• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年11月5日主日礼拝

説教題:「召されたままの状態で 其の二~主に結ばれて~」

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一7章26-35,39-40節

7:26 今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。7:27 妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。7:28 しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。7:29 兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、7:30 泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、7:31 世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。7:32 思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、7:33 結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、7:34 心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。7:35 このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。7:39 妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。7:40 しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。

ハレルヤ!11月の第一主日を迎えました。私たちの教会では、コリントの信徒への手紙一を講解で学んでいて、今日はその15回目です。前回のおさらいから始めましょう。7章17-25、36-38節から「召されたままの状態で~永遠の祝福に目を向けよう~」と題し三つの事を中心にお話をしました。①日々の歩みで主の栄光を現わす、②召されたままの状態でいる、③永遠の祝福に目を向ける でした。今日は続く7章27-35,39-40節から「召されたままの状態で 其の二~主に結ばれて~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①定められた時は迫っている

26節から順番に見て参りましょう。7:26 今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。パウロは7章に入ってから結婚と離婚の問題を論じ続けてきました。独身者に対してはそのままでいることが良いと勧め、未信者と夫婦の関係にある者に対しては離婚すべきではないと勧めてきましたが、今日の箇所でその理由について詳述をしています。「今危機が迫っている状態にある」とあります。再臨が迫っているという意味です。この手紙が記されたのはAD54~57年頃と考えられていますので、初代教会の誕生から20~30年後にあたります。当時のキリスト者には再臨がごく近いうちに起こると考えていた人が少なからずいました。パウロもそのように思っていたのです。再臨が迫っているので、「こうするのがよいとわたしは考えます。人は現状にとどまっているのがよい」と勧めるのです。パウロは個人的な意見として現状に留まり再臨に備えなさいというのです。27,28節を見てみましょう。7:27 妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。7:28 しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。前節で「人は現状にとどまっているのがよい」と勧めていました。この見地から結婚も離婚もしない方が賢明であると念押しのように再度、語るのです。パウロは禁欲主義を褒め称え、独身生活を強要してはいません。「結婚しても、罪を犯すわけではなく」とある通りです。パウロが懸念しているのは、「結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。」とあります。結婚で境遇がかわると終末の時に、人一倍苦労することになるだろう、そうした苦しみには合わせたくはないとの思いなのです。29-31節を見てみましょう。7:29 兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、7:30 泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、7:31 世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。パウロは改めて「わたしはこう言いたい。」と言います。非常に大事なことだからよく聞いてもらいたいのです。その理由が「定められた時は迫って」いるからです。これは26節の「今危機が迫っている状態にある」を言い換えたもので、再臨が近い事を強調するために繰り返しているからです。何回かお話をしていますが、ギリシャ語で時を現わす言葉は二種類あります。クロノスとカイロスです。クロノスは時間の流れで、時間」と呼んでいるものを意味しています。一方、カイロスはある一定の時で、決定的な時を現わす場合に使われます。29節の「定められた時」時はカイロスですので、再臨は「神が定められた決定的な時」とも言えます。私自身もカイロスと言える決定的な時を経験していますので、その証をしたいと思います。一宮で牧会伝道をしていた一年目の秋の出来事ですので、ちょうど10年前のことです。その少し前に、車のエンジンが急に止まってしまうことが二回ありました、いずれもエンジンをかけなおすとすぐかかるのですが、二回もありましたので検査してもらったのですが、異常なしてした。一宮から船橋の自宅までの帰路は茂原、長柄、市原を抜けて蘇我ICから高速に乗っていました。ただ、高速は渋滞する場合がありますので、渋滞が無い場合です。その日は渋滞の表示がないので、蘇我から乗つたのですが、幕張SAに近づくと急にエンジンが止まってしまいました。何回もエンジンをかけなおしたのですが。かかりません。流れに乗って100k近くで走っていたのですが、どんどん速度が落ちていきます。90,80,70,65k「もうだめだぶつけられる、主よ、助けてください」と叫んだそのときです。突然、前方の車が次々とハザードランプつけ渋滞が起こったのです。周囲に注意しながら家内と運転をかわり、私は車を後ろからおして路肩にとめて難を逃れ□―ドサービスを読んで帰宅することができました。「その時歴史は動いた」ならぬ「そのとき渋滞は起こつた」です。個人にも教会にもカイロス、決定的な時があると言うことを覚えようではありませんか。パウロは再臨に備えるため次のように語っています。テサロニケの信徒への手紙一5章3節を開いて見ましょう。 5:3 人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。再臨について二つの大事なことを確認しましょう。先ず、再臨の時期は父なる神しか知らない。主イエスもご存じないのです。二番目は、必ず起こる。必ず起こるということは一日一日、一刻一刻その時が近づいているということなのです。突然起こることがあるのです。ですから、パウロは再臨に備えるためコリントの人々に身軽でいなさいと勧めているのです。「この世の有様は過ぎ去るからです」とあります。地上生活に執着して未練を残すことはないのです。結婚も、人の喜びも悲しみも商売も社会生活も全てのものは「過ぎ去る」一時的なものだからです。キリスト者は天にあるものに目を向けるべきなのです。フィリピの信徒への手紙には次のように記されています。開いてみましょう。3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。国籍を天に有するキリスト者は本質ともいえる永遠なるものを忘れて、地上の生活のみの心を奪われてならないのです。パウロは29-31節で 妻帯者でも独身者であるような心がけが必要で、地上の哀楽にあっても心乱すことなく、購入した物品にも執着せず、社会生活おいて色々な関りをもっている人とはあまり深入りすべきではないとパウロは説いているのです。いつでも再臨に応じられる態勢をとっておくべきなのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは定められた時は迫っているということです。

②ひたすら主にお仕えする

32-34a節を見てみましょう。7:32 思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、7:33 結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、7:34 a心が二つに分かれてしまいます。「思い煩わないでほしい。」とあります。いばらが芽をふさいで、その成長を妨げると同様に、この世のことで思い煩いが増え続けると信仰生活の邪魔になります。「どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣います」とあります。キリスト者の生活とはひたすら主を喜ばせ、主にお仕えしてゆくものでなければならないのです。ところが男が結婚して妻を迎えると神のことを思わないわけではありませんが、「どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。」とあるよう信仰と家庭が両立しなくなる恐れがあるのです。キリスト者の家庭生活とは信仰の上に成り立っていることを忘れてはならないのです。ところで、主を喜ばすとは具体的にどのようなことでしょうか。私は賛美がその一つと思います。人間は弱い者ですが、讃美には力があります。讃美を口ずさんでいると、他人を裁いたり、悪口をいったりせずに悪魔の誘惑に陥らないものです。ですから、人は結婚をするにしても、しないにしても神を賛美することを忘れてならないのです。結婚とは一人で神を賛美していたものが二人で賛美するようになることとも言え、子どもが生まれるとは家族で神を賛美することになることとも言えるのです。34b節を見てみましょう。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。「独身の女や未婚の女」とあります。「独身の女」には色々なケースが考えられますが、深く考える必要はありません。「独身の女や未婚の女」とは両者とも「夫がいない女性」の意味で解釈をすればよいです。「夫がいない女性」は主のために「体も霊も聖なる者になろうとし」ます。また、時間があるので主に再臨に十分に備えることができますが、「結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。」あるように主を喜ばせるよりも、夫の機嫌を取ったり、世の中のことに心を奪われたりしてしまうとパウロは言うのです。35節を見てみましょう。7:35 このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。35節は、今まで述べてきた勧告の趣旨を繰り返します。束縛ではなく利益となるからだと述べています。続いて「ひたすら主に仕えさせるためなのです。」とありますが、既婚であっても未婚であってもキリスト者はひたすら主にお仕えする者でなければならないのです。ひたすらと訳された原語の意味は「心が分散されることなく」という意味です。あちこちに心を動かされずただ、主イエス・キリストのみにお仕えするのです。ルカによる福音書には次のように記されています。ルカによる福音書10章41,42節を開いてみましょう。ルカ 10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」主イエスはマルタとマリアの姉妹の振る舞いをご覧になっていましたが、マリアの献身ぶりを褒めたのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことはひたすら主にお仕えするということです。

③主に結ばれている

39,40節を見てみましょう。7:39 妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。7:40 しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。最近は聞くことがありませんが、日本の古い諺に「貞女は二夫(にふ)に見(まみ)えず」があります。辞書によるとその意味は「貞操堅固な女性は、夫を持ったら、離別・死別しても別の夫を持つことはしない。貞女は再婚しない。」です。昔は、女性のキリスト者でもこの主義に賛同し実行をした方がいないわけではありません。天国に行ったときにご主人に顔向けけが出来ないからです。しかし、「貞女は二夫に見えず」は聖書の教えと反します。聖書はどのように教えているのかが39,40節からわかります。パウロは明確に再婚を認めています。「夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。」とある通りです。配偶者が生きている間に別の異性と性的な関係をもてば大きな罪となりますが、配偶者の死後に再婚をすることは天に召された配偶者を裏切ることにはなりません。パウロは再婚を認めていますが、「相手は主に結ばれている者に限ります。」と条件を付けています。「主に結ばれている者」とはキリスト者に他なりません。キリスト者が再婚をする場合には相手もキリスト者であることが求められるのです。帝政ローマのギリシャ人賢者のプルタルコス(46年頃 – 119年以降)は結婚についてこのように述べています。「結婚は夫婦が同じ宗教を信じていなければ、幸福なものにはなりえない」と。最高の愛は二人が愛し合い、その愛がキリストへの共通の愛によってきよめられたときに実現されるのです。二人は単に寝食を共にするだけでなく、祈りを共にするものなのです。結婚に関してパウロがテモテへの手紙一で教えていることを見逃してはなりません。5章14,15節を見てみましょう。 5:14 だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。 5:15 既に道を踏み外し、サタンについて行ったやもめもいるからです。パウロは再婚自体に反対していたわけでありませんし、結婚に反対する独身主義者でもありません。40節で「 しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。」と語る理由は、「今危機が迫っている状態にある」からです。定められた時が迫っている、再臨が近づいているので身軽な方が再臨に備えられるという思いです。40節はパウロの個人的な見解ですが、「神の霊を受けていると思います。」とあるように聖霊に導かれたものであるという信念があったのです。7章では主に結婚や再婚についてパウロは記していますが、大原則は「主に結ばれている者」なのです。そしてこのことは結婚や再婚に限らず、全てことにおいて信仰生活の中心は主なのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは主に結ばれているということです。

Today’s Takeaways

①定められた時は迫っている、②ひたすら主にお仕えする、③主に結ばれている

Thinking Time 

様々なことに心が動かされてはいませんか