• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年10月22日主日礼拝

説教題:召されたままの状態で~永遠の祝福に目を向けよう~

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一7章17-25節、36-38節

◆主が定めた生き方 7:17 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。7:18 割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。7:19 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。7:20 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。7:21 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。7:22 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。7:23 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。7:24 兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。7:25 未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。7:36 もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。7:37 しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。7:38 要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。

ハレルヤ!10月の第四主日を迎えました。私たちの教会では、コリントの信徒への手紙一を講解で学んでいて、今日はその14回目です。前回のおさらいから始めましょう。7章1-16節から「結婚について~恩寵は滅びに勝り、信仰は不信仰に勝る~」と題し三つの事を中心にお話をしました。①結婚は愛し合い仕え合う、②各自で主の業に励むことを考える、③恩寵は滅びに勝ち、信仰は不信仰に勝つでした。今日は続く7章17-25節、36-38節を通し、「召されたままの状態で~永遠の祝福に目を向けよう~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。パウロは7章に入ってから結婚と離婚の問題を論じ続けてきました。独身者に対してはそのままでいることが良いと勧め、未信者と夫婦の関係にある者に対しては離婚すべきではないと勧めてきました。その根底には、キリスト者にとって結婚は人生最大の目的ではありません。独身でいるよりも結婚をすることで主に栄光を帰すことができる場合に結婚をするのです。結婚をすることによってそのことに支障がでるとすれば結婚をすべきではないというのです。これがパウロの結婚に対する考え方です。勿論、これは堕落しきったコリントの街を念頭に入れてのことです。

①日々の歩みで主の栄光を現わす。

17節から順番に見て参りましょう。7:17 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。「おのおの主から分け与えられた分に応じ」とあります。各自は主から与えられた賜物に従って生きるべきであり、自分自身が望むままに生きるべきではないのです。キリスト者は「神に召されたときの」状況に留まるべきと勧めます。神の召しは、召された者をその状況から引き裂きません。この原則を先ず、結婚にあてはめました。やむを得ない場合を除き離婚するような生き方はすべきでないこと、そして、神より賜った現在の地位や職務を尊び、そこに使命を自覚して生きるべきであることを「すべての教会でわたしが命じている」のです 「歩みなさい。」とありますが、歩むとは日常生活を意味します。キリスト者は時に非日常的な場面に遭遇する場合もあるかもしれませんが、これはあくまでも非常時です。大事なことは日々の平凡とも言える生活の中で神の栄光を現わすことなのです。神のみ旨に従って歩むことです。今日、先ず覚えて頂きたいことは日々の歩みで主の栄光を現わすということです。そのことが伝道にもなるのです。

②召されたままの状態でいる

18-20節を見てみましょう。7:18 割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。 7:19 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。7:20 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。18節から突然話題がかわります。突然話題がかわることは長文のパウロ書簡でしばしばあります。コリントの信徒への手紙一は新共同訳で約7200文字と言われています。400字詰の原稿用紙でしたら18枚以上ですので、記し忘れた大事なことを思い出した時点で書いたのでしょう。18節以降では割礼という民族の慣習の問題と奴隷という問題を取り上げて、キリスト者としての生き方を語ります。割礼」とありますが、パウロは結婚問題から進んで、割礼に関しても召されたときの状態に留まることを述べています。ユダヤ人は幼い時に割礼を受けます。割礼はユダヤ人の印そのものだからです。既に、ユダヤ人は世界中に散っていて、ギリシャ人やローマ人と一緒に生活する人も多くいました。彼らの中には公衆浴場を利用するとき等に、割礼の傷を見られることを恥ずかしいと思い、傷跡を消そうとしていた人たちがたのです。そのような人に対し、「割礼の跡を無くそうとしてはいけません。」と語るのです。ユダヤ人として生まれたことも神の賜物なのです。「召されたときの身分に」留まることで良いのです。後半に「割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。」とあります。ユダヤ的な考えをもったキリスト者、ユダヤ人でない者がキリスト者になる場合、割礼を受けてユダヤ人のようになってからでなくてはならないと主張した人たちがいました。パウロはこの考え方に徹底抗戦しています。パウロは人が救われるのはイエス・キリストを救い主として信じる信仰のみだとゆるぎなく確信をしていました。今日の神学用語で言えば信仰義認です。ですから、割礼を受けなければ救われないという考え方は断じて容認が出来ないのです。それは主イエス・キリストの十字架による贖いを冒涜することに繋がるからです。パウロは異邦人でクリスチャンになった人々に対しても、異邦人として生まれたこともこれもまた神の賜物であると説き、そのままの状態でいるように語っているのです。「召されたときの身分に」留まることで良いのです。その理由が「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。」と記されている通りなのです。割礼についてパウロはガラテヤの信徒への手紙でも次のように記しています。 6章15節を開いてみましょう。 6:15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。イエス・キリストに在って生まれ変わった者は主の御心を行うことが大事なのです。割礼の有無は問題ではありません。21節を見てみましょう。7:21 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。「奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。」とあります。割礼の有無と同様に奴隷の身で「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。」と勧めています。この箇所を読むとパウロは奴隷制度に賛成していたのではないかと思うかもしれませんが、そうではありません。実際、パウロを非難する神学者がいないわけではありませんが、当地、ローマ帝国は奴隷制度の上に成り立っていたのです。豪農や金持ち、身分の高いい人、などはなん百人もの奴隷を抱えていたのです。奴隷を抱える者、そうでない自由人、奴隷の身分であるものが同じコリントの教会に集っていたという事実を踏まえたパウロの教えなのです。パウロも時代の子です。奴隷制度が社会の当然の時代であった時代にパウロは生きていたのです。その理由が続く22,23節です。見てみましょう。7:22 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。7:23 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。「主によって召された奴隷」、奴隷の身分であるキリスト者は「主によって自由の身にされた者」であり、「キリストの奴隷」だからです。イエス・キリストの十字架という「身代金を払って買い取られた」ているのです。ですから、人間の奴隷という立場であってキリストに在って自由の身とされているので「召されたときの身分に留まっていれば良いのです。」たしかに教会の外では身分などの差はあるかもしれません。しかし、教会の中では、キリストの前にすべての人は差別されることはないとパウロは語るのです。パウロはこの考え方を自ら実行をしました。そのことがフィレモンへの手紙に記されています。要約をします。フィレモンへの手紙は、パウロが投獄されているときに、友人であり信仰の兄弟でもあるフィレモンに宛てた個人的な手紙です。パウロは、投獄中にフィレモンの奴隷だったオネシモと出会いました。オネシモは、何か悪いことをしたのでしょう。主人フィレモンの家から逃亡をしていたのですが、パウロは彼をキリストに導きました。パウロはオネシモをフィレモンに返すことにしましたが、彼を奴隷ではなく、愛する兄弟として受け入れてほしいと頼みました。この手紙は、パウロの愛情と説得力に満ちたものであり、寛容さと平等さを示すものです。オネシモの名前は「有益、利益」を意味するオネシーシスに由来します。オネシモはフィレモンの奴隷で、フィレモンの家から逃走した「無益な者」でしかなかったのですが、今や主にあって、その名の通り「有益な者」にかえられたのです。奴隷の存在が当たり前で、奴隷は人格を全く認められていなかった時代にパウロはオネシモのことを「監禁中にもうけたわたしの子」、「わたしの心」と呼び、「奴隷以上の者、つまり愛する兄弟」として扱って欲しいと依頼しています。フィレモンへの手紙10,12,16節を開いて見ましょう。 1:10 監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。  1:12 わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。  1:16 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。パウロは決して奴隷制度に賛成をしていたわけではなかったのです。大正・昭和にかけて活躍したキリスト教社会運動家の賀川豊彦先生はフィレモンの手紙の講解書に「奴隷解放の書」という表題を付けています。24節を見てみましょう。7:24 兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。24節は20節で語ったことをほぼ同じ言葉で繰り返し強調しています。今日、二番目に覚えて頂きたいことは召されたままの状態でいるということです。注して頂きたいことは、身分や状態はそのままでよいということであって、霊的成長は必要です。

③永遠の祝福に目を向ける

25節を見てみましょう。7:25 未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。26節以降、少し話がずれます。冒頭にもお話しましたが話題が突然かわることは長文のパウロ書巻にままあります。今日は25節と36-38節に記されている「未婚の人たち」についてお話をします。「未婚の人たち」と訳されていますが、同PPT口語訳聖書では「おとめのこと」、新改訳聖書では「処女のこと」と訳されています。結婚的適齢期の女性についての質問があったのです。そのことについてパウロは「主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。」というのです。「主の憐れみにより信任を得ている者」とは使徒の身分のことです。36節を見てみましょう。

7:36 もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。「ある人が自分の相手である娘に対してとあります。この「ある人」「自分の相手である娘」がそれぞれ誰を指すのかについて諸説ありますが、結婚を考えている男女と考えるのが妥当です。「情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまい」とあります。コリント教会の中には結婚をしても、夫婦の交わりを否定する人々がいたのです。人間の欲望は汚れたものであり、制御すべきものだという考えで、霊的で純潔な結婚生活を主張する人々がいたのです。過度のストア派の禁欲主義の影響です。しかし、パウロは「それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。」と勧めています。キリスト者も人間としての自然な生活を営むべきなのです。人間の本能を否定すべきものではありません。キリスト者もありのままの姿で生活をすればよいのです。ありのままの生活を通し、主の栄光を現わすのです。カトリック教会では原則として神父、司祭の結婚が禁止されていますが、マルチンルターは宗教改革を通してカトリック教会の聖俗の区分を撤退し、自分自身も結婚をしました。カトリック教会はルターの結婚を堕落と攻撃しましたが、決して堕落したものではなく人間の自然な姿に立ち帰り、結婚生活を神の栄光のために捧げたのです。37,38節を見てみましょう。7:37 しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。 7:38 要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。「心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人」とあります。結婚適齢期の男性であっても決心が強く苦痛を感じることなく、性欲を自制出来るのであれば無理に結婚をする必要はありません。38節は「未婚の人たち」について結論です。パウロは信者の自由を拘束せずに尊重しているのですが、個人的な意見では「相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。」と締めくくっています。今日学んできたパウロの考え方の根底がこの手紙の7章29節前半から分かります。7:29a 兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。「定められた時は迫っています。」とあるように主の再臨への期待です。以前にもお話しましたが、パウロ書簡を読むとパウロが再臨を期待していたことが読み取れます。再臨は近い、だとしたら主の働きのために妻子がいるよりも独身の方が動きやすいとパウロは思っていたのです。そして、もっと大事なことは地上における既婚・未婚、割礼・無割礼、奴隷・自由の身という立場の違いなど御国で与えられる永遠の祝福と比べたら取るに足りないことなのです。ですから、「おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。」と語るのです。今日、最後の覚えて頂きたいことは永遠の祝福に目を向けるということです。

Today’s Takeaways

①日々の歩みで主の栄光を現わす、②召されたままの状態でい、③永遠の祝福に目を向ける

Thinking Time 過度の禁欲主義になってはいません