• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年4月11日主日礼拝

説教題:「キリストの僕」 聖書箇所:フィリピの信徒への手紙1章1-11節

◆挨拶1:1 キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。1:2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。◆フィリピの信徒のための祈り1:3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、1:4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。1:7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。1:8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。1:9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、1:10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

ハレルヤ!4月の第二主日を迎えています。今日からフィリピの信徒への手紙を学びます。先ず、フィリピの場所から確認をしてみましょう。第二次伝道旅行でテサロニケの前に伝道をした場所です。手紙としてはテサロニケの信徒の方が先に、記されていますが、訪問はフィリピの方が先です。このフィリピの信徒への手紙は、パウロが逮捕・収監されたなかで執筆しているので、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙は「獄中書簡」と呼ばれています。獄中の場所はローマなど諸説ありますが、いずれも決め手を欠いています。使徒言行録16章には、パウロがフィリピで伝道を開始した当時のことが記されています。16:12 そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。この町に数日間滞在したと記されていることからフィリピの教会も短期間で誕生した教会であったことがわかります。

①クリスチャンはキリストの僕

1,2節から見て参りましょう。1:1 キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。1:2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。New King James Version 1:1Paul and Timothy, bondservants of Jesus Christ, To all the saints in Christ Jesus who are in Philippi, with the bishops and deacons: 1節には手紙の著者と宛先が記されています。著者はパウロとテモテ で宛先はすべての聖なる者たち つまりすべてのフィリピ教会の人たちです。そして、監督と奉仕者たちとも書いています。監督というのは、教会を監督する任務についている人です。そして、奉仕者というのは、教会の総務的な事柄において、奉仕をしている人です。執事と訳してある聖書もあります。監督と奉仕者とあることから、フィリピの教会が堅実に形成されていたことがわかります。この手紙は実質、パウロが一人で書いたと主張する学者もいないわけではありませんが、テモテの名前も連名で記されていることはとても大事です。それは、主のための働きとは一人だけでするのもではないからです。表面的には目立つことない働きもありますが、かげで主の働きをしている方を忘れてはいけません。パウロは自分とテモテをキリスト・イエスの僕と呼んでいます。新共同訳聖書では僕と訳していますが、僕には召使、使用人の意味もありますので、今日の個所は奴隷の意味で理解した方が適切でわかりやすいと思います。実際、bondservants of Jesus Christと訳している英語の聖書もあります。奴隷は単なる召使ではありません。奴隷は主人の所有物で、主人の意思によって動くのです。奴隷には自由がありません。奴隷には唯一、自由になれる方法がありました。誰かがその奴隷を買い取れば、元の所有者から解放されます。神は、罪の奴隷であった私たちをイエスキリストという代価を払って買い戻してくださったのです。人間の奴隷であれば希望や喜びもないでしょう。しかし、パウロとテモテはキリスト・イエスの奴隷なのです。この偉大な主人によって誇りも生き甲斐も与えられるのです。ラテン語に「イリ・セルウィーレ・エスト・レグナーレ」という表現があります。意味は「主の奴隷となることは王者になることである」です。イエスキリストの奴隷になることは王者、完全な自由を得ることです。今日先ず、覚えて頂きたいことは、クリスチャンはキリストの僕、奴隷ということです。2節の言葉はほとんどのパウロ書簡(パウロが書いた手紙)の冒頭に記されている言葉です。新共同訳聖書では1,2節に挨拶と小見出しを付けていますが、単なる挨拶以上の意味を思っています。これは宛先のすべてのフィリピ教会の人たちへの祝祷です。この手紙の最後である4章23節には次のように記しています。4:23 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。パウロは祝祷を持ってこの手紙を書き始め、祝祷をもってこの手紙を閉じています。テサロニケの信徒への手紙一もそうでしいたが、ほとんどのパウロ書簡はこのパターンです。パウロは神の祝福の大切さを理解していました。常に周りの人への祝禱を祈っていたのです。祝禱と聞くとそれは牧師のすることだと思うかもしれません。実際、多くの教会では主日礼拝は牧師の祝祷で終わります。しかし、祝禱とは神様からの祝福が与えられるように祈ることですので、クリスチャンなら誰でも出来、また、すべきことなのです。

②福音宣教に関わる

3節を見てみましょう。1:3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、思い起こす度に とありますが、単に思い起こすことではありません。名前を思い起こし執り成しの祈りをすることです。9節から執り成しの祈りが記されています。わたしの神に感謝し とあります。パウロの感謝は人に対する感謝ではありません。神への感謝です。パウロはいつもどんなときも神が良きことをしてくださるお方という信仰がありました。ですから、獄中にいても感謝が出来るのです。パウロはフィリピの信徒の事を思い起こして執り成しの祈りをし、神に感謝をしていたのです。4,5節を見てみましょう。1:4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。4節に、いつも喜びをもってとあります。フィリピの信徒への手紙は別名「喜びの手紙」のと呼ばれています。喜ぶという言葉が動詞と名詞で16回使われているからです。その喜びを持たらすものが、福音です。この福音という言葉は喜びに次いで9回記されていて、ふたつともフィリピの信徒への手紙を理解する上でのキーワードです。そして、大事なことは喜びの根拠、基盤が主イエス・キリストだということです。私たちはどうでしょうか。喜びの基盤を主イエスにおいているでしょうか。自分自身やこの世のことにおいてはいないでしょうか。心を探ってみましょう。5節に。福音にあずかっているからです とありますが、これは福音宣教に参与する。参画する。関わるの意味です。最初の日、つまり、パウロがフィリピでの福音伝搬を開始したその日から、パウロがこの手紙を書いている時点に至るまでフィリピの人々が福音宣教に参与していることを感謝し喜びつつ、いつも祈っているのです。実際、フィリピの人たちは囚人となっているパウロのために、エパフロデトをパウロのもとに遣わしていたことが、2章25-30節からわかります。また、フィリピの教会はパウロを支えるために、贈り物(献金)を届けたことが4章15~20 節に記されています。冒頭に話した通り、フィリピの教会はパウロの短期間での滞在で生まれました。当初は、派遣できる人材も、献金をするお金もなかったでしょう。しかし、福音宣教に関わりつつ、教会が形成させ成長していったのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは、②福音宣教に関わる ことです。ところで、伝道と宣教の違いを、伝道が国内で宣教を海外の場合に使うと考えている方がいますが、そうではありません。英語にすると違いがよくわかります。宣教はmissionです。missionの第一義は使命です。ですから与えられた賜物をいかして、使命をもって神様のために働くことが宣教です。医療を通して福音を伝えることも宣教の一つです。伝道はevangelismで、ギリシャ語で「福音」を意味する「エウアンゲリオン」に由来にしています。ですから、伝道は宣教の一部とも言えます。私たちも、与えられている賜物を生かして、何らかの形で福音宣教に関わり、使命を果たそうではありませんか。6節を見てみましょう。1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。善い業 とありますが、これは人間が行うものではありません。救いの御業です。キリスト・イエスの日とは主が再び来られる日、再臨です。救いの御業―これ以上ない善い業はイエスキリストを救い主と受け入れたときに始まり、主イエスの再臨まで続き、再臨時に完成をするのです。そしてこの御業を最後まで成し遂げてくださるのが、主イエスご自身とパウロは確信をしているのです。7,8節を見てみましょう。1:7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。1:8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、とあります。パウロは自分の置かれた状況を二通りのときで表しています。牢獄の中にいる時、法廷に立たされ福音を立証するときの意味ですが、これらのケースはパウロが受けた不当な仕打ちです。ですから、文字通りの解釈よりも、これは「どんな状況のときも」の意味で解釈をするとより、パウロが言わんとしている意味がわかります。どんな状況のときも、フィリピの信徒のことを心に留めていたのです。元フェリス女学院大学学長の佐竹明先生は著書の中で、この箇所を「パウロのフィリピの人々への思いは共同奉仕に結ばれた同士愛と呼ぶべきものである」と解説をしています。一言で言えば「戦友」でしょうか。8節は7節で述べたフィリピの人々への思慕をも一度繰り返して強調しています。

③真の知識とは神と主イエスを知ること

9-11節を見てみましょう。1:9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、1:10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。パウロは実によく祈る人物でした。9-11節にはフィリピの人々への執り成しの祈りが記されています。9節に愛とあります。パウロと福音宣教のために労苦をしたフィリピの人々の愛です。その愛がますます豊かになるように祈ったのです。愛がないところに愛があるように祈ったのではありません。豊かな愛に感謝しつつ、更に成長するように祈ったのです。この愛の成長に必要なことが、知る力と見抜く力とを身に着け ることなのです。9節を英語の聖書で見てみましょう。King James Bible 1:9 And this I pray, that your love may abound yet more and more in knowledge and in all judgment; 英語の聖書では knowledge(知識), judgment;(判断)と訳されています。見抜く力とは判断する力です。本当に重要なことを見抜く力です。優先順位を正しく見極める力です。では知る力knowledge(知識)とはなんでしょうか。パウロはコロサイの信徒への手紙1:9を新改訳で見てみましょう。1:9 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように パウロは知る力を神のみこころに関する真の知識 と言い換えています。神とそのひとり子であるイエスキリストを知ることです。神と主イエスを知ることなしに、真の知識も愛も持ちえないのです。知る力と判断する力を身に着けることによって、愛が豊かになり、更に成長をしていくのです。10節の キリストの日 とは再臨のことです。主イエスの再臨時に、救いが完成します。完全に聖なるものへとなります。自己本位な思考と行動が、恵によって完全に打ち砕かれるのです。そして、続く11節では、キリスト者の目的が記されています。キリスト者の目的は、神が与えてくださる栄光と誉を表する生活をすることです。神の恵みによって生かされていることを知り、証をすることです。このような歩みが、やがて「キリストの日」に義の実が豊かに溢れ、全き聖きものとされることをパウロは祈っているのです。

Today’s point ①クリスチャンはキリストの僕、②福音宣教に関わる、③真の知識とは神と主イエスを知ること 

Thinking time 周りの方への祝福を祈っていますか。