• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年3月12日主日礼拝

説教題:世の友となるな~主イエスが友~聖書箇所:ヤコブの手紙4章1-12節

◆神に服従しなさい4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。4:2 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、4:3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。4:4 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。4:5 それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、4:6 もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」4:7 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。4:9 悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。4:10 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。 ◆兄弟を裁くな4:11 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。4:12 律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。

ハレルヤ! 3月の第二主日を迎えています。レンとの期間でありますが、私たちの教会では、ヤコブの手紙を講解で学んでおり、今日は8回目となります。前回のおさらいから始めましょう。3章13-18節を通し、「キリストこそが私たちの知恵」題し三つの事を中心にお話をしました。①知恵がキリスト者を成熟させる、②キリストこそが私たちの知恵、③義の実を世界に蒔くでした。今日は続く4章1-12節から「世の友となるな~主イエスが友~」と題しお話を致します。ご一緒に学んで参りましょう。今日から学ぶ4章には信仰生活に有益な忠告、助言が数多く記されています。

①不純な動機の祈りは応えられない

1節から順番に見てまいりましょう。4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。「戦いや争い」とありますが、武器や兵器による戦争のことではありません。生活の中にある党派的なトラブル、争いを意味します。先週、学んだようにこの手紙の受取人のお金持ち、指導者、教師たちの中には「ねたみ、利己心」がありました。自己の優越を誇り、自己の利益のために党派を組んだり、政治的に利用したりしようとするとこのよう「戦いや争い」が起こるのです。著者はその根本的な原因が「自身の内部で争い合う欲望」と指摘します。新共同訳では「欲望」と訳されていますが、原語の意味は楽しみ、満足、快楽です。快楽を追求するあまりに軋轢が生じ、ねたみ、党派心、醜い争いに発展するのです。使徒パウロも快楽について次のよう記しています。テトスへの手紙3書3節を見てみましょう。 3:3 わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです。2,3節を見てみましょう。4:2 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、4:3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。「人を殺します。」「争ったり戦ったりします」とあります。実際に人殺しがあったのか、比喩的に誇張をしているのかは不明ですが、これらは快楽が支配する生活がもたらす結果なのです。「得られないのは、願い求めないからで、」とあります。この講解説教の初回で、信仰をもって祈れば必ず主なる神は応えてくださることを学びました。しかし、そうならない場合があります。それが、3節です。「自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」とあるように、どんなに熱望しても熱心に祈っても、その動機が自己欲や自己満足のために使用されるものであれば、決して応えられるものではないのです。私たちはどうでしょうか。自分の欲望を満たすためだけに祈ってはいないでしょうか。今、ここで心を探ってみようではありませんか。今日、先ず覚えて頂きたいことは不純な動機の祈りは応えられないということです。4節を見てみましょう。4:4 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。「神に背いた者」とありますが、原語では「姦淫する女性たち」です。ですから、英語の聖書では女性名詞のadulteress「 姦婦」と訳されている聖書があります。女性を示すということは何を意味するのでしょうか。旧約聖書ではイスラエルは神の妻に例えられており、新約聖書でも教会がキリストの花嫁に例えられています。ですから、この箇所は肉体的な姦淫ではなく霊的姦淫を意味していると解釈すべきです。霊的な背信行為なのです。続いて「世の友」「神の敵」であることが記されていますが、この箇所の「世の友」とは、未信者、キリストと関係なく過ごしている方のことではありません。キリストの御名によって洗礼の恵みに預かったキリスト者が主から遠く離れつつある人のことです。そのような人が手紙の受取人の中にいたのです。5,6節を見てみましょう。4:5 それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、4:6 もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる。」「聖書に次のように書かれている」とあります。5節の後半と6節の前半の鍵括弧の部分に直接、相当する箇所はありません。ですから、旧約聖書に書かれている内容を著者が自分でまとめ「聖書に次のように書かれている」と言ったものと思われます。鍵括弧の部分の意味は『キリスト者は神の霊によって新生した者であるから、聖霊によって生かされている者なのです。神はキリスト者の心の中に聖霊を送り住まわせしめ、これを「ねたむほどに深く愛しておられ」るのです。』ねたむほど愛する。熱愛と言えます。キリスト者は神から聖霊を送られ熱愛されている者なのです。ですから、世と妥協せず、ねたみや党派心をすてて、神の愛に応えるものとしての歩みが求められるのです。6節の後半の引用は箴言3章34節です。見てみましょう。 3:34 主は不遜な者を嘲り/へりくだる人に恵みを賜る。同段落Read箴言3章34節の御言葉はペトロの手紙一5章5節でも引用されています。開きませんが、後ほど確認ください。「神は、高慢な者を敵とし」とあります。言葉を変えて言えば、高慢とは神に頼らずこの世の判断や基準によって生きることです。一方、「謙遜」とは、単に穏やかで慎ましい性格という意味ではありません。神との関係での謙遜です。神を常に大いなる方とし、自分をその前で小さくすることが出来るという意味です。自分自身の罪と不完全さを知っており、あらゆることを神に明け渡すことのできる者が謙遜な人なのです。神はこのような人に「恵みをお与えになる。」のです。次く、7-10節には「世の友」に陥らないための三つの対処法が記されています。

②主イエスが友

7節を見てみましょう。4:7 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。対処法の第一番目が「神に服従し、悪魔に反抗」することです。著者は人間に対しては柔和、謙遜を説きますが、悪魔に対しては反抗することを勧めます。口語訳と新改訳聖書では「悪魔に立ち向かいなさい」と訳されています。悪魔は神の敵対者です。ですから、神に従う者は悪魔に敵対することになるのです。私たちだけで悪魔に立ち向かうことなどとうてい無理ですが、謙遜となり自分の無力をみとめ、全能なる神に頼ることで、悪魔はわたしたから逃げて行くのです。8節を見てみましょう。4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。「神に近づきなさい」とあります。二番目の対処法が神に近づくことです。具体的に神に近づくとはどういうことでしょうか。それは、悔い改めて神に近づくことです。そうすれば、神は近づいてくださ」るのです。マルコによる福音書1章5節を開いてみましょう。 1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。主イエスの宣教の初めの言葉は悔い改めよでしたが、この手紙の受取人の主導者たちには、神の義と福音がぼやけてしまっていたのです。そうした指導者たちに悔い改めをもって神に近づきなさいと語るのです。神に近づくことにためらいはありませんか。心配は無用です。主イエスはキリスト者を「わたしの友」と呼んでくださっています。ヨハネによる福音書15章14節を開いてみましょう。15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。本来、私たちは「この世の友」でも「神の敵」ではなく主イエスが友なのです。この恵みを維持しようではありませんか。今日、二番目に覚えて頂きたいことは主イエスが友ということです。4:8「罪人たち、心の定まらない者たち」とありますが、これは二人の人を指しているのではありません。一人の人のことです。これまでに「わたしの兄弟たち」という呼びかけの表現が、本書中に8回も用いられていることをお話しました。同じキリスト者に対する深い兄弟愛の呼びかけで、主題を改めたり特に重要な内容を知らせたりする場合に使っています。メリハリをつけるためにも著者は時に優しく、時に厳しく「罪人たち、心の定まらない者たち」と呼びかけねばならなかったのです。「手を清めなさい。心を清めなさい。」とありますが、手は外面的な行いを示し、心は内面的な態度を示しています。清めるとは元々は祭司に関する規定から来ていますが、旧約聖書で手と心が並列している場合は行為と心の両方を指しています。詩編24編3,4節を見てみましょう。24:3 どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか。 24:4 それは、潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく/欺くものによって誓うことをしない人。キリスト者には行為にも心にも清さが求められるのです。9節を見てみましょう。4:9 悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。「悲しみ、嘆き、泣きなさい。」とありますが、神の前に真実に悔い改め、おのれの罪を悲しみ、嘆き、泣けと勧告をします。「笑い」とは相手の苦境をあざ笑う笑いで、罪びとの笑いのことです。「喜び」とは罪びとが謳歌している世的な喜びです。ですから、この罪びとの笑いを悲しみ、世的な喜びを憂いなさいというのです。10節を見てみましょう。4:10 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。対処法の第三番目が「主の前にへりくだりなさい。」です。聖書は一貫して、高慢を戒め謙遜であることを教えています。箴言18章12節を開いてみましょう。 18:12 破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜。また、主イエスご自身も繰り返し自らを遜らせる者のみが高くせられることを述べています。開きませんが、マタイによる福音書23章12節、ルカによる福音書14章11節、18章14節を後ほどお読みください。謙遜というたった漢字で二文字の言葉がある青年の人生を一変させた話をご紹介したいと思います。時は明治の初期です。一人のインテリな青年が牧師のところに来て、キリスト教ついて科学的に難解な質問をあびせ続けました。牧師は答えにつまり沈黙に追い込まれてしまいました。すっかり得意になった青年が帰ろうとしたとき、牧師は「もし、あなたに謙遜さがあったなぁ」と独り言のようにぽつりと言いました。しかし、この一言が青年の胸を打ったのです。その青年は様々な分野の知識を持ち、立派な人間だと思っていたのですが、謙遜さがないことに気が付いたのです。そして、心から悔い改め、その夜に救われたのです。この青年こそ、のちにメソジスト教会の牧師となり、巡回伝道者として明治時代に活躍をされた河辺定吉先生です。人間は自分自身が謙遜になると、自己の無力さを悟り神に頼るようになるのです。

③審判者はおひとり

11,12節を見てみましょう。4:11 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。4:12 律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。新共同の小見出しは「◆兄弟を裁くな」です。わざわざ小見出しが付いているので、前節迄に話してきた内容と変わると思うかもしれませんが、11,12節も「世の友」の人の高慢が引き起こす問題について記されています。「悪口」とありますが、原義には陰口というニュアンスがあります。元々は町角にグループで集まり、その場にいなかった人を非難するという意味です。「裁く」とありますが、相手を悪者と断定し、責めたり非難をしたりすることです。サウロ、回心前のパウロがまさにそうでした。非常に熱心なユダヤ教徒であったサウロは、キリスト者と教会を裁き迫害し続けていたのです。この手紙の受取人の中には、特にお金持ち、指導者、教師、あるいは教師になろうとしている人たちには自分たちと考えが異なる人たちの陰口を言い裁いていたのです。人を裁くということは律法を遵守せずに律法を無視していることなのです。ですから、著者は「もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。」と語るのです。12節のキーワードは「おひとりだけ」です。神おひとりの意味で、神のみが「律法を定め、裁きを行う方」であり、「救うことも滅ぼすこともおできになる」お方なのです。ですから、人間が審判者となり、「隣人を裁く」ということは自分を神の位置に据えるという冒頭なのです。言葉を替えて言うと、人間が神の立場となり、真で唯一真の審判者である神を裁くことなのです。著者は「隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。」と厳しく詰問をしますが、裁かれべきは神を裁くあなたたち自身だという意味が読み取れます。今日、最後に覚えて頂きたいことは審判者はおひとりということです。

Today’s Take-away ①不純な動機の祈りは応えられない、②主イエスが友、③審判者はおひとり

Thinking Time どうしたら謙遜になれるでしょうか