• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年6月13日主日礼拝 

説教題:天国市民の生活~不完全な完全者~ 聖書箇所:フィリピの信徒への手紙3章12節~4章1節

◆目標を目指して3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。4:1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。

ハレルヤ!6月の第二主日を迎えています。私たちの教会では4月からフィリピの信徒への手紙を学んでいて、今日はその7回目です。先週は3章1-11節から「主キリスト・イエスを知る」と題して、三つのことを中心に学びました。①聖霊による心の割礼、②この世のものは塵あくた、③キリストと等しい者となる でした。今日は、3章12節から4章1節を通し、「天国市民の生活~不完全な完全者~」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①不完全ゆえに完全

12節から見てまいりましょう。3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。「それ」とあります。主イエスです。主イエスを得ることの意味です。パウロは主イエスについて得ていない、完全なと者なっていないと語ります。そのパウロが自分を完全なものではないという理由が後半です。自分が主イエスによって捕らえられたために、主イエスを捕らえようとしているのです。先ず、主イエスがパウロをダマスコへの途上で捕らえたのです。(使徒言行録9章)それ以来、パウロは再臨の時までキリストを追い求め続けることをここで宣言しているのです。13,14節を見てみましょう。3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。13,14節は12節で語られたことを言葉を変えて語っています。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」とあります。先週も学びましたが、パウロはキリストに捕らえられるまえのことを何ひとつ栄誉とせずに忘れると言い切ります。過去を忘れ、「お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」と固い決意を語ります。コリントの信徒の手紙一9章25節には次のように記されています。9:25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。全てのクリスチャンは何らかの目的と計画でキリストに捕らえられているのです。その目的と計画に則り「節制」を心がけ朽ちない冠を得るため」に全生涯をかけて節制し続けるのです。15節を見てみましょう。3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。15節に「わたしたちの中で完全な者」とあります。パウロは12節に加え、完全な者について語ります。もし、自分を完全と思うのであれば、自己欺瞞の罪と言わざるをえないでしょう。4-5世紀に活躍したラテン教父のアウグスチヌスはキリスト者の完成について、このように述べています。「キリスト者の完成には謙遜も含まれる。謙遜とは自分が不完全なことを自覚していることだ。だから、自分が完全になったという思いが少しでもあれば、その瞬間に不完全になってしまうのだ。」と。15節に戻り、「このように考えるべきです。」とあります。ここでパウロが言わんとしている完全な者とは、キリスト故に自分には何一つ誇るものがない、その不完全さを認めることが出来るキリスト者こそが「完全な者」というのです。自己欺瞞の完全ではありません。不完全であることを認識している謙遜、謙虚な者が完全な者なのです。「何か別の考えがあるなら」とあります。これは、自分が不完全であることを認識、理解をしていない驕り高ぶった人の意味です。自分が不完全だと認識している者が完全者なのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは、不完全ゆえに完全ということです。このことを主イエスも山上の垂訓で次のように述べています。現代訳聖書と一緒に見てみましょう。マタイ 5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。マタイ 5:3  心の貧しい人々とは自分の心の状態を知っている人、謙遜で、自分の不完全さを知っている人のことです。(現代訳)聖書個所に戻り16節を見てみまししょう。3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。「いずれにせよ」とあります。パウロはフィリピの人々の歩みを一応は理解して、彼らがその到達した認識、理解の段階にふさわしい方法で前に勧めているのです。 

②福音にふさわしく生きる

17節を見てみましょう。3:17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。「わたしに倣う者となりなさい 」とあります。キリストに倣う者となりなさい ではありません。わざわざパウロがこのように記したのには意味があると思います。このことを理解するためには、先ず、キリスト者とはどういう人々かを理解する必要があります。一般的にキリスト者と聞くと真面目で温和な人柄が思い浮かぶと思います。しかし、これはキリスト者だけの特長ではありません。世の中には、キリスト者でなくても真面目で温和な人物はたくさんいます。また、キリスト者とは熱心に精神的な修行を積み、信仰の前進を図るものでもありません。キリスト者をキリスト者たらしめるものは、福音です。福音によって救われたキリスト者は福音にふさわしく生き、福音を宣べ伝えるのです。それ以外のものはありません。パウロは人一倍伝道のために労苦をしました。人一倍教会建設のためにも励みました。これこそパウロのキリスト者としての福音そのものなのです。それまで頼りにしていた、熱心な律法的な生き方から、キリストによってのみ生かされる生き方へと転換したところにパウロの信仰生活は始まりました。パウロが語る「わたしに倣う者となりなさい」とはこのことです。自分の偉大さや使徒としての特権を誇示する言葉ではありません。取るに足りない自分をも救ってくださった福音の偉大さを讃える言葉なのです。ですから、パウロは続いて、「わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」 と語るのです今日、二番目に覚えて頂きたいことは、キリスト者は福音にふさわしく生きるということです。このことはこの手紙の1章27節の前半で語られています。1:27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。福音にふさわしく生きるということが、キリスト者をキリスト者たらしめるものなのです。18,19節を英語の聖書を含め見てみましょう。3:18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。3:19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。3:19They are headed for destruction. Their god is their appetite, they brag about shameful things, and they think only about this life here on earth.(NLT)18節は17節で述べられた勧告の理由です。「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」とあります。フィリピの教会にはキリストの十字架に敵対する人たちがいたのです。彼らが誰であっつたかはわかりませんが、人間の自己救済、人間の努力で義となりえると考えていた人々です。信仰義認ではなく行為義認を唱えていた人々です。先週学びましたが、3章2節で、パウロはそのような人々を犬と呼んでいます。19節にはそんな人々のことが記されています。彼らの行先は滅びです。「腹を神とし」とあります。原語にはお腹に加え、心、内なる人の意味があります。日本語でも、「腹を読む」と言いますが、心を見抜くの意味です。英語の聖書ではappetite(食欲、欲望)と訳している聖書があります。肉の思い、欲望を神として信奉している人がいたのです。それ人が、「恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていない人です。」20節前半を見てみましょう。3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。パウロは、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者と比較して、わたしたちの本国は天にあります と語るのです。キリスト者の本国は地上ではありません。天にあるのです。つまり、キリスト者がこの世で生活をしているときの目標とは、天からきて天に向かっていることなのです。主イエスは山上の垂訓で次のようも語りました。マタイ6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」主イエスは「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と言われました。私たちの心が天にあるなら、私たちの生き方、行動はそれにより決まります。私たちはどうでしょうか私たちの行動は本国を反映したものでしょうか。心を探ってみようではありませんか。20節後半と21節を見てみましょう。3:20bそこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。3:21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。この世は悪魔の支配下にあります。勿論、悪魔の支配は永遠に続くわけではありませんが、一時的とは言えこの世を支配しています。この手紙の2章でも学びましたが、私たちは悪魔との戦いの最中にいます。悪魔との戦いは厳しいものです。私たちだけでできるものではありません。ですから、「わたしたちの本国は天にあり」という天国信仰が必要なのです。「万物を支配下に置くことさえできる力」による勝利が約束されている信仰です。具体的にはキリストの再臨とその時に「御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」。私たちの体が二度と朽ちない体に変えられることなのです。神学用語でいえば栄化です。「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者」という地上のものへの信仰ではなく、天が本国、天に国籍を持つキリスト者の信仰、再臨の期待によって、キリスト者としての戦いを戦い抜くこと、このことがパウロの教える信仰生活に他ならないのです。

③主によってしっかり立つ

最後に4章1節を英語の聖書を含め見てみましょう。4:1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。4:1 Therefore, my brethren dearly beloved and longed for, my joy and crown, so stand fast in the Lord, my dearly beloved.、(KJB)「だから」とあります。これは3章に書かれている内容を受けてです。律法主義者、十字架に敵対して歩んでいる者の歩みではなく、本国が天にあるもの、主エスがそこから来ることを待っているのです。再臨、栄化の恵みに預かれるのですから、「主によってしっかりと立ちなさい」と勧告しているのです。主によってしっかりと立つことは私たちの日常生活の基盤となります。4章2節以降には、ふたりの婦人の和解や、思い煩い、献金といった日常的なことが述べられています。パウロはだからと言い、今まで述べてきたことの基盤にたって、これから述べることの出発点にしているのです。実に、信仰生活の基盤は「主によってしっかりと立つ」ことなのです。自分自身で固く立つのではありません。そもそも自分自身で固く立つことなどできません。主によってです。英語の聖書ではstand fast in the Lord,です。今日、最後に覚えて頂きたいことは「主によってしっかり立つ」です。この主によって、In the Lordについては来週、具体的に学びます。冠」あります。原語では競技の優勝者に与えられる月桂冠を意味する言葉です。パウロは、フィリピの兄弟姉妹たちがキリストの救いに預かったことが喜びであるばかりか、福音による勝利者だと伝えているのです。私たちの本国は天にあります。この悪魔が支配する世にあって、そのことを証し続ける生活こそ、私たちに求められていることなのです。

Today’s point①不完全ゆえに完全者、②キリスト者は福音にふさわしく生きる、③主によってしっかり立つ

Thinking time富を天に積んでいるでしょうか。