• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2021年6月6日主日礼拝     

説教題:主キリスト・イエスを知る 聖書箇所:フィリピの信徒への手紙3章1-11節

◆キリストを信じるとは 3:1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。3:2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。3:3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

ハレルヤ!6月の第一主日を迎えています。4月からフィリピの信徒への手紙を学んでいて、今日はその7回目です。先々週がペンテコステ礼拝で、先週が溝口先生にメッセージを取り次いで頂いたので、三週間ぶりの学びとなります。前回は2章19-30節から「キリストにある同労者、戦友」と題して、三つのことを中心に学びました。①固い絆で結ばれた仲間を持つ、②同労者に上下優劣はない、③主の働きには勇気が必要でした。今日は、3章1-11節から「主キリスト・イエスを知る」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①聖霊による心の割礼

1節から見てまいりましょう。3:1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。「では、」とありますが、原語では最後にの意味です。ですから、口語訳と新改訳は「最後に」と訳されています。英語の聖書ではfinallyと訳されているものもあります。この「では(最後に)」と訳された言葉は、パウロの文章の特徴の一つです。手紙を終えるにあたり、重要なことを伝えるために使っているのですが、その後、伝えたいがことあり、手紙を書き続けていますので、必ずしも文章の最後ではありません。ですから、「では(最後に)」は、これから大事なことを書きますのでの意味で解釈をすると良いと思います。「わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。」とありますが、この個所からとても大事なことがわかります。キリスト者の喜びの永遠性と普遍性です。この世の中のもので朽ちないものはありません。また、私たちが大事にしているものを災害や不慮の出来事で一瞬に失うこともあります。しかし、キリスト者は、あらゆる物、あらゆる人を失ったとしても、イエス・キリストを失うことはありません。主イエスは永遠に普遍です。ですから、パウロは獄中という喜ぶことが出来ないと思えるような環境にあっても喜ぶことが出来、フィリピの人々に「主において喜びなさい」と勧めているのです。「同じことをもう一度書きますが」 とあります。これはこの手紙の内容から判断すると、この手紙以前に送った手紙の内容だと考えられています。

2節を見てまいりましょう。3:2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。「犬」とあります。愛犬家の方もいると思います。今日の私たちにとって犬は愛すべき動物、仲間、家族でありますが、当時、犬と言えば野良犬で、よだれを垂らすことが不浄と思われていたのです。ですから、聖書で犬は人間に対して軽蔑を表す場合に使われています。開きませんが、黙示録22:15などに記されています。今日もキリスト教を名乗る新興宗教や異端がありますが、当時からフィリピの教会には異端との戦いがありました。キリスト者の中に、ユダヤ的律法主義的な人、行為義認を主張する人がいたのです。救いは信じるだけでは不十分で、律法を守り、善行を積む必要があると思っていた人々です。パウロはそのような人を、「あの犬ども、よこしまな働き手たち、割礼を持つ者たち」と呼び警戒するように勧めているのです。パウロは福音宣教の動機はともあれ、福音が正しく伝えられていたことには喜びを感じていました。しかし、福音ではない異端の教えが伝えられることには我慢ができなかったのです。ですから厳しい言葉を使いフィリピの人々に勧告をしているのです。それでは、正しい教えと間違った教えの区別、異端の見分け方はどこにあるのでしょうか。それが、3節です。3:3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。「真の割礼を受けた者」 とあります。キリスト者は外側、肉による割礼ではなく「神の霊によって」内側の割礼を受けている者なのです。真の割礼とは肉体につけられた印ではありません。ですから、割礼により頼むことはキリストに信頼を置かないことに他ならないのです。旧約時代、割礼は神とユダヤの民との契約の印でしたが、新約の時代はどうでしょうか。ロ-マ信徒への手紙4章11節 とコリントの信徒への手紙二 1章22節を一緒に見てみましょう。ロ-マ4:11アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。二コリ 1:22 神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。「割礼の印を受けたの、証印を押して、霊”を与えてくださいました」 とあります。パウロは「印」ということばは聖霊を受けていることだと説いています。割礼を受けることと聖霊の受けることは同義なのです。つまり、割礼は、新しい契約においては聖霊が証印を押すということで成就しているのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは新約の時代の割礼とは聖霊による心の割礼で肉体の割礼は不要ということです。キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない とあります。この手紙の2章12-18節で学びましたが、私たちの唯一の誇りは主イエスです。私たちがしたことで誇れるものは何ひとつありませんが、キリストが私たちのためにしてくださったことが誇りなのです。十字架です。キリストの十字架のみが栄光と誇ろうではありませんか。4-6節を見てまいりましょう。3:4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。この個所はパウロが主イエスと出会う前の経歴書とも言えます。パウロは敬虔で熱心なユダヤ教徒であった当時を振り返りました。そして、パウロは肉の誇りを六つ記したのです。5節には生まれながらのものが三つです。八日目に割礼を受けたこと。「イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身」だったこと。「ヘブライ人の中のヘブライ人」だったことです。5節の最後と6節にはユダヤ教徒としての信仰深さを表すものが三つです。「ファリサイ派の一員」、「教会の迫害者」、法の義については非のうちどころのない者」とある通りです。

②この世のものは塵あくた

7-8節abを見てみましょう。3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。7節に「キリストのゆえに」 8節には「主キリスト・イエスを知る」 とあります。パウロがどんなに律法を守り、善行を積んでも得られなかった真の救いを、ただイエス・キリストを救い主として信じる信仰により得ることができたのです。パウロがキリスト者を迫害するためにダマスコへ向かう途中での出来事です。使徒言行録9章に書かれています。パウロはキリストとの出会い以降、人生がかわりました。「主キリスト・イエスを知る」以前は有利だと思っていたものを損失と語らいます。損失に加え、「塵あくた」と語ります。パウロは、キリストを知る以前には人間的に頼りとしていたものを、今では「塵あくた」と呼んでいます。この「塵あくた」と訳された言葉は原語では、排泄物、糞、肥しの意味です。パウロはそれまでの人生で大事にしていたものをキリストの素晴らしさと比較して、排泄物とさえ呼んでいるのです。私自身、主イエスを知る前は、大手企業で出世し、お金をたくさん稼ぐことが肉の頼りでした。生きがいでした。身に着けるものは豪奢なブランド品で固め、これ見よがしに高級腕時計を付けていました。今思うと、どれだけお金を稼いだ、どれだけ出世したなどということ、ブランド品で身を固めることなどは正に「塵あくた」です。主イエスを知るという絶大な価値は、この世のいかなるものにも比べようがないのです。比類するものは何ひとつないのです。パウロはエフェソの信徒への手紙で次のように記しています。1:18bそして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。エフェソの教会の人の中には、残念なことに信仰によって与えられる栄光がどんなものであるかを理解していない人や過小評価していた人がいたのです。私たちはどうでしょうか。キリストによって与えられる恵みがどんなに素晴らしいものかを理解しているでしょうか。過小評価してはいないでしょうか。今、ここで心を探ってみようではありませんか。今日、二番目に覚えて頂きたいことはこの世のものは塵あくたということです。8節c-9節を見てみましょう。3:8cキリストを得、3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。「キリストを得」とあります。口語訳聖書では「キリストを得るため」と訳されています。パウロを含めキリスト者のまだ到達していない目標です。律法的な生き方を捨てたからと言って、キリストを得たわけではありません。具体的には終末時に実現されること、キリストと共に霊的な体に属することへの期待、目標です。9節の後半では再度、信仰義認について語ります。人が救われるためには何をおこなうかではありません。何を信じるかです。信仰義認これは永遠の真理なのです。

③キリストと等しい者となる

10-11節を英語の聖書を含め見てみましょう。3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。I want to know Christ–yes, to know the power of his resurrection and participation in his sufferings, becoming like him in his death,(NIV)10節に「キリストとその復活の力とを知り」とあります。この「知る」という言葉は原語のギリシャ語では直接的に知るの意味です。単なる知識の習得ではなく経験的に知るの意味です。私が知る限りの22種類の英語の聖書では全て「know」が使われています。 Know aboutではありません。例えば、もし、アメリカ人に I know president Joe Biden very well.と言ったら、とても驚くでしょう。“know+人”は直接会ったり一緒に何かしたりして人間関係を築き上げた人にしか “know+人” は使えないのです。テレビやネットで間接的に知っている場合はI know about president Joe Biden very well.という必要があるのです。ですから、キリスト教の信仰者はI know Christ Jesus very well.でなければならないのです。I know about Christ Jesus very well.だけではキリスト信仰のない宗教学者なのです。ですから、10節でパウロが意図していることは「キリストについて知ること」ではありません。人格的にキリストを知ることなのです。具体的には復活の力」を知ることと、「苦しみにあずか」ることによって知るのです。信仰のために苦難を受けることは罰ではありません。キリスト者の恵みであり特権でもあるのです。そのことにより、キリストの御業と使命にあずかることが出来るからです。そして、そのことが、10節の後半から記されていることに繋がるのです。その死の姿にあやかりながら、3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。キリストを知ることとはキリストと等しいものとなり、キリストの経験そのものに預かることです。今日、最後に覚えて頂きたいことはキリストを知るとは、キリストと等しい者となることです。それは、主イエスが歩まれた道を歩むものであります。主が負われた十字架の死に預かり、復活の恵みに預かることなのです。信仰義認という恵みによって救われたキリスト者は、その喜びゆえにキリストに仕えたいと願い、キリストはその願いを聞き入れて、私たちに聖霊による力を与えてくださり、その働きのために用いてくださるのです。

Today’s point①割礼とは聖霊による証印、②この世のものは塵あくた、③キリストと等しい者となる

Thinking time主イエスとの人格的な交わりは十分でしょうか。どうしますか。