• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年6月18日主日礼拝

説教題:一致と福音 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一1章10-17節

◆一致の勧め 1:10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。 1:11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。 1:12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。 1:13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。 1:14 クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。 1:15 だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。 1:16 もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。 1:17 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。

ハレルヤ!6月の第三主日を迎えました。先週からコリントの信徒への手紙一を講解で学び始め、今日は二回目です。先週のおさらいから始めましょう。1章1-9節から「恵みと感謝~神の教会と聖徒~」と題し三つの事を中心にお話をしました。①主が望まれる神の教会と聖徒を目指す、②恵みはキリストによる、③感謝すべきことを見いだすでした。今日は続く1章10-17節から「一致と福音」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①キリストに在って一致する

10-12節から見て参りましょう。1:10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。 1:11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。 1:12 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。初代教会から今日の教会に至るまで問題のない教会はありません。教会は未完成のキリスト者によって構成されているからです。神がご用意してくださっている救いの御業の完成は再臨のときです。人が集まるところ、集団が形成されたところに派閥は生まれます。今日の聖書箇所の問題点は派閥です。この派閥があることをパウロに伝えたのが、「クロエの家の人たち」です。クロエは女性名詞ですが、「クロエの家の人たち」が誰かは性別を含めて一切わかりません。勿論、パウロはその方を知っていたと思いますが、意図的に情報提供者の実名を公表しなかったのでしょう。トラブルを避けるための牧会的配慮です。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」とあるようにコリントの教会には四つの派閥があったのです。パウロにつく」者がいたことは容易に想像が出来ます。コリントの教会の創立者はパウロだからです。一年半に渡る伝道の結果として生まれた教会です。このことは使徒言行録18章(小見出しはコリントで)からわかります。11節を見てみましょう。 18:11 パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。「ここに」とはコリントのことです。コリント教会の人がパウロに親近感を感じ慕う思いも当然かもしれません。「アポロ」については使徒言行録18章24-27節に記されていますが、24,27節を開いて見ましょう。 18:24 さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。18:27 それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たちはアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。「アカイア州に渡ることを望んでいた」とありますが、アカイア州はコリントの州です。アポロはエフェソからコリントにパウロの後継者としてきたのです。アポロは聖書に詳しく雄弁家でしたので、アポロを慕う群れが出来たのでしょう。「ケファ」の名前がありますが、使徒ペトロの別名です。ペトロがコリントの教会を直接、牧会したことはないと思います。聖書にもその記述はありませんが、ペトロはヤコブ、ヨハネと共にエルサレム教会の第一人者でしたので、コリント教会の信徒の中にも影響を受けた方が少なからずいたと思われます。これらの三つの派閥に加えて、「キリストにつく」群れがあったのです。プロテスタント教会には教派があります。救いには関係のない一部の神学の解釈の差や強調点の違いによるものですが、コリントの教会の派閥は神学や教理によるものではなく自己中心主義から生まれたものです。派閥の理由は人間崇拝とも言えます。これがコリントの教会の状況でした。そのような群れの人たちに対して、パウロは「兄弟たち」、「わたしの兄弟たち」と呼び掛けています。パウロは、あなたたちは一つなる教会に召しだされた主にある兄弟姉妹なのだよ。だから、「勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」と勧告します。キリストに在って、一致することが大事なのです。派閥を作らせ、教会の一致を乱すのは悪魔の働きです。悪魔の策略に陥ってはならないのです。標高約4000メートルのアンデス山上のキリスト像があります。正式名称は「Cristo Redentor de los Andes」(アンデスの救い主キリスト)と言いますが、どのような経緯で作られたかはご存じでしょうか。今でこそ、南米のアルゼンチンとチリは友好国ですが、1900頃までは絶えず国境紛争がありました。残念なことに両国ともキリスト教徒の多い国です。あるイースターの朝、一人のアルゼンチンの牧師は両国を一致させることを主から示され、両国を行ったり来たりして、主にある平和を説いたのです。たった一人の牧師の説教ですが、何度も何度も語られているうちに多くの人々の心が動かされ、ついに両国に平和協約が結ばれたのです。軍艦は商船となり、兵器工場は工芸学校になったのです。紛争に用いられた銃・大砲の鉄で造られたのが、山上のキリスト像です。ですからこのキリスト像は黒いのです。完成したのは1904年です。キリスト像の土台には「救いイエスのもとで両国は永遠の平和を保つことを誓い合う、もしこの平和を破ることあらば、この山々がみじん砕けるがよい」。そして、両国に平和をもたらした牧師は次のように述べています。「私たちはこの記念像を、単にアルゼンチンとチリの間の平和の為にではなく、全世界の平和のために捧げます」と。キリストに在る一致は世界に平和をもたらすことができるのです。キリスト者は平和の使者なのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはキリストに在って一致するということです。

②誇るべきものはキリスト

13節を見てみましょう。1:13 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。パウロは語気を強めて「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか、パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。」と問います。私たちの罪のために十字架に掛かってくださり、死なれたお方はキリストお一人です。パウロではありません。教会の頭はキリストです。教会はキリストの体です。その教会に分派を引き起こしてよいのかと問うているのです。続いて「あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」と迫っています。洗礼はイエスキリストの名によって授けられるものであって、パウロを含め人間個人の名によって授けられるものではないのです。洗礼とはイエスキリスト御名により、施すのです。しかし、パウロは受洗者が人間の名に固執することを見越していたので、14,15節で次のように語るのです。1:14クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。 1:15 だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。「クリスポとガイオ」の名前があります。この二人については使徒言行録に名前が記されています。確認をしてみましょう。使徒18:8 会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。19:29 そして、町中が混乱してしまった。彼らは、パウロの同行者であるマケドニア人ガイオとアリスタルコを捕らえ、一団となって野外劇場になだれ込んだ。クリスポはパウロから洗礼を受けたのですが、他の多くの者はパウロ以外の人から洗礼を受けたことがわかります。また、ガイオはパウロの同労者だったことがわかります。1996年にご召天されていますが、日本基督教団 西千葉教会で牧師をされていた松本廣先生が、若い頃に奉仕をされていた熱海教会で経験したお話をご紹介したいと思います。ある日、年老いた紳士が主日礼拝を捧げるためその教会に来ました。熱海は観光地ですので、旅行先の熱海で、主日に礼拝を捧げる方が少なからずいたそうです。その方から頂いた名刺を見ると都内の有名教会の長老の方で、有名なキリスト者でした。そして、その方は胸をはって堂々と「私は植村正久先生から洗礼を受けました」と言われたそうです。植村正久先生が非常に立派な牧師であることには間違いはないのですが、松本先生は違和感を覚えたそうです。たとえどんなに偉くて立派な牧師であっても、その牧師が十字架に掛かったわけではないのです。このことをパウロは13-15節で語っているのです。身代わりの贖罪を受けられた方はイエスキリストお一人なのです。伝承によればパウロはローマで斬首刑に処され殉教したと言われています。十二使徒の多くも殉教しています。しかし、殉教であって贖罪のための死ではないのです。松本先生は著書の中で次のように述べています。「私は牧会50年を迎えたが、誰からにも過去にどれだけ洗礼を授けたとか、言って欲しくない。洗礼を与えた数や来会する会衆の数など何の誇りでもない。教会にとって誇るものはイエスキリストのみである」。と。一つの教会の中で、私はA先生から洗礼を受けた。私はB先生から洗礼を受けたなどと誇示しあっているのであれば、やがて派閥を生むことになるのです。また、牧師が自分の力でわが弟子を作ることも問題です。弟子訓練とはキリストの弟子を育てあげることです。牧師個人の弟子ではないのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは誇るべきものはキリストということです。16節を見てみましょう。1:16 もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。「ステファナの家の人たち」とあります。ステファナの一家についてはこの手紙の16章15節に記述がありますので開いて見ましょう。同段落16:15 兄弟たち、お願いします。あなたがたも知っているように、ステファナの一家は、アカイア州の初穂で、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました。ステファナ家に人はコリントアカイア州の初穂でパウロの信頼があつかったことが読み取れます。

③福音はありのまま伝える

17節を見てみましょう。1:17 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。「洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり」とありますが、この箇所は洗礼を軽視しているわけではありません。洗礼を施すことは主ご自身が命じておられるのです。マタイによる福音書28章19,20節を開いて見ましょう。 28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。また、パウロも洗礼を受けこることについて次のように述べています。ガラテヤ 3:27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。この17節で述べていることの真意は、既に信仰を持った人に洗礼を授けることよりも、未信者の方に福音を伝えるほうに時間と労力を使いたいということなのです。洗礼はパウロやペトロのような偉大な指導者がしなければ効果がないというものではありません。パウロの弟子のテモテが行っても効力のあるものなのです。聖書には牧師しか洗礼を授けてはならないとは記されていませんので、教派によっては危篤等の際にキリスト者が洗礼を授けることはありますが、一般的にホーリネス教団を含め多くの教団では按手を受けた牧師のみが洗礼を授けることが出来ます。17節の後半に「言葉の知恵によらないで」とありますが、言葉の知恵とはギリシャ的な雄弁術です。レトリックな誇張法とも言えます。良く言えば、言葉を美しく巧みに使って効果的に表現する方法ですが、悪く言えば物事を事実以上に 大袈裟 に述べることで、その程度を引き立たせる技法です。福音とは事実です。事実は事実の通り伝えれば良いのです。「罪なき御子イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなるためこの世にお生まれになり、十字架刑に掛かり、三日目に復活された」ことを信じキリストを救い主と受け入れる者には永遠の命が与えられるといことです。このことを雄弁術や美辞麗句によって語られることはないのです。そのような形だけにとらわれるのならば、「キリストの十字架がむなしいものになって」しまうものであることを喚起しているのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは福音はありのまま伝えるということです。

Today’s Take-away

①キリストに在って一致する、②誇るべきものはキリスト、③福音はありのまま伝える

Thinking Time 自分自身を誇っていませんか、どうしますか