• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年11月12日主日礼拝

説教題:「自由は愛ゆえに制約を受ける」聖書箇所:コリントの信徒への手紙一8章1-13節

◆偶像に供えられた肉 8:1 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。8:2 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。8:3 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。8:4 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。8:5 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、8:6 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。8:7 しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。8:8 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。8:9 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。8:10 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。8:11 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。8:12 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。8:13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

ハレルヤ!11月の第二主日を迎えました。私たちの教会では、コリントの信徒への手紙一を講解で学んでいて、今日はその16回目です。前回のおさらいから始めましょう。7章26-35,39-40節から「召されたままの状態で 其の二~主に結ばれて~」と題し三つの事を中心にお話をしました。①定められた時は迫っている、②ひたすら主にお仕えする、③主に結ばれているでした。今日は続く8章1-13節から「自由は愛ゆえに制約を受ける」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

コリントの教会の内部には色々な問題がありました。既に学んだように派閥の問題、不品行の問題、訴訟の問題、結婚の問題でした。今日、学ぶ8章には「教会と外部の問題」について記されています。地域社会の宗教との問題です。日本の神様は、「八百万の神(やおよろずのかみ)」と言われていますが、当時のギリシア人もゼウスの神、アポロの神など多神教で、それらの神々の神殿が多数ありました。写真は、ギリシア神話の女神「アテーナー」を祀るパルテノン神殿です。人々は神殿に参詣し、供え物、動物を捧げていたのです。動物の一部は切り取られ祭壇で焼かれ、残りは祭司のものとなり、動物を捧げた人に返されたり、市場に払い下げられたりしていたのです。ギリシアの神々はキリスト者やユダヤ教徒から見れば偶像にすぎませんが、そう思わない人がコリントの教会の中にいたのです。

①知らないことを自覚する

1節から見て参りましょう。8:1 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。市場に払い下げられた肉は一般の家庭にもまわってきます。これを食べても良いかという質問がパウロにあったのです。一部のユダヤ人は偶像に供えられた肉を食べれば偶像に汚されると決して食べませんでした。この考えはユダヤ人キリスト者に引き継がれていました。コリントの教会の人にはこの考えに賛同する人と偶像の神など存在しないのだから、供えられた肉を食べても全く問題がないと考え堂々と食べていた人がいたのです。「我々は皆、知識を持っている」という格言が引用されていますが、供えられた肉を食べている人たちの自負が現れています。供えられた肉を食べている人たちのことを知識派という場合があります。知識派の人たちの行動は間違ってはいませんし、パウロはそれを認めています。しかし、キリスト者が物事を判断する場合は知識だけではありません。愛が必要なのです。ですから、「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」とパウロは語るのです。人は知識に偏ると高慢になります。その結果、知識は団体生活において批判的になり破壊的になることさえあります。しかし、愛は人の徳を立て建設的なものなのです。2,3節を見てみましょう。8:2 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。8:3 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。知識と愛の対比が続いて描かれています。自分が「何か知っている」と自慢げに誇る人がいるとすれば、その人は軽薄そのものです。「知らねばならぬことをまだ知らない」とある通りです。「神を愛する人」とありますが、もっとも深い愛とは神を愛する愛です。神を愛する愛は「神に知られている」こと、神に愛されていることから始まり、この神を愛する愛から、人を正しく愛せる清い愛が生まれるのです。真の知識は愛によるものです。逆に言えば、愛のないところに真の知識はないとも言えます。奢り高ぶらず謙遜謙虚になり無知の知を覚えようではありませんか。今日、先ず覚えて頂きたいことは知らないことを自覚するということです。

②兄弟姉妹を躓かせてはならない

4-6節を見てみましょう。8:4 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。8:5 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、8:6 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。4節からいよいよ本論に入ります。恐らく4節に記されていることはコリントの教会の人からパウロに宛てられた手紙に記されていたでしょう。パウロはこの内容を是認します。「唯一の神以外にいかなる神もいない」とあります。真の神を知らない者は、様々な神を祭ります。偶像を崇拝したり神殿を建てたりしますが、キリスト者にとって真の神は天地万物を創造された唯一のお方なのです。コロサイの信徒への手紙には次のように記されています。開いてみましょう。 1:15 御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。 1:16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。異教徒が信じている神々や偶像などあり得ないことなのです。 7節を見てみましょう。8:7 しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。「この知識がだれにでもあるわけではありません」とあります。知識派の人とそうで無い人についての記述です。知識と信仰は必ずしも比例しませんし一致しません。過剰な知識が信仰の成長を妨げる場合もありますが、今日の聖書箇所に限って言えば知識派とは正しい聖書知識のある信仰の強い人、しかし、他者への配慮が欠ける人です。そうでない人とは聖書の知識が乏しく信仰に入ったばかりの人や信仰歴が長くても信仰の弱い人の意味で解釈をするとよいと思います。ですから、「ある人たちは」を「信仰の弱い人」と置き換えると意味がよくわかります。 8,9節、9節は口語訳聖書と一緒に見てみましょう。8:8 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。8:9 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。 8:9 しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。(口語訳)8,9節は、聖書を正しく理解し、信仰が強く偶像に供えられた肉を何とも思わず食べる人への勧告です。「神のもとに導くのは、食物ではありません。」とあります。肉を食べようが、魚を食べようが、野菜を食べようが食物によって神に導かれるわけではありませんし、また、信仰上の損得になるものでもありません。その人の自由ですが、「この自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。」とパウロは勧告をするのです。「弱い人々を罪に誘うことにならないように」の部分は口語訳聖書では「弱い者たちのつまずきにならないように」と訳されています。聖書の知識が正しく信仰の強い人が何でも食べるのは自由ではありますが、そのことで、信仰の弱い方を躓かせてはならないとパウロは語るのです。キリスト者はキリストにあって自由です。だからと言ってなんでもかんでも出来るわけではありません。既に学んだ通り、この手紙の6章12節の前半には次のように記されています。 6:12a 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。今日の聖書箇所でパウロは信仰の強い人にそうでない人のことを考慮して行動をしなさいと言っているのです。 10節をアライブ訳と一緒に見てみましょう。8:10 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。8:10あなたが、偶像への供え物を食べても別に害にはならないことを知っていて、神殿の食堂で食事をしたとしよう。それを、食べてはいけないと思っている人が見たら、どうだろうか。その人は、いつもそれは悪いことだと思っているのに、つい気持ちがゆるんで、偶像礼拝としてそれを食べてしまう。(Alive訳)「知識を持っているあなたが」とあります。「あなたがた」と呼び掛けていましたが、「あなた」と呼ぶことで一層これから述べることの重要性を訴えようとしていることが読み取れます。知識があり、信仰も強い方が「神殿の食堂で」何でも食べていたとします。このこと自体はその人の自由であり権利とも言えます。しかし、食卓を共にしている信仰の弱い方は内心嫌だと思っていて周りの目を気にして食べるかもしれません。「いつもそれは悪いことだと思っているのに、つい気持ちがゆるんで、偶像礼拝としてそれを食べてしまう。」とある通りです。 11節を見てみましょう。8:11 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。「弱い人が滅びてしまいます」とあります。自由だからといって自分がしたい放題に振る舞い、他者のことを顧みないのであれば、それはキリストがお示しになった愛ではありません。私たちの行動一つで未信者が躓いてしまうことも、信仰の弱い方が教会から離れてしまうこともあるのです。ある人にとって安全な物は別のある人にとって危険な物となりえるのです。神は私たち一人一人のことを良くご存じです。髪の毛の数をもご存じなのです。開きませんがマタイによる福音書10章30節を読まれてください。神はこのように私たち一人一人に心を留めていてくださいますが、悪魔も実に巧妙です。私たち一人一人にとって陥りやすい罠を仕掛けてくるのです。ある人には抵抗し得る誘惑でも、別のある人にはいとも簡単に陥ってしまう誘惑を仕掛けてくるのです。ですから、私たちの行動が自分に与える影響のみならず、他者に与える影響をも考えなくてはならないのです。一言で言えば配慮です。キリスト者が仏教の葬儀に行く場合のことを考えてみましょう。仏教の葬儀には焼香があります。焼香は偶像崇拝に他ならないのでけしからん。断じて容認が出来ないという方もいますし、信仰とは別に遺族の気持ちを考慮し、焼香は社会通念上のことと考え行う方もいます。私の場合は一目でキリスト者であることがわかる身なりで行きます。そのことによって焼香を避けています。ローマンカラーのシャツに大きめの十字架のバッチをつけていきます。礼拝でローマンカラーのシャツを着ないこともなくはありませんが、購入したメインの理由はご遺族の気持ちを考えつつも焼香をしないためです。私はそこまでしませんが、中にはカトリック教会のロザリオを身に着けて葬儀に行く牧師もいます。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。」とあります。キリストは自己の利益のために十字架に掛かられたのではありません。他者の利益のため、強者も弱者も全ての人類が永遠の命を持てるように犠牲となられたのです。ですから、どんなに弱い兄弟であっても尊ぶべきであり、食べ物のことで躓かせてはならないのです。ローマの信徒への手紙14章15節には次のように記されています。見てみましょう。14:15 あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。キリストは特定の人のために十字架に掛けられたわけではなりません。そのキリストに倣うものとさせていただきましょう。今日、二番目に覚えて頂きたいことは兄弟姉妹を躓かせてはならないということです。

③自由は愛ゆえに誓約を受ける

12節を見てみましょう。8:12 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。自分だけが自信に満ち得意になっていたとしても、「兄弟たちに対して」悪い感化を与えて躓かせ「彼らの弱い良心を傷つけ」たとしたら、それは罪を犯してしまったことに他ならないのです。また、そのことは「キリストに対して罪を犯すことなのです。」それは、先程も申し上げましたが、この弱い人々もキリストの十字架の対象だからです。 13節を見てみましょう。8:13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。13節はパウロの個人的な意見です。肉を食べること自体は個人の嗜好であり、悪い事ではありませんが、そのことで兄弟を躓けてしまうなら「わたしは今後決して肉を口にしません。」と宣告するのです。パウロの愛による配慮です。時として、キリスト者の自由は愛ゆえに誓約を受けるものなのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは自由は愛ゆえに制約を受けるということです。

Today’s Takeaways

①知らないことを自覚する、②兄弟姉妹を躓かせてはならない、③自由は愛ゆえに制約を受ける

Thinking Time 

周りの方に配慮が欠けていることはありませんか