• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年3月27日主日礼拝   

説教題:イザヤが見たもの~我こそ罪びと~ 聖書箇所:イザヤ書6章1-13節

◆イザヤの召命6:1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。6:2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。6:3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」6:4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。6:5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」6:6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。6:7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」6:8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」6:9 主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。6:10 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」6:11 わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」6:12 主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。6:13 なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。

ハレルヤ!3月の第四主日を迎えています。2021年度の最後の主日礼拝です。先々週からフィレモンへの手紙を二回に分けて学びました。先週は11-25節を通し、「パウロの願いと配慮~人はかえられる其二~」と題し三つのことを中心にお話をしました。①キリストの愛で兄弟を愛す、②全ては神の導きにある、③罪の代価は支払われているでした。今日はイザヤ書6章1-13節を通して「イザヤが見たもの~我こそ罪びと~」と題してお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。先ず、全体的なお話をしたいと思います。イザヤは預言者です。ヘブライ語でイザヤとは「主は救う」という意味です。ユダヤ人の親は信仰が継承されることを願い子どもに名前を付けていました。ですから、イザヤの両親も自分の子どもが主の救いに預かることが出来るようにとの思いでイザヤと名付けたのでしょう。1章1節にイザヤが預言者として用いられた時期が記されています。イザ 1:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。「ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世」とありますので、BC8世紀の時代です。イザヤ書は預言書ですが、預言書は大預言書と小預言書に二分できます。この分類は預言の内容が大事や小事とではなく、預言の数が多いか少ないかです。イザヤ、エレミヤ,エゼキエル,ダニエルが大預言書で、その他ホセア,ヨエルなど12の予預書が小預言書になります。

➀主ご自身の存在を褒め称え、賛美する

1-3節を見てみましょう。6:1 ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。6:2 上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。6:3 彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」「ウジヤ王が死んだ年」とあります。正確な年月日はわかりませんが、BC740年前後と考えられています。ウジヤ(列王記では別名アザルヤ)はユダ王国の第10代の王で、功罪があります。後ほど、列王記下15章、歴代誌下26章を読まれてください。「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。」とあります。今日の聖書箇所でイザヤが初めに見たものはが主=神です。その神がどのようなお方なのかが続いて記されてあいます。「上の方にはセラフィムがいて、」とあります。聖書中、セラフィムについて記されているのは今日の聖書箇所だけですので、多くはわかりませんが、御使いです。そして、3節に「彼ら」とありますので、複数のセラフィムがいたことがわかります。聖書には他の御使いのミカエル(ダニエル書、ユダの手紙、ヨハネの黙示録)、ガブリエル(ダニエル書)の名前も記されていますが、セラフィムは、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」とあるように主を賛美する天使です。この「聖」という言葉は「清」ではありません。「清」は汚れを落とすときに使います。英語で言えばCleanです。聖という漢字は人名にも使われていますが、元々は神のご性質を現すときに用います。英語で言えば神聖を意味するHolyです。18世紀に活躍したドイツの聖書学者のベンゲルは「聖というのは、覆われた神の栄光である。栄光(神の輝き)とは現れた聖である」と言いました。ですから、御使いのセラフィムでさえ、「顔を覆い」とあるように、まともに御顔を見ることができないほど、主は神々しい存在なのです。顔を覆うとは、畏敬の念の現れであり、足を覆うとは汚れた場所を覆うという謙遜さの現れです。この御使いのセラフィムの賛美からとても大事なことがわかります。それは、神のご性質である聖を褒め称え賛美しているのです。主が何々をしてくださったから感謝します。褒め称えます。賛美しますではないのです。勿論、それが間違っているわけではありませんが、先ずは主ご自身の存在を褒め称え、賛美しようではありませんか。今日、先ず覚えて頂きことは主ご自身の存在を褒め称え、賛美するということです。

②我こそ罪びと

4節を見てみましょう6:4 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。「この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き」とあります。セラフィムの賛美はそれほどまで力強いものだったのです。続いて、「神殿は煙に満たされた。」とあります。揺れや煙というのは神のご臨在の象徴です。出エジプト記を見てみましょう。19:18 シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降(くだ)られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。これはシナイ山で、主とモーセとの会見中に起こったことです。5節を見てみましょう6:5 わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」「災いだ。わたしは滅ぼされる。」とあります。意外なことに聖なる神のご臨在に触れたイザヤが発した言葉は幸いではなく災いでした。その理由の一つ目が「わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。」です。ここには深い罪の自覚があります。イザヤはウジヤ王が亡くなってしまったので、王国の将来とユダの民の罪を憂いていました。しかし、栄光の聖なる主のご臨在に接し、自分が罪深く汚れた存在だと気が付いたのです。パウロはテモテ宛の手紙で次のように記しています。テモテ一 1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。さて、私たちはどうでしょうか。周りの方の罪ばかりが気になり、自分の罪に気が付いてはいないでしょうか。一日一回は御前に静まり主の御声を聞こうではありませんか。イザヤが二番目に見たものは罪にまみれた自分自身です。今日二番目に覚えて頂きことは我こそ罪びとということです。イザヤが災いだと嘆いた二番目の理由が「しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」です。当時、神を見ることは死を意味していたのです。その恐れおののいているイザヤにセラフィムは語りかけます。6-7節です。6:6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏(ひばさみ)で取った炭火があった。6:7 彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」栄光の聖なる主のご臨在に接し、イザヤには深い罪の自覚が与えられましたが、主の方から近づいて罪を赦してくださるのです。「その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。」とあります。炭火自体には罪を赦す力はありませんが、聖書には燃える火が罪をきよめる力を象徴している表現があります。マタイによる福音書3章11c,12節を見てみましょう。3:11cその方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 3:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

③主から与えられた希望は持ち続ける

セラフィムの行動と宣言により、イザヤは主にある赦しを確信するに至りました。そのイザヤに主ご自身がいよいよ語られます。8節を見てみましょう。6:8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」ここには行き先も目的も記されていませんが、イザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」と即答したのです。災いしかない、滅びしかないと覚悟していたものが罪の赦しを頂いたときに、聖なる神、栄光の神になんとしてもお仕えしたいと思いの現れです。「誰を」と聞いたときに、イザヤは自分以外の誰でもないとの確信をもって、「わたしを遣わしてください。」と簡潔で力強い決意表明をしたのです。この言葉によってイザヤは預言者として召命されたのです。新共同訳聖書の小見出しが「イザヤの召命」となっている通りです。ところで、キリスト教で、召命というと神から牧師や伝道者の使命を受けることと思われている方がいます。狭義ではそのように使われますが、元々の意味は罪の世界に生きていた人間が、神の恵みによって救われ、神に呼び出されることです。神から使命を与えられこととも言えます。一つ注意をして頂きたいことがあります。「誰が我に」ではなく「誰が我々に」と複数形が用いられていますが、神が複数いるわけではありません。これはヘブル語の「威厳を示す複数形」言われる用法です。古代へブル語では偉大さや尊厳、卓越性をあらわす強意複数形という用法がありました。実際は単数であっても複数形で書くのです。開きませんが、創世記1:26にも「威厳を示す複数形」が使われています。三位一体の教理に矛盾しない神の叙述をここに見ることができます。三位一体とは神学用語で、聖書にはその記述がありませんが、父なる神と子なる神と聖霊が同一本質というキリスト教の根幹をなす信仰概念です。381年に開かれたコンスタンティノポリス公会議でこの教理は確立しました。9,10節を見てみましょう。6:9 主は言われた。「行け、この民に言うがよい/よく聞け、しかし理解するな/よく見よ、しかし悟るな、と。6:10 この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」9-10節は神がイザヤに語った警告ですが、非常に厳しい内容です。ユダの民を「この民」と呼んでいることからもわかります。神はご自分の民を「わが民」と呼んでいた(イザヤ3:12、5:13)のですが、もはや、「わが民」と呼んでいないのです。10節で記されていることは、イザヤが神の言葉を伝えれば、かえって、ユダヤの民の心が頑なになり、その言葉を聞こうとしなくなるという事です。この9,10節は新約聖書の多くの箇所で引用されています。開きませんが、マタイ13章14節、マルコ4章12節、ルカ8章10節、ヨハネ12章40節、使徒28章26,27節を後ほど読み、引用されている意味を黙想してください。この主から厳しい警告に対するイザヤの応答が11-13節です。6:11 わたしは言った。「主よ、いつまででしょうか。」主は答えられた。「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」6:12 主は人を遠くへ移される。国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。6:13 なお、そこに十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。イザヤは「主よ、いつまででしょうか。」と尋ねます。預言者として召されたイザヤにとって、このような厳しいことを民に伝え続けるのは心苦しかったのでしょう。イザヤの問に主は「町々が崩れ去って、住む者もなく/家々には人影もなく/大地が荒廃して崩れ去るときまで。」と答えます。主の答えは厳しい裁きの宣告でした。戦争や侵略による国土のすさまじい荒廃、民の捕囚によってしか不信仰が取り除くことは出来ないというものでした。さらに、「十分の一が残るが/それも焼き尽くされる。」という徹底的なものでした。「しかし、それでも切り株が残る。その切り株とは聖なる種子である。」とあります。徹底した厳しい裁きの宣告の中にも、主は一つの希望の光を与えてくださるのです。木は切られてもその切り株は残ります。その「切り株」「聖なる種子」なのです。そして、約800年という時を経て「聖なる種子」から救い主イエス・キリストが誕生するのです。今日の箇所でイザヤが三番目に見たものは希望の光です。主は残りの中の残りの者に豊かな恵みを施してくださるのです。イザヤの生涯には多くの困難や失望が伴ったに違いありません。聖書にはその記述はありませんが、初期の書物によれば、最後はのこぎりで挽き殺されて殉教したと言われ、その絵画も描かれています。しかし、イザヤはこの約束の言葉を信頼し慰めと励ましを受け預言者としての働きをまっとうしました。数々の救い主に関する預言を残したのです。今日、最後に覚えて頂きことは主から与えられた希望は持ち続けるということです。最後に、恩師の中野雄一郎先生の経験されたお話をしたいと思います。今から60年近く前の昭和38年(1963年)に中野先生が坂戸教会へ遣わされたときのことです。中野先生は教団本部の命を受け、坂戸教会の閉鎖のために遣わされたのです。問題があり閉鎖やむなしと本部が判断をしたのです。しかし、現地に着いた中野先生に、主から、あなたがこの地でやり直しなさいとの召命を受けました。一筋の希望の光です。それで、中野先生は教団本部を説得し坂戸教会を再開したのです。問題があった教会ですので、ゼロからの再スタートというよりもマイナスからの再スタートです。困難も苦難もありましたが、中野先生はこの希望の光を忘れることはありませんでした。暫くは、誰も来会することなく座布団を相手に説教をされたそうですが、その後、教会は成長をし続け、村上宣道先生や郷家一二三(ひふみ)先生に坂戸教会は引き継がれ、教団屈指の教会となったのです。来週から、2022年度が始まります。先に何があるかはわかりませんが、主から与えられた希望を持ち続け歩んで参りましょう。

Today’s Point➀主ご自身の存在を褒め称え、賛美する、②我こそ罪びと、③主から与えられた希望は持ち続ける Thinking Time主からの召命で見逃していることはありませんか。