• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年12月3日 主日礼拝

説教題:パウロの報酬~朽ちない冠を目指す~ 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一9章15-27節

9:15 しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。 9:16 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。 9:17 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。 9:18 では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。 9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。 9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。 9:21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。 9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。 9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。 9:24 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。 9:25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。 9:26 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。 9:27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。

ハレルヤ!12月の第一主日を迎えました。アドベント第一主日を迎えましたが、引き続き、コリントの信徒への手紙一を講解で学びます。今日はその18回目です。前回のおさらいから始めましょう。9章1-14節から「行使されなかった権利」と題し三つの事を中心にお話をしました。①使徒として報酬を貰う権利がある、②律法は報酬を認めている、③主イエスも報酬を認めていたでした。今日は続く9章15-27節から「パウロの報酬~朽ちない冠を目指す~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①福音宣教自体がパウロにとっては報酬

パウロは報酬を頂ける権利について三つの事例をあげて弁明をしました。使徒であること、旧約聖書が認めていたこと、主イエスも認めていたことです。それでも報酬を受け取ることはしませんでした。未信者に躓きを与えないための配慮もありますが、これはまた、堕落しきったコリントの人が自由を盾にとり他の人を躓かせていることに対しての戒めでもあるのです。このことに加え、15-18節ではもう一つの理由について記されています。15節を見てみましょう。9:15 しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。「わたしは」とあります。パウロは「私たちは」という場合と「わたしは」と使い分けています。「わたしは」と言い、自分自身の思い、本心を語るのです。福音を語る者が教会から報酬を得て生活をすることは正当なことですが、パウロはこの権利を何一つ利用」しなかったのです。パウロがこの権利について記したのは、この「権利を利用したいから」ではありません。「この誇り」とありますが、自給伝道という誇りです。パウロはこの自給伝道という誇りを絶対に「無意味なもの」にしたくはなかったのです。この誇りを無意味なものにするくらいなら「死んだ方がまし」というのです。たとえ、飢えて死んでもこの誇りは保ちたかったのです。16,17節を見てみましょう。9:16 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。9:17 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。「福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。」とあります。パウロは自給伝道を誇りましたが、福音宣教を誇ることはしませんでした。その理由は「そうせずにはいられないこと」だからです。この部分を直訳すると「なぜなら強制(義務、必然性)が私の上に置かれているからです」となります。パウロにとって福音宣教とは主によって課せられた使命なのです。ですから福音宣教を怠ることは「不幸なのです。」と語ります。不幸の部分は口語訳と新改訳では「わざわい」と訳されていますので、福音宣教を怠ることは「わざわい」でもあるのです。17節で、パウロは、福音宣教は主から委ねられたものであることを繰り返し強調しています。元々、パウロは熱心なユダヤ教徒で、キリスト教会とキリスト者を迫害していました。ステパノの殺害にもパウロは係わっていたと思われます。開きませんが、使徒言行録7章54-60節を読まれてください。。そのパウロが一転して福音宣教をするようになったのです。アグリッパ王の面前で述べた弁明が使徒言行録26章に記されています。15-20節を開いて見ましょう。 26:15 私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 26:16 起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。 26:17 わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。 26:18 それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」 26:19 「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、 26:20 ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。この弁明から主とパウロの関係がわかります。パウロが伝道者として立ったのは自分の選択ではなく天からの啓示によるものだったのです。主がパウロを選び、捉え、任命し、遣わしたのです。福音を述べ伝えることは、主からの命令に従うことに他ならないのです。パウロにとって伝道者とは職業でもなく、生活のためでもなく、ただ、主からの命令に従うことだったのです。18節を見てみましょう。9:18 では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。18節は福音宣教と報酬の関係についての結論です。「無報酬で伝え」とあります。パウロは物的な報酬を受けることなく福音宣教に励みましたが、福音宣教に何も報酬がないというわけではありません。福音宣教自体がパウロにとっては報酬なのです。他人に経済的負担をかけることがないように働くこと、未信者を躓かせないためにも自給伝道することが喜びであり誇りなのです。パウロが求めたものは物質的な援助ではなく、福音宣教からくる心の内から湧き上がる喜びであり、誇り高きものであったのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは福音宣教自体がパウロにとっては報酬ということです。

②福音宣教のためにはどんなこともする

19節を見てみましょう。9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。パウロは頂ける当然の権利を放棄しました。そればかりではありません。だれに対しても自由な者」であったのにもかかわらず、喜んでその自由をも犠牲にしたのです。真のキリスト者の自由です。それは、「できるだけ多くの人を得るためです。」とあるように一人でも多くの方に救われて欲しいと願っていたからです。「得る」と訳された原語には「儲ける」という意味があります。商業都市のコリントの人は金儲けに血眼になっていました。パウロはそのことに対して揶揄的にこの言葉を使ったものと思われます。20,21節を見てみましょう。9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。 9:21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。パウロは自由を持っていました。キリスト者の真の自由です。奉仕の自由、愛の自由など周りに配慮した制限のある自由です。パウロはユダヤ人を導くために「ユダヤ人のようになり」、律法に縛られている人を解放するために「律法に支配されている人のように」なったのです。使徒言行録16章1-3節を開いてみましょう。 16:1 パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。 16:2 彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。 16:3 パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。パウロは、導こうとしている人の風俗習慣に従い、律法の支配に服しているようなもののように振舞ったのです。このことは人を救うために人となられたキリストを彷彿させます。22,23節を見てみましょう。9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。」とあります。この手紙の8章で学びましたが、偶像に供えられた肉を食べることに抵抗がある信仰の「弱い」人がいました。そこで、パウロはこういった人たちを躓かせるのであれば、断じて肉を食べないと宣言をしたのです。確認のため8章13節を見てみましょう。8:13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。パウロは信仰の「弱い人」ばかりではなく、「すべての人に対してすべてのものになりました。」と語ります。その理由が「何とかして何人かでも救うためです。」なのです。一人でも多くの日人を救うための明確な意思の現われです。これらのことで、誤解をされたり、非難されたりしてもありとあらゆる方法や手段を講じて人を救いに預からせたかったのです。私が良く知っている伝道者の方は、普段、お酒は一切口にしないのですが、お酒が好きな未信者との食事の場ではお酒を飲んでいます。座を白けさせないための配慮です。また、昔、作家で尼僧でもある瀬戸内寂聴さんが、不良少女を更生させるために、彼女たちが使っていたドラッグを飲んだところ、彼女たちが瀬戸さんに親近感を覚え会話がスムーズに進んだという話を聞いたことがあります。瀬戸内寂聴さんがドラッグを飲んだことには賛否両論あると思いますが、二人ともパウロの「どんなことでもします」という姿勢に通じるものがあるのではないでしょうか。今日、二番目に覚えて頂きたいことは福音宣教のためにはどんなこともするということです。 勿論、罪を犯すことはしてはなりません。

③無駄無益なことはしない

24節を見てみましょう。9:24 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。「競技場」とあります。当時、ギリシアではスポーツが盛んでした。商業都市のコリントも例外ではありません。「競技場」には全国からアスリートが集まり、多くの観客が注視する中、栄冠を競っていました。競技の種目はマラソン、円盤投げ、レスリンク、拳闘などであったと言われています。マラソンンにしてもどの競技にしても出場した選手の全てが栄冠を受けるわけではありあせん。「賞を受けるのは一人だけ」なのです。「あなたがたも賞を得るように走りなさい。」とあります。キリスト者も信仰生活というコースを走っています。しかし、用心をしないと途中で落伍する者もいます。ですから、信仰生活を完走し主から栄の冠を頂くためには心して励むべきことがあります。そのことが25,26節に記されています。25節を見てみましょう。9:25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。「すべてに節制します」とあります。ボクシングは、階級制のスポーツです。減量のため、食事を制限することに加え、サウナスーツを着込み、水を飲むことを我慢しながら過酷な減量を行っているも選手もいるそうです。試合前の計量が終われば、「試合の半分が終わった」と言われるほど減量は重要なものです。ボクサーだけではありません。アスリートが競技に備え、飲食を節制し、性生活を慎み、身体を厳しく訓練することは今も昔も同じことです。「朽ちる冠」、「朽ちない冠」とあります。当時、競技場の優勝者に与えられる冠は樹木の枝を編んだものでしたので、暫くすると枯れてしまいます。パウロはそのことを「朽ちる冠」と表現をしているのです。そのような「朽ちる冠」であってもアスリートは徹底した自制を行っていたのです。そうであるとしたら、「朽ちない冠」を目指してキリスト者には信仰の鍛錬や修養のためにアスリートの自制に劣ってはならない、むしろ勝ものなのです。26,27節を見てみましょう。9:26 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。 9:27 むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。「やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」とあります。パウロは「朽ちない冠」いう明確なゴールを目指して走っています。そのため、不必要な走りはしないのです。また、拳闘、ボクシングの試合の時に、相手に当たらない無駄な動きをしないというのです。定められた明確なゴールに当直するためには自制とともに無駄、無益な行為は避けるべきだと言うのです。「自分の体を打ちたたいて服従させます」とありますが、信仰生活において打つべきところは「自分の体」なのです。口先でどんな立派なことを言っても、実生活がそれに伴わないのであれば証にありません。多くの人を躓かせ、主の期待を裏切ることになるのです。再び主とお会いする日に、「失格者」という印を押されてしまうのです。PPT最後にテモテへの信徒の手紙二4章6-8節を見てみましょう。4:6 わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。 4:7 わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。4:8 今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。パウロはコリント教会の人々に勧めた言葉通りに、自分自身が生きたことを証しています。私たちもパウロに負けないよう走ろうではありませんか。今日、最後に覚えて頂きたいことは無駄無益なことはしないということです。

Today’s Takeaways

①福音宣教自体がパウロにとっては報酬、②福音宣教のためにはどんなこともする、③無駄無益なことはしない

Thinking Time 

福音宣教のために何ができるでしょうか