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2023年10月8日主日礼拝

説教題:新しく生まれる~ニコデモとの対話~ 聖書箇所:ヨハネによる福音書3章1-21節

◆イエスとニコデモ  3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

おはようございます。前回、7月にはヨハネによる福音書2章13-25節から「宮きよめ」と題して三つのポイントをお話ししました。①霊と真をもって真心から礼拝を捧げよう ②私たちは聖霊の宮、神の神殿 ③信仰の成長を求めよう また、「神様に喜ばれる礼拝をささげるためにどうするか」考えていただきました。2章では、カナの婚礼で水を葡萄酒に変え、最初のしるしを行いました。それから宮きよめをし、形式的になってしまっていた神殿礼拝を止めさせ、新しい礼拝に変えていく先駆けとなりました。また多くのしるしを行いました。これらはイエス様がメシヤであることのしるしです。多くの人々はそのしるしを見てイエス様を信じましたが、それはまだまだ薄っぺらな信仰でした。イエス様は、人の心の中をご存知なので、彼らをまだ信用されませんでした。今までを大勢を相手とする大衆伝道とするならば、3章からはニコデモやサマリヤの女を相手とする個人伝道になります。

①新しく生まれなければ(新生)、神の国を見ることはできない

今朝は、イエス様とニコデモの対話から見ていきましょう。3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」ここからニコデモとの対話が始まります。彼はファリアイ派の一人でした。ファリサイ人と聞くと、イエス様に反発した偽善者と言う悪いイメージが強いですが、もともとはユダヤ教の一派で律法を厳格に守り、細部に至るまで忠実に守ることで、神の正義の実現を追求した、非常にまじめな集団です。しかし表面的に律法を守るだけで、神の御心からは離れ、形式主義となり偽善に陥っていました。ニコデモはそのファリサイ派で、ユダヤ人の指導者でした。またサンヘドリン(最高法院)の一人です。これはローマ帝国支配下のユダヤにおける最高裁判権を持った宗教的・政治的自治組織で、71人の祭司や長老、律法学者から構成されたエリート集団です。彼の年齢ははっきり分かりませんが、年を取っていたことがわかります。ですから十分な社会的立場もあり、人々から尊敬されていたでしょう。その人が夜イエス様を訪ねたのは、立場上人目を忍んでこっそりと来たのでしょう。当時は、メシヤが来るときには偉大な神の力をもってユダヤの国をローマから復興させると信じられていたので、先ほどあったように、イエス様のしるしを見て多くの人々が信じました。ニコデモもそれらのしるしを見て、イエス様に会いたいと思ったのでしょう。ニコデモはファリサイ派として厳格に律法を守り、指導者として教えてきたわけですが、神の国に入れるという確信がなかったのでしょう。旧約聖書を教え、人々から尊敬されていたので、今更聞けないが、しかし知りたいとう霊的渇望があって、恥を忍んで若いイエス様を訪ねたのでしょう。このように霊的渇望は大切と思います。まだ信仰をもっていない方にとっては、本当に神はいるのだろうか。天国はあるのだろうか、これは永遠を決める大切な問いですから、真剣に求めることです。クリスチャンにとっては、もちろん神様を信じています。でももっと神様を知りたい、目の前の問題に勝利したい、もっと神様の祝福の中を歩みたい、神の栄光を現したい、と言う霊的渇望を持って、神様に近づこうではありませんか。イエス様は霊的な意味での新生(新たに生まれること)を言われたのに、ニコデモは肉体的な誕生としか受け取ることができず、ちんぷんかんぷんなことを言っています。律法を守ることのみに力を入れ、神の御心からかけ離れ、形式的になってしまっていた、当時のファリサイ派の霊的貧さがわかるのではないでしょうか。3節に「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」とありましたが、「新たに生まれる」と言う言葉は、時々一般社会でも使いますね。たとえば「新しく生まれ変わった気持ちでやり直します」と言いますね。これは人の努力によって、心を入れ替え、初心に帰って頑張ります、と言うことですが、ここで使われている「新たに」は、「上から、つまり神によって」と言う意味です。一切の人間の努力によるのでなく、完全に神様によって、上から与えられ、変えられるものなのです。人間誰でも、母の胎から生まれますが、更に、上から神によって新たに生まれ、霊的に変えられるのです。神の国に入るにはそのように、新たに生まれなければならないと言うのです。更に3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。水と霊によって生まれる」のだとイエス様は言われました。この箇所は難しく「水と霊」は何を意味するのか、いろいろな解釈がありますが、コリントの信徒への手紙一12章3節の後半には次のように記されています。 12:3b聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。このようにイエス様を救い主と信じて救いをいただく事ができるのはまさに聖霊の働きなのです。それでは「水」は何を意味しているのでしょうか。いろいろありましたが、私はこの解釈で納得しました。エペソ5章26節には「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、」(新改訳改訂第3版)とみことばが水の洗いを示しています。水はみ言葉を現していると取ることもできます。み言葉によって、神の御心がわかり、御霊によって悔い改めに導かれ、イエス様を信じて新しく生まれ、神の国には入れるということかと思いますが、天国でイエス様に聞いてみたい箇所です。確かにこの曲がった悪い時代の中で、サタンの誘惑に負けないで、天国を目指して歩んでいくためには、正しい道を示す神様のみ言葉と、聖霊の助けが必要なことは間違いありません。3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」普通の出産によって生まれた全ての人間は、アダム以来、罪を持ったままです。創造主であり、真の父である神を知らず、迷い子のように、また自己中心に生きています。それを肉と言っています。しかしその人間が聖霊によって、イエス様を信じ救われ、霊の人に変えられ、神様中心な生き方ができるように変えられていくのです。コリントの信徒への手紙二には次のように記されています。 5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。水と霊によって新しく生まれ変わり、キリストにある者とされた人は、過去の罪や弱さが赦されて、新しくされた者なのです。救われたらから完全に罪を犯さなくなるわけではありませんし、弱さもありますが、内にいてくださる聖霊が悔い改めに導き、常にキリストにあって新しい者、キリストに似た者へとされ続けていくのです。キリスト教信仰とは、自分で頑張る宗教ではありません。神様が成長させてくださるのを信じることです。ニコデモはこのことに驚きました。なぜならファリサイ派の教えでは、律法を守ると言う人間の努力によるものだったからです。そこでイエス様は、ニコデモに分かるように話します。聖霊は目に見えませんので、聖霊を風に例えました。風は目に見えませんが、木が揺れていたり、洗濯物が揺れていると、風が吹いていることがわかります。また時には台風のように、恐るべき大きな力を持っています。どこからきてどこへ行くか分かりません。そのように聖霊も目には見えませんが小さなところで、また時には大きな力をもって確かに働いて、人を救いへと導いてくださっているのです。一つの証をします。1947年今から76年前、87歳で亡くなったイギリスのメソジスト派の伝道者ロドニー・スミスの話です。アバデーンと言う街の暗黒街で伝道集会を持ったある晩の帰り道、彼の上着の後ろをしきりにひっぱる者がいました。彼は闇夜に立つ売春婦と思い、知らん顔をしてどんどん行こうとしましたが、さらに強く引っ張るので仕方なく後ろを振り向くと、そこには貧しい身なりをした娘が手に何か持って立っていました。「何か御用ですか」と彼は優しく尋ねました。娘は「先生、このお菓子を先生に差し上げたいの」「どうして?」と聞くと、「先生、私の家に新しいお父さんが来たからです」「新しいお父さんですって」「そうなんです、今までのお父さんはいつも酒臭く、乱暴で怠け者で自分勝手な人でした。でも先週の土曜日から全く違うんです。うちのお父さんは先生の集会に出てイエス様を信じてから、まるっきり違う人になりました。私たちとっても幸せになったのです。」ドロニー・スミスは、静かに娘の差し出すお菓子を受け取った。聖霊には、人をまったく変える力があるのです。今日の一番目のポイントです。①新しく生まれなければ(新生)、神の国を見ることはできない あなたは新しく生まれましたか。肉のクリスチャンではいけません。クリスチャンは新しく生まれた者として、更に神様に近づけるように。まだ信仰をもっておられない方は、新しく生まれ、神の国に入れていただけるように、求めていきましょう。そのためには神様の御心がわかる聖書を読み、助け主である聖霊の導きを求めましょう。

②もっと深く十字架の愛を知らせて頂こう

3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。 3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。「新生」新しく生まれ変わることは実際にこの地上で起こることです。この地上で起こることを話しても理解できないのならば、どうして天上のこと、神の御心について理解することができるだろうか。イエス様は、霊的なことを理解できないニコデモにあきれて、今度は彼にでも理解できるように、旧約聖書から例えを話しました。それが民数記21章4-9節です。◆青銅の蛇  21:4 彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、 21:5 神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」 21:6 主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。 21:7 民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。 21:8 主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」 21:9 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。エジプトで奴隷だったイスラエルの民は神に祈り、出エジプトをして約束の地を目指し荒野を旅します。その途中、神様はいつも共にいて、必要を備え、危険から守り、導きますが、イスラエルの民は神様に向かって不平不満をつぶやきます。神は毒蛇をおくり彼らを裁きます。毒蛇にかまれた者は死んでしまいました。民はモーセのもとに来て、自分たちの罪を悔い、蛇を取り去ってくださるように主に祈ってほしいと懇願します。モーセが神に祈ると、青銅の蛇を竿の上に掲げなさい、すべてかまれた者がその蛇を仰いで見るならば、生きると言われました。そのようにした者は死なずに済んだのです。なぜ青銅の蛇を仰ぎ見た者は生きることができたのか分かりませんが、事実疑わずに、信じて、神の言葉に従った者は生きたのです。旧約聖書の先生ですから、ニコデモはこの出来事をよく知っていました。イエス様はこの出来事をニコデモに思い出させました。3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。青銅の蛇を仰ぎ見た者は生きることができました。それと同じように、イエス・キリストは罪人のために十字架にかかり、罪の罰を身代わりに受けてくださいました。そのキリストを信じ仰ぎ見るならば、誰でも救われるのです。信じる者は皆、イエス・キリストによって永遠の命を得ることができるのです。16節は聖書の中の聖書と言われるほど、最も大切なエッセンス、神の愛が凝縮されています。神様は、ご自分に逆らい、自分勝手な生きたかをしている罪人を愛して、救うために、なんとご自分の愛する独り子を、罪の呪いの身代わりとして、十字架にかけ殺しました。本来ならば罪人である私たちが受けるはずの呪いです。全く罪のない神の独り子のイエス・キリストが、人間の罪を一人で受けて死なれたのです。それは、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。何という愛でしょうか。人間にはまねのできない真の愛です。今日この世界では、自分の幸せ、自分の喜び、自分の快適さ、自分のために、奪い合う世界です。戦争はそのために人の命まで奪います。しかし真の愛は与えるものです。神様は私たち人間を何とか罪の滅びから救いたいと願って、愛する一人子の命を犠牲にし、私たちに救いを与え、永遠の命を与えて下さったのです。こんなに大きな愛はありません。本当にこの愛がわかったならば、ただただ感謝して、主を信じ愛して従っていきたいと思うのではないでしょうか。けれども自分を見るならば、なんと不平不満、つぶやきの多いことかと思います。でも弱さがあってもよいのです。なかなか従っていくことができない頑固な自分であってもよいのです。だからこそ、悔い改めて、聖霊の助けを求めます。もっとこの十字架の恵み、神様の深い愛を知らせてもらいましょう。私たちは神の子とさせていただきました。私たちは神の子どもです。感謝しましょう。感謝は祝福への入り口です。つぶやくのを止めて、神様への感謝と賛美を口癖としたいです。今日の二番目のポイントです。②もっと深く十字架の愛を知らせて頂こう

③光の中を歩み続けましょう

3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」光とは何を意味するのでしょうか。ヨハネによる福音書には次のように記されています。 8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」イエス様は、私は世の光であると言われました。光とはイエス様ご自身のことです。光であるイエス様が、この地上に来てくださったのに、人々は光を憎み闇の方を愛したのです。皆さん、光と闇と、どちらが好きですか、と尋ねられたらほとんどの人は「光」と答えると思います。私もそうです。光は明るくて周りがよく見え、心地よいです。でもその光が自分の心の中まで深く照らして明らかにするとしたなら、正直、やめてくださいと言いたくなります。隠れた行いや、思いまで明らかにされることを、私たちは恐れるからです。「はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」とある通りです。3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」もともと私たち人間の中には、罪があるので、その部分が照らされて明らかにされることを恐れます。嫌います。密かにしまっておきたいのです。光として来てくださったイエス様は、その罪を示されます。それは本人にとっては苦しいことです。でも罪は滅びです。除くべきものです。丁度癌のように、そのままのしていたら死に至ります。治療が必要です。イエス様はその罪を許すために来てくださいました。罪を悔い改めて、信じるならば許されるのです。光の方に行きましょう。自分の罪が示されて苦しい時もありますが、それは恵みです。自分がこんなに汚れていたのかと気づかせていただいているのですから。汚れは洗ってきれいにしましょう。イエス様の十字架の血で洗えばよいのです。ヨハネの手紙一を開いてみましょう。1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。 1:8 自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。 1:9 自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。私たちは霊と心と体を持っています。霊的な存在です。なので霊なる神様と交わることができます。そこから豊かな命を頂きます。常に神と交わり、神の近くを歩みましょう。光の中を歩み続けていきましょう。今日の三番目のポイントです。③光の中を歩み続けましょう

イエス様は立派な社会的立場を持つ中でも、人目を忍んで夜訪ねてきたニコデモの心の深いところにある渇きを見抜いて、このように言われました。ニコデモは立派だと思いませんか。社会的立場があり、人々から尊敬されていた指導者、ニコデモ大先生だったわけですよ。とかく偉くなると自分の立場を守ろうとしてなかなか遜ることができなくなります。真理を求めようとする純粋な心がなくなります。多くのファリサイ派の人々がそうですよね。自分たちの立場を守ろうとして、結局はイエス様を十字架に追いやったのです。ニコデモも葛藤したと思います。でも自分の中にうずく、深い心の渇きを胡麻化すことができなかったのでしょうね。恥を忍んで正直に、若造のイエス様を訪ねてきたわけです。こういう人って素晴らしいと思いますね。なかなかできることではないと思います。その後のニコデモは変えられていきます。ヨハネによる福音書7,19章を見てみましょう。7:50 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。 7:51 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」祭司長やファリサイ派の人々は裁判にかけずにイエス様を罪に定めようとしましたが、ニコデモはイエス様をかばってそれに反対しました。 19:38 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。 19:39 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。 19:40 彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。 19:41 イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。 19:42 その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。何とニコデモはイエス様のご遺体を丁重に葬ったのです。その後のニコデモは、イエス様に従っていく人生を選んだと思います。多分ファリサイ派の指導者としての立場やサンヘドリンの名誉職を剝奪されたでしょう。今までの地位や名誉、収入もなくなっていったのではないでしょうか。しかしそれに勝る大きな喜びと確信の中を生き、ついに神の国に迎え入れられたことでしょう。私たちも地上では悩みがあります。しかしそれは必ず乗り越えられるものであり、一時的なものです。永遠の天を見上げましょう。「強く、雄々しくあれ」と主はエールを送ってくださっています。世の終わりまで共にいてくださる、勝利の主にますます信頼して、神の御心に従う歩みをしていきましょう。

今日のポイント

①新しく生まれなければ(新生)、神の国を見ることはできない、②もっと深く十字架の愛を知らせて頂こう、③光の中を歩み続けましょう

考えてみよう

十字架の恵み、神様の深い愛について、考えてみましょう。