• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年6月16日聖書の学び

本日は、イザヤ書59章1-2節から「御手は短じかくない」と題して短くお話をします。

59:1 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。59:2 むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。

苦しみの中にある時、大きな問題に直面している時、行き詰っている時に、キリスト者は熱心に祈ります。しかし、「これほど熱心に祈っているのに祈りが答えられない。神様から見捨てられてしまったのかもしれない。神様は祈りを本当に聞いているのだろうか」などと日々の信仰生活の中で、このようにつぶやいてしまうことはあるかもしれませんが、イザヤは次のように語ります。1節には「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。」と記されています。神は天地万物をお創りになられたお方ですので、御手が及ばない場所などありません。また、私たちの声がどんなにか細かったとしても聞こえないことはありません。声を出さずとも心の中で思っていることも見抜く力のあるお方なのです。詩編139編1-3節には主が私たちの一挙手一投足をご存じであることが記されています。139:1【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。139:2 座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。139:3 歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。では、私たちの祈りが応えらないのは何故でしょうか。いくつかの理由があります。御心に叶っていないこと。その時期ではないこと。他のご計画があること。そして、私たちの側に問題がある場合です。2節を見てみましょう。「むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」御手は短じかくありません。私たちの悪が神と私たちの間を隔てしまっているのです。私たちの罪が御顔を隠し、耳を傾けさせなくしているのです。私たちの悪、罪が原因なのです。私たちは、大きな罪は犯していないかもしれませんが、気づいていない罪はないでしょうか。また、どうしたらその罪に気が付くでしょうか。その解決法は聖書を読むことです。鏡の前に立つと、そのまままの姿が写ります。同様に、聖書は私たちの心の中をありのままに映し出す鏡のようなものです。聖書を読み祈りましょう。日々のデボーションを習慣化し、聖書を読み気づいていない罪を映し出させて頂きましょう。