• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年7月23日主日礼拝 安井巌師

説教題:主はあなたを必要としておられる 聖書箇所:マルコによる福音書1章14-20節

 私は今、教会の働きと、教団の次世代育成主事としての働きをさせていただいております。私の他に2名の主事がおりまして、現在は3人体制で、お声かけいただいた教会、教区に伺わせていただいて奉仕をさせていただいております。そういう関係もあって、昨年度から、伏見先生ご夫妻の協力をいただいて、月に一度、千葉栄光教会の説教のご奉仕をお願いしております。八街の皆さんのご理解とご協力に感謝しています。今朝は、その機会を用いさせていただいて、講壇交換というかたちで、八街栄光キリスト教会の礼拝に参加することができました。コロナ前に一度、来させていただいて依頼、4年ぶりでありまして、皆さんと共に、甦りの主イエス・キリストを仰ぎながら、父なる神を礼拝できることを嬉しく思っています。

 私が次世代育成主事となって6年目になりました。そもそも、なぜこのような働きが生まれたのかということですが、私は修養生時代から教団主催のキャンプに関わらせていただき、ずっとその働きをしながら思っていたことがある。それは、教団として次世代、特に青少年世代に特化した働き人が必要だとということでした。そこで、意を決して私がその働きをさせていただきたいとお伝えし、教団に認めていただいてこの働きが始まりました。しかし、自分自身に何か青少年伝道のノウハウがあるわけではありませんでしたので、まずさせていただいたのは、青少年伝道の働きに携わっている宣教団体に、積極的に学ばせていただくということでありました。

 そこで、それぞれの宣教団体の働きの場に参加させていただき、学ぶ中で気付かされたこととは、どの団体も試行錯誤を重ねながら、あの手この手と企てつつ、地道な働きを続けているということでした。つまり、これをやれば若者がどんどん集まり、どんどん救われ、どんどん成長していくというような特効薬、秘策などはどこにもないということです。実際、若者の置かれている状況は、私たちが考える以上に、どんどんと早く変わって行っています。また、若者と一言で言っても、いろんな若者がいる。そういった中で、各宣教団体も、そこにいる若者に届く言葉を、方法を、日々模索しながら、努力しておられるということでした。

 しかし、その中でも教えられたことがひとつあります。それは、牧師が、あるいは宣教師が、直接、若者のところに出て行って働きかけをするというよりも、先に救われた若者、高校生なら高校生が、大学生なら大学生が、直接、働き人として遣わされていくことを大切にする。牧師や、宣教師や、主事は、その働き人を支えることに徹するということでした。

 それは考えてみると当たり前のことかもしれません。高校生伝道は高校生が、大学生伝道は大学生が、自分の置かれた場所で、すでに信頼関係ができている人にしていくということが、一番理に適っています。すでに、関係性は作られているわけですから。見ず知らずの人に声をかけられたら誰でも最初に警戒する。しかし、すでに知っている友だちが、伝えるということであれば、どんなによいか。同じ世代、同じ環境にあるものこそが、まだ福音を知らない人の最初の接点になるのです。

 私たちの教団でも、それに倣いまして、ユースジャムなども、まず、ジャム関わる準備委員が整えられることを目指しています。そこから、またその青年たちを通して、宣教のわざが広められることを期待して取り組んでいます。

 そして、このような人を育てていく働きはとても時間がかかります。半年や1年で実りが与えられるということではないかもしれません。子どもが大人になっていくその成長過程に寄り添いながら、福音宣教のために整えられていく器へと育てていく。そこには時間も労力もお金もかかるでしょう。しかし、それはただ育てるだけではなく、その働きに携わる私たち自身が、育てられていく子どもや若者の姿を通して、目に見えない神のみわざを、見させていただく、触れさせていただく、たいへん恵まれた経験をそこでさせていただくことができるのです。

 

 ところで、このような取り組みは、今始まったことではありません。何よりも、主イエスご自身が身をもって示してくださった姿であります。

 そこで、今朝は、私たちがそのような息の長い働きに、絶えず希望をもって関わることができるために、どうしても知っておかなければならないことを、抑えておこなければならないことを、共に御言から聴かせていただきたいと願っています。

 

 私たちに与えられた神の言葉として聴きましたマルコによる福音書第1章14節以下は、いよいよ主イエス・キリストが公のご生涯、伝道のご生涯を本格的に始められる場面であります。そこで、15節で主イエスはこのようにおっしゃいました。

 「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

 このお言葉は、ここに1回だけ記された主イエスのお言葉です。けれども、だからと言って、ここで1回だけ語られた言葉というわけではありません。この先、福音書を読み進めていきますと、主イエスはたくさんの人々の前で、数々の奇跡のわざをなさり、たとえ話などをもちいて神の国の教えを語られます。そのどの言葉も、どのみわざも、そこに、この「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というメッセージが響いているのです。14節に「神の福音を宣べ伝えて」と書いてある通り、神の福音の内容がこれなのです。

 私が修養生でありました時、東京聖書学院のその頃はすでに名誉学院長でありました小林和夫先生が、この主イエスが語られた「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というメッセージは、金太郎飴のようなものだとおっしゃったことが、たいへん印象深くそのことを覚えております。金太郎飴というのはご存知のようにどこを切っても同じ顔が出てくる、あの飴です。

 それと同じように、主イエスのご生涯は、どこを切っても、金太郎飴のように、このメッセージが聞こえてくると言われました。ですから、私たちが福音書を読んでいて、なぜ、主イエスはここでこのようなことを語られるのか、このようなみわざをなされるのか、このような態度を取られるのかと疑問に思う時、このメッセージを思い起こせば、そこでの主イエスの御心がわかる手がかりとなります。

 ですから、この主イエスの言葉の中に、福音の内容がすべてぎゅっと、詰まっている、とても大切な御言なのであります。誰かに、主イエス・キリストは何をした人なのですか尋ねられたら、この御言を語って聞かせたらいいのです。この語られた通りのことが実現するためにこの世に来られ、みわざをなさった方だと伝えればそれでよいのです。それでもわからないと言われれば、じゃあ、私と一緒に、教会の礼拝に行きましょうと誘えばいいのです。教会の礼拝にも、いつも、この御言がある意味響いているのですから(この御言の意味に〕。

 そこで、聖書に戻りますが、それほど大切な福音のメッセージを携えられた主イエスが、まず最初に何をなさったのか(今朝は、そこだけに集中します)。

 私たちであったらどうするでしょうか。それだけ大切なメッセージがすでに与えられているのですから、できるだけ多くの人たちに効果的に、効率的に広めたい、そう考えるのが私たち人間の考え方だと思います。当時の社会の中心の地といえば、やはり神殿もあるエルサレムでしょう。ですから、エルサレムに出て行って、社会的にも影響力のある、国を治めている王であるとか、宗教的の指導者である大祭司などを相手に、奇跡を示し、御言を語り、まずそれらの人を説得して、味方につけて伝道するほうが、よほど効率的で影響力も大きいと考えるのではないかと思います。

 しかし、16節以下に記されている主イエスのお姿は、そのように私たちが考えるような行動はなさいませんでした。あるいは、また、お一人で、この伝道のお働きを進めようともなさいませんでした。いちばん最初になさったこと。それは、弟子を集めることでありました。主イエスは、まず何よりも、ご自身の身近に弟子となる人たちを、つまり、ご自分と一緒に生活する仲間を、探すために、招くために出て行かれるのです。しかも、その場所は、誰にも顧みられないような、田舎のガリラヤの周辺であります(16-20節)。

 主イエスは、なぜ、この福音伝道のお働きをおひとりでなさろうとしなかったのでしょうか。ひとりでは、とてもこの働きを進めることができないから、助け手を必要となさったのでしょうか。どうもそうではないようです。私たちも知っておりますように、主イエスに弟子として召し集められた12人は、お世辞にも品行方正で、周りからの評判もよく、知恵あり、言葉にも行いにも力あるような人たちではありませんでした。むしろ、主イエスとの伝道の旅の中で、足を引っ張り、失敗を繰り返し、何度も叱られ、また、主イエスのお心もそっちのけで、いつも誰が一番偉いかということばかりに熱中し、最後には主イエスを裏切り捨ててしまう。かえって、主イエスのお働きの足手まといになるような者たちばかりでした。しかし、そのような、言ってみれば取るに足らないような者たちを、まず、主イエスはご自身のもとに集められ、ご自身のそばに置かれ、そして、一緒に、伝道のお働きを進められるのであります。そして、同時に、この弟子たちを愛をもって、育てて行かれるのであります。ここに主イエスの、あるいは主イエスを遣わされた父なる神の、私たちの常識とは違う、御心が、ご計画が隠されているのであります。

●私たちを必要としておられるのではないか

 私は、子どもの頃から、教会に人が集まらない、伝道がなかなかうまく進んでいかない現状を見ながら、何度もこんなことを考えたことがあります。それは、主イエス・キリストは、なぜ、甦られから後、天に帰られたのだろうか。今も、その甦られたお姿を持って、この地上にいてくださったならば、そこで、聖書に書いてあるような、人々があっと驚くような奇跡のわざをしてくださるならば、もっと多くの人々が簡単に救われるのではないだろうか。この日本にも、いつもというわけにはいかないかもしれませんけれども、昨年でしたかカトリックのローマ法皇が日本に来たみたいに、何十年かに一度でも定期的に訪問してくださり、そして、東京ドームでも、幕張メッセでも、どこでもいい、大集会を開けば、そこに、たくさんの人々が集まってきて、もっと簡単に救われるのではないだろうか。そしたら、こんなに、伝道がうまく行かない、なかなか救われるものが起こされないことで悩む必要もないのではないかと。

 しかし、それは私の大きな勘違いでありました。教会を改革したマルティン・ルターという人は、こう言いました。主イエスが肉体を持ってこの地上に居られたときは、かえって、私たちから遠い存在であった。むしろ、天に昇られて、見えない霊の存在になられることによって私たちにとって身近な存在となってくださった。今は思います。本当にその通りだと。だってそうでしょう。毎年12月になると主イエスのご降誕を祝うクリスマスを世界中の教会で家庭で行います。しかし、もし、主イエスが、今もエルサレムに、あるいはベツレヘムにおられるというのであれば、そこに行って、実際にお会いすることができないならば、私たちのクリスマスの喜びは、半減してしまうかもしれない。

 主イエスがおられるところに行けるような限られた人たちだけが、本当のクリスマスの喜びを味わえるのであって、そうでない一般の私たちは、せいぜいその様子をテレビかネットか何かで眺めがら、ある意味ひがみと羨みの思いが入り混じりながらのお祝いするだけであるかもしれない。

 しかし、今、主イエスは、天に昇られて目に見えない存在となられることによって、いつでもどこでも、私たちと共にいてくださるのですから、何万、何千万、何億という人たちが、同時にクリスマスのお祝いをしているそのところに、主イエスが共におられると信じることができるのであります。毎週行われる礼拝もそうです。私たちは、ここに主イエスは居られないのだけれども、遠い、エルサレムの地におられることを思いながら礼拝を捧げているのではありません。

 今、ここに、甦りの主イエスが生きて私たちの真ん中に立って、この礼拝を喜んで受けてくださっているのです。その目には見えない主イエスが、今、御霊を通して、私たちと共にいてくださることを信じさせていただけるのです。そのために、ペンテコステの出来事が起こったのです。そこにキリストの教会が誕生したのです。

 だからこそ、現代においても、神は、目に見える存在である私たちを通して、手で触れることができる私たちの教会を通して、この時代、この八街の地に、主イエス・キリストが確かに生きて働いておられることを、証してくださっているのです。だから、この地上に主イエスを信じる群れが、どうしたって必要なのです。だからこそ、主イエスがその伝道の初めになさったことは、他のなんでもない、弟子を集めることでありました。

 私たちは天国に行くためだけに救われたのではないのです。この神の使命、神の御心を私たちの存在を通して、この世に目に見える証として示すためにも救われたのです。そして、救われるとは等しく、主イエスの弟子とされることです。主イエスの弟子とは、この存在をもって、今生きておられる主イエスを証する者のことです。私たちは毎週の礼拝を通して、神が生きておられることを、主イエスが生きておられることをこの世界に私たちの存在を通して示しているのです。

 神が、この世界を、今も愛してくださり、救いへと導き続けてくださることを、私たちの存在をもって証させていただくのであります。

 私は、教会に与えられている使命、それは礼拝と伝道だと信じています。もちろん、その他にも、愛のわざの実践として慈善事業、社会貢献もあげられるでしょう。しかし、それらのことは、教会でなくても行うことができるし、実際になされています。

 しかし、教会にしかできないことがある。それが、やはり、礼拝と伝道だと思うのです。礼拝をしない教会は教会でないということは、誰もがわかることでしょう。だから、私たちは、暑さに耐え、寒さに耐えながらも礼拝を献げることをやめない。コロナであっても、いろんな方法を用いて、礼拝を捧げることをやめない。

 しかし、それはまた、同時に、伝道をしない教会も教会ではないのです。それも分かりきったことのようでありますが、その伝道とは、牧師だけがすることではないのです。やはり、教会に生きるすべての者が、伝道に生きる使命が与えられています。

 しかし、キリスト者としての使命が、礼拝に生きることであるということはわかるけれども、伝道ということになると、どうも、外に出て行って、伝道する勇気もないし、ましてや何をどう語っていいか、わからないし、聖書の知識も乏しいから、自分には関係ないことにしたいと思われる方もあるかもしれません。あるいは、逆に、昔のように、伝道集会を毎月のように開いて、そのためのチラシを巻いて、たくさんの人を集めてということも、今の時代あまりなされなくなってきました。そういう意味で、自分は、教会は、今、伝道しているだろうかと悩まれる方があるかもしれません。私たちは伝道と聞くと、ある決まったパターン、姿ばかりを思い浮かべてしまうかもしれません。また、誰かを導くといったら、自分が、責任をもって、最初から最後まで導き通さなければならないと、つまり、洗礼を受けるまで導かなければならないと、気負ってしまうところがあるかもしれなせん。しかし、教会の使命として礼拝と伝道があるといったときに、それは、礼拝がひとりですることではように、伝道もまた教会のわざとして、みんなですることなのです。そして、そのなかで、私にできることをできるなりにさせていただくということであると思うのです。

 その上で、私たちができることとはなんでしょうか。私たちが救われたのが、目に見えない神を、目に見えない主イエスを、今生きておられるお方として証するためであるとするならば、そのあなたでしか伝えられない人がいるのではないでしょうか。それは、まだあったこともない不特定多数の人々を考えるよりも何よりも、私たちにとっていちばん身近な存在こそが、あなたにとっての伝道すべき相手として、主が備えてくださっているのではないでしょうか。

 私には三人の娘がおります。長女は中学3年生になりました。この子が赤ちゃんだった時に、妻と三人で、有志の牧師が集まってする学び会に参加しました。そして、その学びが終わって帰ろうとしていた時に、玄関先のところで学び会に出席されていたある牧師が、私の娘に目をやりながら、「この子は、いちばん身近な求道者なのよね」と言われました。この言葉は、私に大きな衝撃を与えるものでした。そうか、私の娘は、私にとっていちばん身近な求道者なのだと。

 牧師の家庭に生まれ、育っていく私の娘。これから当然のようにして教会生活を送っていく娘。しかし、だからと言って、最初から救われた者ではない。あるいは、自然に救われるということでもない。

 ということは、この娘に対して、最初からキリスト者として接するということではなくて、求道者として接していくことを、そこで、重く受け止め直したことを今でもはっきりと覚えています。この娘はまだ救われていないからと言って差別するということではなくて、もちろん、神の救いのみ手の中に捉えられていると信じつつ、しかし、本人がまだそのことを自覚的に受け止めているわけではないということをいつも心に留めるようにしました。だからと言って、特別熱心に伝道したというわけでもなく、信仰教育を特別にしたというわけでもありません。ただ、教会に繋がり続けることが大切だと思っていましたから、教会に繋がる喜びを伝えて来たつもりではありますが。どのように洗礼へと導かれるのだろうかというのは、親であり牧師である私たち夫婦にとって、それは量り知ることのできないことでした。

 さいわいにして、娘が小学校4年生の時に参加した教区のキャンプをきっかけに受洗の恵みに預かることができました。娘が洗礼を受けるということを聞いた時に、牧師である私がびっくりしました。そして、妻が洗礼の準備の学びをしたのですけれども、聖書のことに、信仰のことに子どもながらに、関心をもって積極的に学んでいく姿に、驚かされました。そして、娘が導かれていく姿に、牧師である親が疑うぐらいでしたけれども。改めて、人が救いに導かれるのは不思議だなと思わされました。やはり、それは、奇跡としかいいようがありません。

 主イエスが弟子たちを召された場面の書き方もとても不思議です。弟子たちを見て、声をかける。声をかけられた弟子たちは即座に行動に移して従う。いろいろと情報が抜けているので読んでいる方は戸惑ってしまいます。少々乱暴な感じを抱かないわけではありません。ですから、読んでいる方としては、多少の想像の羽を伸ばして、ここに至る経緯を考えたくなります。たとえば、ペトロにもここに至るまでの悩みや葛藤があったのではないか。ヤコブやヨハネにも人生において、いろんな挫折を経験し、悩みを抱えていたのではないだろうか。そういう揺れ動く心というのは、私たちにもありますから、そのようなさまざまな手続きを経てのこの箇所の出来事なら安心して、納得して読むこともできるのです。また、実際にはそう言ったこともあったかもしれない。しかし、ここで注意したいのは、この出来事を書いたマルコはそう言ったことにはいっさい、興味を示してくれていないということであります。それは、つまり、この出来事を読む教会の者たちに知ってもらいたい点が別にあったということであります。それは何か。ただ、主イエスのなさり方に注目するのです。そして、その主イエスの招きに従う弟子たちの姿だけを描くのであります。

 私たちも入信のきっかけとはさまざまであろうと思います。教会の中での何よりも楽しみのひとつは、どのように救いに導かれたということを聞くことにあります。たいへん励まされるし、心動かされるし、感動します。牧師は、まさに、その導きに側近く立たせていただくので大きな恵みであります。しかし、そのように、信仰に導かれていく人の姿を側で見ながら、あるいは、救われた方の証を聞きながら、思わされることは、そこに、必ず飛躍があるのです。言葉ではうまく説明できない、筋が通らないとは言わないけれども、そこに、自分でも驚く変化を体験させられる。それは、私たちの理屈だけでは、完結しない、説明しきれない、神のみわざが働かれるからです。

 ですから、伝道とは、最初にも申しましたように、これはをやればみんな救われるというような方法はありません。これをやれば必ず人は救われるという方法はないのです。伝道にとって、とても大切なことは、いつでも、私たちできることはここまでとわきまえておくということであると思います。ここから先は、神さまの領域。神ご自身のお働きを導きを期待しつつ、その上で、私たちにできることを精一杯、なんでもやらせていただければいいと思っています。

 むしろその神さまの領域にまで人間が踏み込もうとすると、マインドコントロールと呼ばれる、相手を支配し、洗脳して救いに導くということにもなってしまうのです。しかし、私たちはそれをしない。どこまでも、神のお働きに信頼しつつ、今、私にできることがだけをさせていただくのです。

 確かに、身近な存在ほど、伝道するのは難しいと思われるかもしれません。しかし、最終的に救いへと導いてくださるのは神さまなのですから、そこに信頼しながら、気負うことなく、キリスト者として生きている姿を示せばいいのです。そのために、私たちが信じるお方、神が、主イエスが、どのように働かれるのかを、私たちもまた、知っておく必要があるでしょう。

 そのことを、このマルコによる福音書は集中して示してくれている。主イエスの側のお働きを見てみましょう。16節、「イエスは、ガリラヤ湖のほとりをあるいておられた」とあります。これは、なんとなく、ガリラヤ湖の周辺を散歩されていたというのではありません。あるはっきりとした目的があって歩かれる。そう、弟子となる者を招くために、主イエスご自身が、歩いて、主イエスの方から近づいて行かれるのです。私たちも、主イエスに尋ねていただいた者たちです。私たちの方から救いをもとめて、教会の門を叩いたとか、聖書を買い求めて読んだとか、あるかもしれません。しかし、それに先立って、主イエスの方が、私たちに歩み寄ってくださるのです。私たちが伝道するために備えられている隣人にも、実は、すでに、主イエスが、尋ねてくださっている。そう考えるだけでも、勇気が湧いてきます。

 次に、「湖で網を打っているのを御覧になった」とあります。19節にも「また少し進んで」とあり、後半に「網の手入れをしているのを御覧になった」とあります。この「御覧になる」という言葉は、ぼんやり眺めるという言葉ではなく、視察する、観察するという言葉があるように、じーっと、よーく、集中して一点を見るという言葉です。主イエスは、ご覧になるのです。ペトロをアンデレを、ヤコブをヨハネを、その心の奥深くにある思いも課題も悩みの何もかもご覧になってくださる。そして、知っていてくださるのです。私たちのことも、何もかも見ていてくださる。よーく見て、私たちのことをよく知っていてくださるのです。祈る前から、私たちに何が必要なのかを、いつも知っていてくださるお方であります。ひとりひとりを見ていてくださるのです。

 そして、17節「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』。と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った」。20節「すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」。主イエスが声をかけられる。主イエスに声には、権威と力がある。主イエスに声をかけられたら従わざるを得ない。そのことが、ここでも際立っています。そして、私たちもこの一点に集中するのです。救いの確信の根拠をおくのです。私たちが今あるのは、まさに、この主イエスにみ声をかけていただいたからです。

 声をかけられたら弟子たちは従うのです。気にかかある家族の救い。そこにも、主が声をかけてくださる。そして主が声をかけられたら、従わざるを得ないと単純に信頼すればいいのです。私たちもそうです。時に、教会の働きをなんのためにやっているのか。なぜ、毎週礼拝に来ているのか、誰かに尋ねられたり、あるいは自分でも疑問に思うことがあるかもしれない。しかし、そこで、主イエスがそう生きるように、私を召してくださったのだから、私はこう生きると単純に、素直に信じてこれからも、教会の働きに励めばよいのです。

・すべてを捨てての意味。主の弟子として家族に仕事に遣わす主イエス。

・この後の弟子たちの姿と私たちの姿。

 このように、主イエスと旅する経験こそが、この福音書の言葉を生んだのであります。私たちもそうじゃないでしょうか。具体的な生活の中で主イエスにお従いする。そこで悩みも葛藤も疑いも挫折も経験します。しかし、それらは悪いことでは決してありません。そこで、私たちは、その悩みも葛藤も疑いも挫折も抱えたまま、この主イエスとの愛の対話のなかに、私たちの存在そのものが巻き込まれていくのです。そこで、示された主イエスのお姿、お言葉が、私たちを励まし、慰め、立たせ、また、先へと歩ませてくださる。そういう体験を積み重ねていくことそが、主の弟子としての私たちの姿だと思います。もちろん、何年も何十年も解けない問題を抱え続けることだってあるでしょう。何年も何十年も聴かれない祈りの課題もあるでしょう。

 しかし、それでも主に信頼しながら従っている私たちの姿が、同じような悩みや葛藤や疑いや挫折を経験する者たちを励まし立たせ生かすのではないでしょうか。それは、私たちの姿や言葉や経験が素晴らしいからではありません。いろんな課題や問題を抱えながらも、希望に私を生かし立たせてくださる主イエスのみわざこそが素晴らしく、力があるからです。私たちはただ、愛する家族に、愛する友だちに、愛する仲間に、この主イエスをご紹介してくだけです。

 次世代の働きとは、そうなるとどの世代でもということができるでしょうか。先に救われた者が、これから救われる者の元へと遣わされていく。主イエスによって。私を遣わしてくださる主イエスの言葉と、主と対話、出会いの経験を携えて遣わされていく。遣わされた先で、寄り添い、後ろから支え、時には前に出て導きながら、同じ主を見上げ、主に従うものとして、教会に与えられた子どもたちを、求道者される方々を丁寧に導いていくのです。そこで、導かれた方々が、今度は自分が導き手となって、自分が遣わされた場所で、自分がしてもらったように、主の弟子として生きていくのであります。

 私たちは、神を神として認めない世界に、神を信じる者として生きています。それはとても厳しいことであるかもしれません。しかし、その世界において、主イエスと出会い、主イエスにみ声をかけられ、主イエスに従う者として変えられた私たちです。そして、また同じように、主イエスと出会い、主イエスにみ声をかけられ、主イエスに従う者が起こされ、その救われる姿を、目の当たりにする特権が、私たち教会には与えられているのです。その場面に立ち会う時に、私たちは、ああ、神は確かに生きて働いておられると、さらに深く信じることができる、さらに確かに知ることができるのであります。 

 その意味では、私自身、私たち自身が、いつもこの恵みのど真ん中にいるのだということを心から感謝したいと思います。だから、伝道は楽しいのです。主イエスにお従いしていくことは喜びです。私を捕え導く主の言葉に私たち自身が生かされているのですから。

 私についてきなさい。私に従いなさいと、今日も主イエスは、皆さんおひとりおひとりに語りかけておられます。あなたの身近な求道者はだれですか。その方は、あなたではないとこの主イエスをご紹介することができない存在かもしれません。そのことを、重く受け止めると共に、だからこそ、主の力強い権威に満ちた言葉に信頼し、支えられながら、これからも主に喜んで従う者として共に歩んでまいりましょう。