• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年5月22日主日礼拝 

説教題 人と一体になられたキリスト~悪魔に打ち勝つ秘訣~ 聖書箇所 ヘブライ人への手紙2章10-18節

2:10 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。 2:11 事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、2:12 「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、/集会の中であなたを賛美します」と言い、2:13 また、/「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、/「ここに、わたしと、/神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。2:14 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。2:16 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。2:17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。2:18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

ハレルヤ!5月の第四主日を迎えています。今月からヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその四回目です。先週は、2章1-9節を通し、「低いものとされた救い主~錨を下ろし忘れるな!~」と題して三つのことを中心にお話をしました。福音という錨を下ろす、賜物は御心に従って与えられる、イエスの苦しみを忘れないでした。20世紀に活躍したアメリカの聖書翻訳研究家のユージン・ナイダは伝道に必要な二つの重要なことを挙げています。先ず、どのように伝えるかです。これはコミュニケーション力と言えます。次は、伝えようとする相手と一つとなることです。これはアイデンティフィケーション力です。相手の立場を十分に考慮し相手と一つになれる能力です。今日の箇所には救うものであるキリストと救われるものである人間との本質的一致、つまり。キリストが人間の立場になり人間と一体になるために来られた理由が記されています。今日は2章10-18節を通し、「人と一体になられたキリスト~悪魔に打ち勝つ秘訣~」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。

私たちの兄姉(きょうだい)

では、10節から順番に見て参りましょう。2:10 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。「というのは、」とあります。先週、学んだ2章9節b「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」の理由です。「救いの創始者」とります。この創始者と訳された原語には導き者、開拓者、先駆者といった意味があります。英語の聖書にはPioneerと訳されているものもあります。他人のために道を切り開く者のです。例えば、船が座礁した場合、先ず、誰かが綱を持って泳いで岸へ行き綱を固定し、他の人たちがその綱をつたわって岸に行けるようにします。この初めの誰かの役割をする人です。主イエスが私たちの「救いの創始者」というのはこの意味です。主イエスは私たちが御国へいける道を照らし導いてくださるのです。父なる神がこの主イエスを私たちに遣わしてくださった目的が「多くの子らを栄光へと導くため」なのです。「万物の目標であり源である方」とは神のことです。同様な表現がローマの信徒への手紙にも記されていますので見てみましょう。ローマ 11:36 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。10節に戻ります。「ふさわしいことであったからです。」とあります。神が独り子を十字架に掛け「数々の苦しみを通して完全な者とされた」ことがふさわしいのです。「完全な者とされた」と訳された原語には十分に準備された計画といったニュアンスがあります。ですから、主イエスの受けた苦しみとは全人類救済という聖定、聖なるご計画の一環だったのです。11節を見てみましょう。2:11 事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも」とあります。人をきよめることが出来る主イエスと主イエスによってきよめられる人間のことです。これら二者が、「すべて一つの源から出ているのです。」子なる神であるキリストは父なる神から生まれ、私たちも父なる神によって創られた存在なのです。ですから、「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」のです。事実、主イエスは弟子を兄弟と呼びました。マタイによる福音書28章10節を見てみましょう。マタイ28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」開きませんが、ヨハネによる福音書20章17節にも弟子を兄弟と呼んだことが記されています。今日、先ず覚えて頂きたいことは主イエスは私たちの兄姉(きょうだい)ということです。主イエスはかって暗黒にいた私たち、罪まみれにいた私たちを救い聖め兄弟とさえ呼んでくださるのです。さて、私たちはどうでしょうか。教会ではキリスト者らしく振舞い、何々兄、何々姉と親しく呼べているとは思いますが、教会の外ではキリスト者であることを誇りに思っていますか。隠れキリシタンのようになってはいないでしょうか。今、ここで心を探ってみようではありませんか。12節を見てみましょう。2:12 「わたしは、あなたの名を/わたしの兄弟たちに知らせ、/集会の中であなたを賛美します」と言い、12節以降で著者は旧約聖書から三つの御言葉を引用し、主イエスが苦難を通して人間と一体になられたという恵みについて語ります。12節は詩編22編23節(新改訳、口語訳は詩篇22篇22節)からの引用です。 22:23 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。詩篇22編は重苦しい言葉で始まります。 22:1 【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】 22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。これは元々苦難の中に置かれたユダヤの民の叫び声でした。それを主イエスは十字架の道を選んだご自分に当てはめて、この御言葉を十字架で発せられたのです。開きませんが、マタイによる福音書27章46節、マルコによる福音書15章34節を後ほどお読みくだい。この重苦しい御言葉で始まった詩編22編は次第に神への信頼へと変わり歓喜と感謝で終わります。詩編22編の著者のダビデは自分一人のために神に感謝を捧げようとしたのではりません。むしろ、ダビデは神の御名を共に褒め称える兄弟がいたのです。口語訳聖書の22章の表題からわかります。 聖歌隊の指揮者によってあけぼののめじかのしらべにあわせてうたわせたダビデの歌 ダビデは共同体に属していたのです。これこそが主イエスの御心に他ならないのです。主イエスはご自身を兄弟と呼ぶものと共に神を褒め称え賛美してもらいたいのです。教会という共同体に加わって欲しいのです。旧約聖書からの引用は続きます。13節を見てみましょう。2:13 また、/「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、/「ここに、わたしと、/神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。13節には、イザヤ書8章17,18節から二箇所が引用されています。 8:17 わたしは主を待ち望む。主は御顔をヤコブの家に隠しておられるが/なおわたしは、彼に望みをかける。 8:18 見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である。「わたしは神に信頼します」、とあります。引用元は「わたしは、彼に望みをかける。」ですが、ユダヤの民は不信仰でした。しかし、イザヤはそのような中にあっても自分自身は神に徹底してより頼んでいました。著者はそれをキリストにあてはめ、民は不信仰でも、キリストは苦難の全生涯を通して死に至る迄、ただただ神に信頼したと語るのです。この神への信頼という点においても、「キリストは信仰者の立場で、キリスト者と等しいもの」だということがこの引用の主旨です。13節の後半に「ここに、わたしと、/神がわたしに与えてくださった子ら」とあります。引用元は「主がわたしにゆだねられた子ら」です。キリストと神が与えてくださった子らがここいるという意味です。キリストの臨在と共存を示しているのです。10節から13節に記されていることを逆に言えば、主イエスが苦難を受けないような状態で、この世にこられたら、人間とは異なった存在となり、その相違故に人間の救い主にはなることはできなかったと言えるのです。「神は人を救うために、人間の道を選ばれた」と言った神学者がいますが、この人間との一体化こそキリスト教の本質を現すものです。神にとって人間は特別な存在なのです。それは全ての被造物の中で、人間だけが神の姿に似せられて創られたからです。有名な箇所ですので開きませんが、創世記1章26,27節に記されています。主イエスは100%神であり同時に100%人間でした。一人の人間として周りの人間に接し、共に喜び悲しみ深い愛を注がれたのです。

②死から解放し、悪魔を滅ぼすために来られた

14節を見てみましょう。2:14 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、「子らは血と肉を備えている」とありますが、これは11節の「すべて一つの源から出ている」を言い換えたものと言えます。人間が血肉を備えているように主イエスも同じ血肉を備えるお方です。14節以降には人間を脅かし破壊する二つのことが記されています。先ず、「死をつかさどる者、つまり悪魔」です。悪魔は実在しますし、実に巧妙です。マタイによる福音書の16章にはペトロが悪魔にそそのかされてしまい、主イエスから厳しく注意を受けたことが記されています。見てみましょう。16:21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 16:23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」主イエスがこの世に来られた目的の一つは悪魔を滅ぼすことですが、悪魔の力を決して過小評価してはならないのです。悪魔は実在します。悪魔に対する無知は人間の生涯を破壊に至らせるものなのです。15節を見てみましょう。2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。人間を脅かし破壊する二つ目が、「死の恐怖」です。聖書が教える死には三種類あります。先ず、肉体の死です。次が霊的な死で神と離れている状態です。霊的な死のままいることが永遠の死です。マタイによる福音書25章46節を見てみましょう。マタイ 25:46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」キリストは人間を滅びに至らせないために、神と離れてしまって霊的な死の状態を救うためにこられたのです。人類の救済をするためにこの世に人間として来られたのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことはキリストは死から解放し、悪魔を滅ぼすために来られたということです。

③御言葉は正しく使う

16,17節を見てみましょう。2:16 確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫を助けられるのです。2:17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。このヘブル書の講解説教の初回でもお話をしましたが、天使も罪を犯します。堕天使の頭がサタンですが、主イエスは「天使たち」ではなく「アブラハムの子孫」、つまり罪びとである人間を救うために来られたことがこの箇所からわかります。それは、また主イエスは天使の形ではなく人間の形としてこの世に来られたとう事実から裏打ちがされます。憐れみ深い、忠実なとあります。「憐れみ深い」とは報酬を求めずに相手を愛することです。「忠実な」には神が約束を忠実に守るという場合と僕が主人に忠実に従うという両方のケースにあてはまります。主イエスにはこのようなご性質があるのです。そして、主イエスは私たちが何を求めているか、何を悲しんでいるのか、どんな誘惑を受けているのかを全てご存じなのです。続いて、「大祭司」とあります。キリストが「大祭司」であることは5章以降で詳しく学んでまいりますが、この手紙を理解するためのキーワードです。旧約の時代、「大祭司」は年1回贖い日に至聖所に入り、民を代表して、生贄を捧げ、ユダヤの民(当時はイスラエルの民)の罪の贖いをしていた人のことですが、この手紙の 7:28 には次のように記されています。7:28律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。主イエスこそ旧約の祭司の完成者であり、真の大祭司なのです。ハイデルベルグ信仰問答には「わたしたちの唯一の大祭司」とあります。18節を見てみましょう。2:18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたから」とありますが、主イエスも私たち人間と同様に悪魔から試みに遭いました。ルカによる福音書4章1-12節及び並行箇所に記されています。その時、主はどのように誘惑に打ち勝つことができたのでしょうか。御言葉です。主イエスは三度の悪魔の試みに対して全て御言葉を持って打ち勝ちました。最後の御言葉が使われた場面を見てみましょう。ルカ 4:10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』 4:11 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」 4:12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 4:13 悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。悪魔は御言葉を使い主イエスを試みます。この10,11節は詩編91編11,12節のからの引用ですが、悪魔は御言葉を意図的に歪曲しました。後ほど、どこが歪曲されているか確認をしてください。それに対して、主イエスは申命記の御言葉を正しく使い悪魔を退けたのです。6:16 あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。『あなたの神である主を試してはならない』悪魔は最終的にはキリストによって滅ぼされます。そのことは黙示録20章に記されていますので、お読みください。しかし、悪魔はそれまでの間存在し続け、私たちを堕落させようと攻撃をするのです。悪魔の誘惑に打ち勝つ秘訣は御言葉です。今日、最後に覚えて頂きたいことは御言葉は正しく使うということです。悪魔のように自分の都合の良いように捻じ曲げてはならないのです。

Today’s Point➀私たちの兄姉(きょうだい)、②死からの解放し、悪魔を滅ぼすために来られた、③御言葉は正しく使う

Thinking Time弟妹(きょうだい)と呼んでくださる主にどのように応えますか