• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年7月16日主日礼拝

説教題:奥義が明らかにされた~自然の人、霊の人~ 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一2章6-16節(新共同訳新約304p)

◆神の霊による啓示 2:6 しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。 2:7 わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。 2:8 この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。 2:9 しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。 2:10 わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。 2:11 人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。 2:12 わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。 2:13 そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。 2:14 自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。 2:15 霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。 2:16 「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。

ハレルヤ!7月の第三主日を迎えました。私たちの教会では、コリントの信徒への手紙一を講解で学んでいて、今日は五回目です。前回のおさらいから始めましょう。1章26節-2章5節から「誇る者は主を誇れ!」と題し三つの事を中心にお話をしました。①誇る者は主を誇る、②福音の中心は十字架、③福音が語られるときに神の力が働くでした。今日は続く2章6-16節を通し、「奥義が明らかにされた~自然の人、霊の人~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①隠された奥義とは福音

6,7節を見てみましょう。2:6 しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。2:7 わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。「信仰に成熟した人」とあります。新改訳では「成人」、口語訳では「円熟している者」と訳されています。また、「信仰に成熟した人」とは「乳飲み子」(3章1節)、子供(14章20節)に対する表現で霊的経験に富んだ人々のことです。パウロはこの手紙の中で分派、派閥の原因は人間崇拝であることを示唆し、再三にわたり、この世の知恵は信仰に必要がないことを述べてきました。また、この世の知恵からみれば、信仰の世界は愚かにさえ見えることも語ってきました。そして、世間が愚かと思うことの中に神の知恵が秘められているとも語りました。これらは信仰の無い人や信仰歴の浅い人に語っても理解が出来ないのです。「信仰に成熟した人たちの間」で理解されることなのです。ですから、そのような人たちには「隠されていた、神秘としての神の知恵」を語ることが出来るのです。「隠されていた、神秘としての神の知恵」とはキリストが身代わりの贖罪として十字架に掛かって下さったことであり、そのことは神が「世界の始まる前から定めておられたものです。」「隠されていた、神秘」の部分は口語訳では「隠された奥義」です、この部分は原語のギリシャ語ではミステリオで英語のmystery(神秘)の語源となった言葉です。この奥義とは武道のように達人の域に達した人にだけ伝授するという意味ではなく、キリストがこの世に来られるまでは人々の目から隠されていたということです。キリストがこの世に来られたことにより、隠されたいたものが明かされたという意味です。今日、先ず覚えて頂きことは隠された奥義とは福音ということです。今日の聖書箇所には「この世」という言葉が3回記されていますが、ギリシャ語には二つの世を表す言葉があります。コスモスとアイオーンです。コスモスは秩序という切り口から見た世で、英語のcosmos(宇宙)の語源です。今日の箇所はアイオーンで、アイオーンは今という時代が強調された世です。ですから、「この世の知恵、この世の滅びゆく支配者たちの知恵」とは今という時代の風潮に縛られたり、悪影響を受けてしまったりした人間の知恵の意味です。現代に生きる私たちは今まで以上に悪影響を受けています。有害TV番組。有害図書と言われて久しいですが、インターネットには様々な情報が氾濫しています。有益な情報もありますが、フェイクニュース、偽情報、詐欺、犯罪を助長させるものなども横行しています。ですから、日々のディバーションを通して主が語りかけていることに耳を澄ますことが求められるのです。8節を見てみましょう。2:8 この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。「この世の支配者たち」とあります。ユダヤ教の大祭司もローマの総督ポンテオ・ピラトらもこの「神の知恵」を理解できなかったのです。ですから、「栄光の主」であるキリストを十字架に付けてしまったのです。栄光とは本来キリストが神の子として持たれている特性です。キリストの弟子たちも公生涯においてその栄光を拝したのです。 ヨハネによる福音書1章14節を見てみましょう。 1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。開きませんが、後ほど、ルカによる福音書9章32節、ペトロの手紙二1章16,17節も読まれてください。9節を見てみましょう。2:9 しかし、このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」はイザヤ書64章4節と65章17節を結合したものでその要約といえます。見てみましょう。64:3 あなたを待つ者に計らってくださる方は/神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も/目に見た者もありません。65:17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。神は人が思いもよらない道を備えて人を救われます。私が良く知っている方ですが、その方は元反社会的勢力に属していました。20代の後半で組長代行までしていた方です。何回かの服役を経験しているのですが、最後の服役中にから差し入れされた聖書を読み、旧約聖書エゼキエル書の御言葉で心を打たれ主と出会いました。33:11 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。出所後、その方は洗礼を受け、献身し牧師や伝道者として大活躍しています。進藤龍也牧師です。著書は他にも6冊あったと思います。聖書を差し入れた方は悪の道から立ち直って欲しい、キリストと出会って欲しいと願い祈っていたと思いますが、まさか牧師になって本まで出版するとは思っていなかったでしょう。神の知恵と人間の知恵との間には、このように大きな開きがあるのです。人はいくら高尚な哲学書を読もうがそれで救われることはありません。先ず、謙遜になり自分の無力を悟りことです。そうすれば聖霊が働き救いの恵みに預かれるようにしてくださるのです。

②聖霊は恵みとして与えられる

聖霊についての具体的な記述が10節以降に記されています。10,11節を見てみましょう 2:10 わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。2:11 人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。この世の賢者や権力者には明らかにされなかった神の知恵が、無力で小さいキリスト者には、「神が“霊”によってそのことを明らかに示して」くださったのです。これは、神が私たちに聖霊を送ってくださり、聖霊の助けがあるからに他ならないのです。人は聖霊を受けずにして、「イエスを救い主」ということはできませんし、聖霊は人の内に宿る「神の霊」です。これらことは開きませんが、この手紙の12章3節、ローマの信徒への手紙8章9節に記されていますので、後ほどお読みください。聖霊によって神の性質やご計画を知ることができるのです。ですから、パウロは聖霊について次のように絶えず祈ったのです。コロサイの信徒への手紙1章9,10節を開いて見ましょう。 1:9 こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、 1:10 すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。 12節を英語の聖書(NIV)と一緒に見てみましょう。2:12 わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。What we have received is not the spirit of the world, but the Spirit who is from God, so that we may understand what God has freely given us.(NIV)英語の聖書では「神からの霊」の部分が聖霊であることを明示するために大文字で書かれています。私たちが救いに預か得たのは、分派、派閥をもたらす「世の霊」ではありません。「神からの霊」、つまり聖霊を受けたからです。聖霊とは何かと簡潔に言えば神の働きです。また、十字架に掛かられて三日目に復活され今も生きておられるイエス・キリストの霊です。このイエスキリストを通して神が働いておられ、その神の働きが聖霊なのです。その神の働きである聖霊が恵みによって与えられるのですから、私たちは人の知恵などに誇りにすることなく、神の恵みを知って、益々霊的に成長すべきものなのです。「神から恵みとして与えられたもの」は自分に何も価値がないのにもかかわらず、無代価で頂けるものなのです。これは人知を超えるものですので、単なる理性では「知る」ことが出来ないものなのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは聖霊は恵みとして与えられるということです。13節を見てみましょう。2:13 そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。「人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています」とあります。恩師の一人の岸義紘先生からは計り知れないほどのことを学びましたが、13節を読むと岸先生から学んだ説教学のテキストを思い出します。そこには「神などいないかのように徹底的に説教の準備をしなさい。そして、説教の際は、自分が用意したものなど、なにも役に立たないかのように聖霊により頼みなさい」と書かれていました。準備の大切さと聖霊により頼むことの大事さです。聖書は霊感によって記されたものですから、「霊的なものによって霊的なことを説明する」ことが求められるのです。

③聖霊により主の御心を知り、教えることが出来る

14-16節は自然の人と霊の人との対比です。 14節を見てみましょう。2:14 自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。「自然の人」とありますが、生まれながらの人、聖霊を持たない人の意味です。「その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。」とありますが、彼らは語られても理解をすることができません。福音の真理を聞いても理解することができないのです。彼らはこの世の情欲や繁栄に気を引かれるのです。「豚に真珠」という諺は聖書(マタイによる福音書7章6節)が起源ですが、まさに14節は豚に真珠のようなものです。15節を見てみましょう。2:15 霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「霊の人」とは、聖霊を頂いている人です。キリスト者のことです。彼らは、「一切を」神を仰いでその導きを受ける。御心を求めつつ歩んでいるので、的確な判断を下すことができるのです。後半に「だれからも判断されたりしません。」とあります。「霊の人」「自然の人」よりも霊的に高い地位にいるからです。高いところから低いところを見ると全ての物が良く見えますが、逆に低いところから高いところを見ると良く見えないという現象と同じです。この箇所からコリントの信者がこのことをわきまえず指導者たちを批判して争いをしていた問題があったことが読み取れます。キリストの心をもって全てのことを律していくべきなのです。そうすれば教会の中で、他人を批判したりし派閥を作って争ったりできるはずがないのです。16節を見てみましょう。「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」はイザヤ書40章13節からの引用です。開いて見ましょう。40:13 主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。どんな「自然の人」であっても、主の思いを知ることも、そのことも伝えたり教えたりすることは出来ません。一方、「霊の人」であるキリスト者にはそのことが許されているのです。パウロは、世の中の人にわからないことでもキリスト者にはわかるのだと実に大胆かつ徹底した主張を述べています。その根拠がガラテヤ書2章20節に記されています。見てみましょう。 2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。内住のキリスト、キリストの御霊である聖霊が私たちの心の中に住んでくださっているから、この世の悪しきものから守られ「主の思いを知り、/主を教える」ことができるのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは聖霊により主の御心を知り、教えることが出来るということです。

Today’s Take-away

①隠された奥義とは福音、②聖霊は恵みとして与えられる、③聖霊により主の御心を知り、教えることが出来る

Thinking Time 聖霊を悲しませていないでしょうか。