• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年7月30日主日礼拝 溝口寛師

説教題:主の祈り-祈りにおける真実 聖書箇所:マタイによる福音書6章1-18節 

 主の祈りは、イエス様がこのように祈りなさいと教えてくれたもの。クリスチャン以外の方にも知られているが、日本人にとっては、日常生活において「祈る」と言うことはあまりないのではないだろうか。仏壇や初詣の時に祈ることはあっても、祈りをささげている対象がどんなものかよく知らないで、習慣によって祈っている、そして自分の願いだけを求めているものではないか。それは本当の祈りとは違う。まだ祈りがよくわからない方もおられると思うが、共に「主の祈り」を学び信仰の成長を願う。主の祈りはマタイ6:9-13,ルカ11:2-4に記されている。ルカは簡潔、マタイは言葉が整っている。今日は、イエス様が教えてくれた祈りにおける真実、本当の祈りについて学ぼう。祈りとはクリスチャンにとってはごく自然なことだが一般の日本人にとっては稀なことであろう。約50年前の私たちの結婚式の時に「ミレーの晩鐘」をおくった。一日畑仕事をした夫婦が心を合わせて祈り合っている絵は美しいものであり、自然なものである。このような祈りを私たちの日常生活に見ることはないのではないか。祈りが日常生活に溶け込んでいない。特別なことになっている、ここに今日の日本の悲劇を見る。魂の生活に大切なものが欠落している。真の神に対する信仰、祈りの欠落。欧米の方々と内面の生活の違いを思う。当時のユダヤ人は9時、10時、3時に祈りをしていた。ユダヤ人たちの祈りに対する情熱に見習うべきであろうが、習慣に過ぎなくなってしまうようでは本来の意味を失ってしまう。

主の祈りの特色を見ていこう

①6:5-8偽善者(神を忘れ、人に見せる祈り)や異邦人の祈り(神を知らず、言葉数が多ければ聞かれると言う強引な祈り)のようであってはならに。主が教えた祈りはまず信頼の祈り、生きておられる神、全能の神、祈れば応えて下さる神として信頼して祈る。天にいますわたしたちの父よ、と呼び掛けている。天の父は隠れて所を見て報いてくださる。

②霊的な祈り神との正しい関係 まず神のみ名が、栄光、御心があらわされるように、まずそのことを祈る。

③倫理的な祈り 神のみ名が世界中に及ぶ、神の愛と聖なるみ旨が世界になされるように。その次に、私たちの日常生活に関するもの。日ごとの糧、私たちの罪の赦し、他人を赦し、隣人との正しい関係がなされるように祈る。

主はここで二つの誤った祈りについて教えている

偽善者の祈り 人に見られたくて会堂や大通りの辻に立って祈る祈り、施し、祈り、断食、これはユダヤ人の3つの柱だった。この最も大切な善行に対して、人から褒められたいと言う偽善が入る、神を忘れて人を気にするようになる。しかしそのような祈りは神に聞かれない。自分の部屋に入り戸を閉めて、隠れたところにおられる父に祈れと主は言われる。異邦人の祈り くどくど繰り返して祈る、考えなしに祈る。異邦人(ユダヤ人以外、真の神を知らないで祈る)太陽や山やいろいろなものに向かって祈る、気分や習慣によって祈る。相手の意志を認めないで自分の願いを押し付ける欲深い祈り。あなた方の天の父は願う前から必要なものをご存知であるから、確信をもってみ旨を求めて祈りなさいと教えてくださっている。祈りには信頼関係がある。時には子どものように駄々をこねてもよい。信頼関係からの祈りは神に喜ばれる。密室における祈りは喜びであり、天国における恵を体験する時である。「あなた方の心を神の前に注ぎだせ」信仰もち始めでよくわからなくてもどんどん祈っていくときに信仰生活の力となる。

祈りの確信について私の証

瀬戸内海の小さな島から、東京のミッションスクールに来て初めてキリスト教を知る。大学1年の時礼拝や祈祷会に出るようになった。そこに集まっている兄弟姉妹たちは自分と違うものを持っていると感じていた。キャンプに出た時心に深く迫るものがあった。聖書の神を信じることのすばらしさを、彼らの中に感じ、自分もクリスチャンになりたいと思った。しかし自分は彼らのように祈ることができない。神様がまだよくわからないが、その状態で祈っていた。「求よ、そうすれば与えられる、探せ、そうすれば開けられる。門をたたけ、そうすれば開かれる」と信じて祈っていた。夏休みで帰省した時、この生ける神と出会い、自分が新しく変えられてという事件があった。東京に変えるとき、姉たちに梅干しをもって行けと言われ、大きな荷物を抱えて帰った。大阪で乗り換えるとき、プラットホームに行くと大勢の人が並んでいたが大変疲れていたので、最後尾に並ばずに途中に割り込んでしまった。その時神の声「お前は何をしているんだ」。自分の声「いいえもう疲れて動けません、、、」そうこうしているうちに汽車が入ってきて、みんなが飛び乗ろうとした。自分も飛び乗ろうとしたとき、梅干しの瓶がぶつって割れて、中の梅干しと汁が飛び散ってしまった。あたふたしていると、駅員が来て、後は片づけるから早く乗るように勧めてくれ、汽車に乗った。そうすると、混雑している汽車の中でちょうど一つだけ席が空いていてそこに座ることができた。ほっとすると涙が出てきた「神様、私は罪人です。自己中心なものです。今自分の罪がわかりました。私を許してください。これからあなたに従っていきます」と祈った。神様は真実に私を導いて下さり、このような私を用いてくださって、伝道者として佐原教会で50年近く働かせてくださった。神は真実なお方。求めるものに応えてくださる。隠れた所を見ておられる神に信頼して、絶えず祈ろう、祈れない時も、祈れるように導いて下さる。自分の必要のために、またこの世界のために、この世界が頭を垂れ真の神を求めていけるように祈ろう。