• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年7月2日主日礼拝

説教題:十字架の言葉~キリストは神の力、神の知恵~

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一1章18-25節

◆神の力、神の知恵であるキリスト  1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」 1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。 1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。 1:22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

ハレルヤ!7月の第一主日を迎えました。私たちの教会では、コリントの信徒への手紙一を講解で学んでいて、今日はその三回目です。先週は美恵子牧師に御言葉を取り次いで頂きましたので、前回のおさらいから始めましょう。1章10-17節から「一致と福音」と題し三つの事を中心にお話をしました。キリストに在って一致する、誇るべきものはキリスト、福音はありのまま伝えるでした。今日は続く1章18-31節から「十字架の言葉~キリストは神の力、神の知恵~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①十字架の言葉とは福音

18,19節から見て参りましょう。1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」福音が語れるとき、どの時代でも、どの場所においても二種類の人がいます。福音を素直に受け入れて天国に行きの切符を手に入れる人と、福音を馬鹿馬鹿しいものと思いまったく相手にしない人です。今日の箇所にもそのような人がいたことがわかります。「十字架の言葉」とありますが、なんと確信に満ちた言葉ではないでしょうか。イエス・キリストが十字架に付けられ、私たちの罪のために死なれた。そしてそのことを信じてイエスを救い主と受け入れた人には永遠の命が与えられる言葉です。一言で言えば福音です。福音宣教とも言えます。今日、先ず覚えて頂きことは十字架の言葉とは福音(宣教ということです。前回、17節で福音は修辞法などの知恵の言葉によらず十字架の御業をそのまま伝えることを学びましたが、18,19節では福音の力を語っているのです。「滅んでいく者」とは福音を受け入れずに自分の知識だけに頼り生きている方です。そのような人には「十字架の言葉は」愚かに思えてしまうのです。事実、アテネの人々はパウロの証を聞いて笑ったことが使徒言行録17章32節に記されています。開いて見ましょう。 17:32 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。一方、キリスト者にとっては「十字架の言葉」「神の力」なのです。「力」と訳された言葉は原語のギリシア語ではデゥナミスと言いますが、英語のダイナマイトの語源です。人間の罪を徹底的に破壊することが出来る強力な力、人間を罪から救って一変させるほどの強力な力なのです。この力は世の中の人には愚かに感じるかもしれませんし、また、世の中の人がどのように感じたとしても、キリスト者は神の力を体験し確信しているのです。世の中の人の批判は関係なくその確信は動じることはありません。それゆえ感謝もつきることがないのです。19節の「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」の部分は旧約時代イザヤ書29章41節からの引用です。開いて見ましょう。イザヤ 29:14 それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」当時、アッシリアのセナケリブ王がユダ王国を攻撃しようとしていました。その時に預言者イザヤはユダのヒゼキヤ王を始め、ヒゼキヤ王の取巻き、そしてユダの民にアッシリア軍を恐れる必要がないこと、そして必ずユダが勝つことを語りました。但し、その勝利は王、軍人、政治家といった人間の知恵ではなく、主なる神によるものだと伝えたのでした。パウロはイザヤ書を引用することで、この世の知恵は不要であることを伝えているのです。事実、神は御使いによってアッシリアの18万5千人を滅ぼしたのです。イザヤ書37章36節に記されています。確認をしてみましょう。 37:36 主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。

②十字架の理解は信仰のみ

20節を見てみましょう。1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。「知恵のある人、学者、論客」とありますが、この世の頭脳明晰な人たちのことです。「神は世の知恵を愚かなものにされた」とは、たとえどんなに頭脳明晰な人たちでも神の知恵には及ばないことを述べています。20節の前半は一修辞疑問文と言えます。「神より知恵が勝る人はどこにいるのか。いるはずがない」が真意です。21節は新共同訳では意味がわかりづらいので、Alive訳と一緒に見てみましょう。1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。1:21この世がいかに人間のすぐれた知恵を結集しても神を見いだせないのは、神の知恵深い計画の一部なのだ。そして神は、一般の人には、ばかばかしくて話にならないような神のことばを信じる人を、救う決断をしたのだ。(Alive訳)パウロが言わんとしていることは、人を救うために、神は知恵を使われたからこそ、十字架という手段を選ばれたのです。神は人間が知恵を働かせれば神を知るようになるということは計画をされなかったということなのです。22,23節を見てみましょう。1:22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、22,23節には救いに関する三種類の人間が書かれています。「ユダヤ人」、「ギリシア人」と「わたしたち」です。「ユダヤ人」「ギリシア人」「十字架の言葉」を愚かだと言って拒否していた人です。ユダヤ人とギリシア人は古代社会において文明を代表する二つの民族でした。それぞれの民族の主義、思想をヘブライムズ、ヘレニズムと言います。この二つの思想は世界の思想の主流でした。「ユダヤ人」ヘブライムズは「しるしを求め」ました。しるしを求めることは旧約の時代から行われていましたし、神はしり込みをするモーセにエジプトを脱出させるためいくつかのしるしを示されました。杖を蛇に変えたり、その尾をつかむと元の杖に戻ったりしたというしるしです。また、手をふところに入れると、重い皮膚病の斑点が現れたり、再度、手をふところに入れると元通りなったりしたりしたのです。これらのことは開きませんが、出エジプト記4章1-7節に記されています。福音書にもしるしについて記されています。いわゆる「5千人の給食」の場面は四福音書の全てに記されていますが、ヨハネによる福音書6章9-14節を見てみましょう。6:9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」 6:10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 6:11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。 6:12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 6:13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。 6:14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。「しるし」とは奇跡のことです。人間を主イエスに目を向かせる人知を超えた不思議なしるし、効験のことです。しるしを要求するユダヤ人は、イエスキリストの十字架と復活という最も偉大なしるしが目の前にあっても、その重要性に目が開かれなかったのです。一つ注意して頂きたいことがあります。信仰生活を強める手段として「しるし」を求めること自体は良いことで、主はその求めに応えてくださいますが、神を試みるためにしるしを求めることは大きな罪です。申命記 6章16節には神を試みてはならないと記されています。「ギリシア人」、ヘレニズムは「知恵を探し」たのです。体験、経験によらず,思考や論理による知識を最高のものとしたのです。二世紀に活躍した哲学者のケルソスはキリスト教について次のように酷評をしています。「神は善、美幸であり、最善、最美なるものの中にいます。されば、『神、人の世にくだりたもう』というのは、神が変化をすること、しかも善から悪へ、美から醜へ、幸から不幸へ、最善なものから最悪のものへと変化することに他ならない。一体このような変化を望む者があるだろうか。人間が変化をするのは、それが本性なのだからやむを得ない。しかし、神はこのような変化を決して容認したまわぬであろう」と。このように自分の知恵や知識にこだわる「ギリシア人」にとって、十字架に付けられて死んだ人間が復活したことを信じれば救われるなどということは愚問中の愚問だったのです。どんなことがあっても受け入れられないものだったのです。知識、知恵を愛するギリシア人でも、イエスキリストの十字架と復活という最も深遠な知らせを突き付けられても、識別ができなかったのです。受肉は絶対にありえないことだったのです。人間のいかなる知恵によっても十字架を捉えることは出来ません。信仰のみによって十字架を捉えることが出来るものなのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは十字架の理解は信仰のみということです。23節冒頭の「わたしたち」とは十字架に付けられて死んだ人間が復活したことを信じ永遠の命が与えられ、その福音を述べ伝えるキリスト者のことです。「十字架につけられた」とありますが、原語では完了分詞が使われています。これは、キリストは、過去に一度十字架に付けられただけでなく、十字架にかけられたお方の性質を維持されていることを意味します。十字架の有効性は永遠ということが原文から読み取れ、そして、「キリストを宣べ伝えています。」とありますので、聖書が特別啓示として記されたことがわかります。人は大自然に触れるとそれを創られた神の存在を知ることが出来ます。これを一般啓示と言います。私自身、キリスト者になっていましたが、カリフォルニアのヨセミテ国立公園(クリック)に行ったときに創造の御業を実感しました。これは神しか創れないと心から思いました。詩編19編2節に記されている通りです。 19:2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。一般啓示により、神の存在、壮麗荘厳さを知ることが出来ても、人間が生まれながらにして罪人であり、それゆえ救いが必要なことはわかりません。そこで、神は御子をこの世に遣わされ、罪なきひとり子を私たちの罪の身代わりとして十字架に掛からせたのです。このことのついて記された書物が特別啓示である聖書なのです。聖書、特別啓示によらなければ罪を知ることは出来ませんし、罪から救われることも知ることが出来ないのです。23節に「異邦人」とありますが、聖書でいう異邦人とはユダヤ人以外の人の事です。パウロはユダヤ人として同胞を救いたい気持ちに溢れていたのですが、同時に、異邦人を救わねばならないという思いにも溢れていました。ローマの信徒への手紙9章3節には次のように記されています。 9:3 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。異邦人にはどんなに愚かに見える十字架の福音でも。パウロはその福音を伝え続けたのです。その理由が、24節以降です。

③神の力、神の知恵であるキリストを述べ伝える

24節を見てみましょう。1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者」とあります。当初、「十字架の言葉」はユダヤ人にもギリシア人にも拒絶されていたのですが、やがて福音は彼らの中に広く入り込み救われる人が起こされたのです。人が救われるために人種、国籍、老若男女は関係がありません。唯一の条件はイエスキリストを自分の救い主と受け入れるだけです。人の罪は人間の知恵や知識で救いを解決をすることはできませんし、そもそも罪びとである人間が罪の問題を解決できるはずがないのです。「神の力、神の知恵であるキリスト」とあります。キリストは神の力、神の知恵なのです。そして、キリスト者になった者には「神の力、神の知恵であるキリスト」を述べ伝えることが求められるのです。主イエスご自身も福音宣教についえ次のように述べています。マルコによる福音書16章15節を見てみましょう。16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。今日、最後に覚えて頂きたいことは神の力、神の知恵であるキリストを述べ伝えるということです。25節を現代訳と共に見てみましょう。1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。1:25 というのは、人の目から見て愚かに見えるこの神の救いは、人間の知恵よりはるかに賢いものであり、人の目から見て弱弱しく見えるキリストの十字架上の死という出来事は、どんな人間よりもはるかに強いからである。(現代訳)人知を超える神の力と人間の浅はかな知恵を強調し対比しています。キリストのみが私たちを永遠の刑罰から救う神の力であり、神の知恵なのです。ひとり子の犠牲によって罪びとを救ってくださった神は、愚かで弱弱しく見えるかもしれまんが、神の愚かさは人間よりもはるかに賢く、神の弱さは人間よりもはるかに強いのです。

Today’s Take-away

①十字架の言葉とは福音、②十字架の理解は信仰のみ、③神の力、神の知恵であるキリストを述べ伝える

Thinking Time 

自分自身に頼っていませんか どうしますか