• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2022年8月14日主日礼拝

説教題 イエスが神の愛を保証した 聖書箇所 ヘブライ人への手紙7章20-28節

7:20 また、これは誓いによらないで行われたのではありません。レビの系統の祭司たちは、誓いによらないで祭司になっているのですが、7:21 この方は、誓いによって祭司となられたのです。神はこの方に対してこう言われました。「主はこう誓われ、/その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である。』」7:22 このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。7:23 また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。7:24 しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。7:25 それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。7:26 このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。7:27 この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。7:28 律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。

ハレルヤ!8月の第二主日を迎えています。私たちの教会ではヘブライ人への手紙を講解で学んでおり、今日はその12回目です。先週は7章1-19節を通し、「新しい制度で生まれた大祭司」と題し三つ事を中心にお話をしました。➀メルキゼデクはキリストの予型、②キリストはアブラハムに勝る、③福音がもたされたでした。今日は、続く7章20-28節を通し、「イエスが神の愛を保証した」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。

➀イエスが神の愛を保証した

20節から見てみましょう。7:20 また、これは誓いによらないで行われたのではありません。レビの系統の祭司たちは、誓いによらないで祭司になっているのですが、「これは」とあります。「これ」は19節の「もっと優れた希望がもたらされました。」、つまり大祭司キリストのことです。「誓いによらないで行われたのではありません。」とあります。これ二重否定ですので、意味は誓いによって行われたのです。つまり、キリストが大祭司になったのは誓いによるものなのです。キリストとアロン系祭司の違いの一つは、キリストの場合には神の誓いによるものだったのです。この手紙の6章18節で学びましたが、神がご自分の言葉に誓いをかけたという二重のものだったのです。一方、アロン系祭司には神の誓いはなく律法のみに基づいていたのです。21節を見てみましょう。7:21 この方は、誓いによって祭司となられたのです。神はこの方に対してこう言われました。「主はこう誓われ、/その御心を変えられることはない。『あなたこそ、永遠に祭司である。』」著者は21節の後半で、メルキゼデクとアロン系祭司との比較の主題とも言える詩編110編4節を再度引用します。詩編110:4 主は誓い、思い返されることはない。「わたしの言葉に従って/あなたはとこしえの祭司/メルキゼデク(わたしの正しい王)。」主が誓って証をされたものなのです、メルキゼデクが主の権威によって建てられていることを表しているのです。22節を見てみましょう。7:22 このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。「このようにして」とあります。人間が証言をする場合、信頼性を求められるため宣誓をします。一方、神は十分に信頼に足るので、本来は誓いなどする必要はないのですが、あえて誓いをするのにはその事柄が特別に重要な意味を持っているからなのです。神の誓いによって「イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。」イエスが祭司であることは御心にかなったものであること強調しているのです。「イエス」とあります。主ではありません。前にも申し上げましたが、イエスという呼称が使われる場合、一人の人間であるイエスを強調するために使われます。それは、この箇所では、「保証」と密接な関係があるからです。それは保証となるには完全に人間である必要があるからです。「契約」についてはこの手紙の8,9章で詳しく学びますが、この契約は私たちの日常生活の契約とは異なります。例えば、部屋を借りる際に結ぶ賃貸契約を考えてみましょう。この契約を結ぶ両者の立場は対等で、一方が契約を破れは反故になってしまいます。この契約を法律用語では双務契約と言います。旧約時代のシナイ契約とは律法を守るのであればユダヤの民は神との交わりに預かれるというものでしたが、律法は守ることができませんので、律法が破られるたびに祭司は動物を生贄として捧げることによって神との交わりを回復していたのです。しかし、神の御子である主イエスがご自身を永遠の生贄として十字架の上に捧げてくださったことにより新しい契約が成立したのです。古いシナイ契約より優れているのは、繰り返し動物を生贄として捧げる必要がなくなったこと。そして、なによりも罪なき神の御子がご自分の命を捧げられたという事実において成立したという点です。十字架上で犠牲の生贄となるために主イエスは人間として生まれる必要がありました。主イエスは贖いの御業、十字架上の死をもって新しい契約を保証したのです。神はこの契約を破られることはありません。ですから人間同士の契約とは決定的に異なるのです。イエスは契約を保証しました。つまり、イエスが神の愛を保証したのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはイエスが神の愛を保証したということです。

②主イエスは永遠の大祭司

23節を見てみましょう。7:23 また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。「レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがある」とあります。人間は必ず死にます。いつの日か肉体は朽ち果てるのです。この手紙の9章27節には次のように記されています。 9:27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、初めの大祭司であるアロンと指導者モーセはイスラエルの民をエジプトから導き出し荒野を四十年間さまよいます。アロンは約束の地であるカナンを前にしながらも、不信仰ゆえに入ることが出来ずホル山で死を迎えました。その時、神はアロンが着ていた大祭司の服を脱がせて、それをアロンの子エルアゼルが着るように告げ、エルアゼルが大祭司の職務を引き継ぎます。民数記20章25,26節を見てみましょう。20:25 アロンとその子エルアザルを連れてホル山に登り、 20:26 アロンの衣を脱がせ、その子エルアザルに着せなさい。アロンはそこで死に、先祖の列に加えられる。」やがて、エルアゼルがカナンで死ぬとその子ピネパスがその職務を引き継いだのです。このように旧約の時代、大祭司は世襲ですから多くの人たちが祭司に任命され」ていたのです。24節を見てみましょう。7:24 しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのですイエスは永遠に生きている」とあります。イエスは十字架の上でお亡くなりになりましたが、三日後に復活され今も生きておられるのです。ですから、主イエスは「変わることのない祭司職」、永遠の大祭司なのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは主イエスは永遠の大祭司ということです。そして、今も生きておられる大祭司がしていることが25節に記されています。7:25 それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。主イエスは大祭司として「人々のために執り成しておられる」のです。このキリストの執り成しとは具体的にどうゆうものでしょうか。そのことがイザヤ書に預言されています。イザヤ53:10-12を見てみましょう。イザヤ53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。53:11 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。この預言から明らかなように主イエスの執り成しの祈りとは、十字架上の苦しみと死に基づいたものなのです。そしてこの祈りは今日も私たちのためにしてくださっているのです。主イエスと公生涯の内にお会いしたかったという方がいます。主エスを直接訪ねて問題を解決して頂けるからです。しかし、良く考えてみれば今の私たちの方がメリットがあるのではないでしょうか。主イエスを訪ねる必要がないからです。2020年のデーターですが携帯電話の普及率は96%だそうです。大変便利な世の中になりました。いつでもどこでも連絡が出来ます。それでも、話し中で通じなかったり、バッテリー切れや何らかのことが原因で不通になったりすることがあります。先日も、ある通信会社で大規模な通信障害が起こり復旧に一日半近くかかったこともありました。しかし、主イエスには電話中も通信障害もないのです。直ぐに通じるのです。今も生きておられる主は、私たちの身近にいてくださり、私たちのために執り成しをしておららえるのです。24時間、365日、電話に出てくださいます。休日はなく、真夜中でも大丈夫です。神は寝ることがないからです。詩編 121編4節に記されている通りです。 121:4見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。また、私たちがどんな状態でも、どこからでもかけられます。詩編130編1 節を見てみましょう。【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。勿論、神の電話回線は無限ですし、通話料は無料です。そして、神からの答えは、どんな問題にでも人智をはるかに勝る問題解決を与えてくださるのです。ですから、25節に御自分を通して神に近づく人たちを、」とあるように、私たちの側から積極的に主イエスを通して神に近づいて構わないのです。ためらう必要はないのです。神に近づくためには先ず、主イエスに近づくのです。そうすれば、主イエスが神に取り次いでくださり、主は私たちを「完全に救うこと」ができるのです。大祭司キリストがその職務を永遠にまっとうされているので、私たちは完全に救われるのです。このことがわかると私たちはキリストによらなければ救われないことが確信でき、キリストによって救われない者はいないという確信も与えられるのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは主イエスは永遠の大祭司ということです。救われるのは早いに越したことはありませんが、いつでもその時が備わっているのです。いつでも救われる時は満ちているのです。まだ、主イエスを救い主と受け入れていない方は是非、受け入れて永遠の命を得てください。時は満ちているのです。24節に「変わることのない」とありました。この言葉は原語はで「犯すことができない」という強い意味があります。例えばある裁判官がこの言葉を使った場合にはその判決は決して覆されることはないのです。イエスキリストの祭司職、人を神に近づけるイエスの力は普遍です。ヨハネによる福音書には次のように記されています。 14:6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。イエスより優れた者はなく、イエスにかわる者もなく、主イエスこそ、とこしえに至るまで神に近ずく唯一に道なのです。26節を見てみましょう。7:26 このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。「もろもろの天よりも高くされている」とあります。この手紙の4章14節には「もろもろの天を通過された」とありましたように、これは当時のユダヤ人の伝承です。天は七層に重なりあっていると考えられていて、復活されたキリストはその天を通って最高の地位である神の右に座したと伝えられていたのです。

③燔祭の動物はイエスの予型

27,節を見てみましょう。7:27 この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。「この方」、「このいけにえ」とありますが、人間イエスのことです。この箇所の背景にあることは「大贖罪日」です。一年に一回の全てのユダヤの民が犯した罪が贖われる日で、大祭司はこの日に最高の職務を果たしていました。詳しくは後ほど、出エジプト30:10、レビ16:2-20を読まれてください。28節を見てみましょう。7:28 律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。アロン系の大祭司は「弱さを持った」人間ですから罪を犯します。罪びとの一人に過ぎません。開きませんが、ローマ3:23、ガラテヤ3:22を後ほど読まれてください。大祭司は「大贖罪日」に特別の衣装をまとい至聖所に入るのですが、罪人ですので、他人の執り成しを行う前に先ず、自分の罪を清めるために燔祭を捧げる必要がありました。しかし、主イエスは異なります。26節を見てみましょう。「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され」とあります。主イエスは「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され」たお方ですので、自分の罪を清めるための燔祭を捧げる必要はないのです。旧約時代に繰り返して行われていた祭司による燔祭は来るべきお方であるキリスト・イエスの予型でした。旧約時代の動物の燔祭は主イエスの十字架による罪の贖いを指示していたのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは燔祭の動物はイエスの予型ということです。律法は人間を立てて大祭司にしましたが、福音は御子を立てて永遠の大祭司としたのです。ここに決定的な差があるのです。主イエスがとこしえまで、奉仕とも言える執り成しという業を私たちのためにしてくださっているのです。感謝としか言いようがありません。

Today’s Take-away

➀イエスが神の愛を保証した、②主イエスは永遠の大祭司、③燔祭の動物はイエスの予型

Thinking Time

どんな時も主イエスに電話をかけていますか