他人からみれば取るに足らないものでも、それを信じる人にとっては大切なもので、「信心」次第では不思議な力を持つ。という意味です。しかし、信仰が本当に確かなものとなる、自分の熱心さではないのです。その信じる対象が何であるかが大切なのです。ちいろば牧師こと榎本保郎先生がアメリカに行かれて墓地を見た時に、日本の墓地と比べて綺麗なのに驚いたそうです。先生は公園のようでいいなぁとも思いました。しかし、反面死をごまかしているようにも思えたのです。墓は空しい希望の無い場所であるが、主イエスはそれを打ち破ってよよみがえられたとうところに信仰の根拠があるのです。死人をよみがえらせた神。無から有を生ぜしめた神を私たちは信じているのです。神には出来ないことは何一つないという信仰をもって神に祈り求めるのです。その時、神は人智を超えた御業をなしてくださるのです。この信仰が無ければいくら本を読んでも毎週、欠かさずに礼拝にきても意味がないのです。神の右におられとりなしの祈りをしてくださっている主イエスの御名によって祈ることは言うまでもありません。7節には求める、探す、叩くという三つの動詞が使われています。強調のために三度、異なった表現を用いているのですが、いずれも原語に忠実に訳せば求め続ける、探し続ける、叩き続けるです。祈り続けなさい、そうすれば道が開けていくものだと主は8節以降で語られるのです。8節を見てみましょう。7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。私自信求め祈り続け道が開かれたことは何回も経験しています。3月22日に私の母が病床洗礼を受けました。それに至る経緯をお証したいと思います。誰でもそうだと思いますが、自分がキリスト者になると未信者の家族の救いを真剣に祈り始まると思いますが、私の場合はそうでもありませんでした。私は44歳でキリストと出会い、45歳で洗礼を受けました。伏見家の初穂です。その後、熊本県阿蘇市に引っ越し信仰生活を歩んでいたのですが、外資系企業で働きながら母教会が運営する幼稚園でも働き多忙でした。また、両親も健康でした。そんなある日、母から父が脳梗塞で倒れたと連絡があり、その後、母も心筋梗塞で倒れ、船橋に戻り、そこから両親の介護が始まり、両親の救いを真剣に祈り始めました。15年前のことです。父は東日本大震災の少し前に救われました。東日本大震災が起こった時、私は両親と一緒にいたのですが、父は神様、イエス様と絶叫してお祈りをしていました。そのあとはナンマイダ、ナンマイダと言っていましたが、、、認知症は進んでいましたが、信仰も成長していました。ある朝、父が嬉しそうな顔をして私にこう言いました。「俺も運がまわってきたよ。一億円が当たったんだよ。これで、ハワイに教会が作れるな」と。私は父に「お母さんも一緒に天国に行けるといいね」と伝えると、父は「あのばあさんは一筋縄でいかない」と言いました。まさにその通りでした。今日の説教題の副題は父のこの一言からです。一宮の時代、母は一度だけ来てくれました。司会者が「今日は敏牧師のお母さんが来てくれました。歓迎します。お母さん一言どうそ」と言いました。すると母は胸をはって堂々と「今日は見学に来ました」と言い放ったのです。どっひゃーです。会場は一同茫然です。牧師の顔、息子の顔が丸つぶれですが、母はそんなことをまったく気にしていませんでした。その後、八街に移り暫くすると母が来てくれました。息子の職場を見たかったのです。見学です。しかし、一昨年の岸義紘先生をお招きしての集会依頼、自分から教会に行きたいと言い始めたのです。ディサービスに行くよりはましという考え方ですが、教会に来続けるうちに母が少しずつ変わり始めました。ディサービスではコロナの影響で事実上、会話が禁止のようになっていたのですが、教会では皆様から話しかけられとても嬉しそうでした。ある方から「お母さんの顔が変わってきていますね。と言われましたが、本当にそうでした。皆さんの親切な言動が母の頑なな心を動かしたのです。そんなある日、こども集会に母も参加したのですが、天国に行きたい人は手を挙げてくださいとの招きに周囲をきょろきょろ見ながらも手をあげました。また、献金もしていました。年末に転倒し近くの病院に入院していたのですが、「イエス様を信じます」と信仰告白をしましたので、3月22日に病床洗礼を与えました。先日、見舞いに行った際に「お父さんが待っている天国にいこうね」と尋ねると「うん」と言いました。15年間の祈りが答えられたのです。ここにおられる方、YouTubeで礼拝を捧げている方にも、ご家族が未信者の方もおられると思います。私の母のように一筋縄でいかない人もいると思いますが、決して諦めることなく祈り続けましょう。熱心に祈り求めるという教えはルカによる福音書11章5-8にも記されています。開いてみましょう。 11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。「しつように頼めば」ということがこの例え話のポイントです。このことからも主が私たちに熱心に祈り求めることを勧めているのです。私たちは神の恵みによって、熱心にたゆまず祈り求めなければならないのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは熱心に祈り続けるということです。

②神は憐れみ深いので祈りに応えてくださる

しかし、私たちの熱心な祈りが応えられるのは、私たちの熱心さではありません。神はいつでも私たちの祈りの答え、私たちを助けようとしているのです。そのことを主イエスはたとえを使い語ります。9,10節を並行箇所のルカによる福音書11章11,12節と一緒に見てみましょう。7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。 7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。ルカ11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。「パン、石、魚、蛇」とあります。ルカでは「パン、石」の代わりに「卵、さそり」と記されています。「パン、魚、卵、」「石、蛇、さそり」。これは食べられるものと食べてしまったら大変なことになるものの対比です。地上の父親は自分の子どもには良いものを何とかして与えようとします。子どもが可愛いからです。私の父もそうでした。子どものころ毎週のように日曜日はデパートのレストランで両親と姉と私の4名で食事をしていました。当時、父も母も働いており、コミュニケーションの場が少ないと感じていたからでしょう。母と姉と私はその時に食べたいものを注文するのですが、父は必ずラーメンでした。私は大人になるまで、父はラーメンを好きなのだと思っていたのですが、そうではありませんでした。子どもの将来を思い一番安いラーメンを食べていたのです。地上の父でさえそうなのだから、天の父なる神が良いものを下さらないはずがないのです。神の子とされたキリスト者には神の子とする霊が与えられ天の父なる神の事を「天のおとうさま」と呼び祈る特権も与えられています。ガラテヤの信徒への手紙4章6節を開いてみましょう。 4:6 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。「アッバ、父よ」の部分がそうです。他にも開きませんが、ローマの信徒への手紙8章15,16節、マタイによる福音書6章9節を読まれてください。私たちはこの恵み、この特権によって大胆に祈ることができるのです。ルカによる福音書の18章1-8節には「やもめと裁判官のたとえ」が記されています。要約をしますと絶えず祈り続けることの大切さを教えています。このたとえでは、神を畏れず人を人とも思わない裁判官が登場します。この裁判官のところにやもめが来て、「相手を裁いて、わたしを守ってください」と頼み込みます。裁判官はしばらくの間、取り合おうとしませんでしたが、やもめのしつこさに我慢できなくなり、やもめの求めに応じました。このたとえは、不正な裁判官でさえやもめにとって良いものをくれるのだから、全知全能の正義の神様が、あなたに良いものをくれないはずがないことを教えています。この 「やもめと裁判官のたとえ」で語らえていることは単に熱心に祈り続けることを教えているのではありません。私たちがどんな時においても気を落とさずに絶えず祈ることが出来るには ルカ18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。とある通りのお方だからです。このことを決して見逃してはならないのです。そして、これがこのたとえ話の主題、中心です。中心聖句なのです。実に神は憐れみ深いお方なのです。ですから私たちの祈りに応えてくださるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは神は憐れみ深いので祈りに応えてくださるということです。このことを忘れずに祈り続けて参りましょう

③兄弟姉妹に対して愛をもって行動し続ける

12節を見てみましょう。7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」12節は、昔から一般的に黄金律(ゴールデンルール)と呼ばれている有名な教えです。だれでも周りの方から「こうしてもらいたなぁ」ということがあると思います。中国の思想家の孔子の教えに「おのれの欲せざること、人に及ぼすなかれ」があります。自分にして欲しくないことを、他人にもしてはいけない、という教えです。一見、12節の教えと似ていますが、孔子の教えが「してはいけない」という否定的、消極的な教えであるのに、主イエスの教えは「しなさい」という肯定的、積極的な教えです。この黄金律で注意しなければならないことは、「私たちが他人からこうしてもらいたいなぁ」と思うことを単に他人にすることではありません。相手の立場に立って物事を考えることができる人間になりなさいという教えなのです。例えば、私は魚介類が好きです。特に海老と蟹が好きですが、中には、海老や蟹に対してアレルギーを持っている方がいます。そういう方に海老や蟹を贈ることは出来ません。以前、贈り物をするためにデパ地下で高級エビ煎餅を試食し、とても美味しいので贈ろうとしたことがあったのですが、土壇場でその方に海老アレルギーがあることを思い出しました。また、嗜好品も人それぞれですので、贈る場合には相手の立場になり判断する必要があるのです。「自分のことを考える」ことと「自分のことだけを考える」ことは全く異なります。自分のことだけしか考えられないことは罪といえます。それは、相手の立場になって考えるという「愛」が欠けているからです。ですから、主イエスは愛を持って人々に接する人間になりなさいということを教えているのです。そして、主イエスは「これこそ律法と預言者である」というのです。「律法と預言者」とは旧約聖書のことですが今日でいえば聖書(旧新約聖書)と言えます。つまり聖書の教えを凝縮すれば12節の御言葉になるのです。積極的に兄弟姉妹に対して愛をもって行動し続けるということなのです。この教えは一見、平易なものですが、「言うは易く行うは難し」ですので祈り続けることによって、実行したいものです。今日の聖書箇所で主が祈り求めなさいと勧められた直後に、この聖書の要約を語られたことにその意味があるのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは兄弟姉妹に対して愛をもって行動し続けるということです。

Today’s Takeaways

①熱心に祈り続ける ②神は憐れみ深いので祈りに応えてくださる ③兄弟姉妹に対して愛をもって行動し続ける

Thinking Time

自分のことだけを考えてはいないでしょうか