• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年7月9日主日礼拝

説教題:誇る者は主を誇れ!聖書箇所:コリントの信徒への手紙一1章26節-2章5節

1:26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 1:27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。 1:29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 1:30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。 1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。 ◆十字架につけられたキリストを宣べ伝える  2:1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。 2:2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。 2:3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 2:4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。 2:5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

ハレルヤ!7月の第二主日を迎えました。私たちの教会では、コリントの信徒への手紙一を講解で学んでいて、今日は四回目です。先週のおさらいから始めましょう。18-25節から「十字架の言葉~キリストは神の力、神の知恵」と題し三つの事を中心にお話をしました。①十字架の言葉とは福音、②十字架の理解は信仰のみ、③神の力、神の知恵であるキリストを述べ伝えるでした。皆さんは誇るものがありますか。世の中の人は様々なものを誇りとしています。家柄、学歴、勤務先、収入、容姿などきりがありません。しかし、人が本当に誇れるものはたった一つです。今日は続く1章26節-2章5節を通し、「誇る者は主を誇れ!」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①誇る者は主を誇る

26節から順番に見て参りましょう。1:26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。「思い起こしてみなさい。」とあります。パウロは十字架の言葉とこの世の知恵が相容れないものであることを教えるために、コリント教会の人たちが信仰を持った時のことを顧みるように伝えます。コリント教会の人たちがキリストを信じたのは神の召しによることであり、この世の知恵や身分によるものではないのです。「家柄のよい者が多かったわけでもありません」とあるように初代教会時代に社会的地位の高い人や富裕層の人たちが全くいなかったわけではありません。たとえば地方総督セルギウス・パウルスがそうです。開きませんが使徒言行録13章6-12節に記されています。しかし、多くの信者は社会的地位が低く、経済的にゆとりのない方だったのです。27,28節を見てみましょう。1:27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。 1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。人間的な知恵や能力は救いの妨げになることがあります。必要なことは神の知恵と力に頼ることなのです。自分こそが神に選ばれる資格があるなどと自惚れている賢者、富裕層、権力者は神の選びに預かることなく、かえつて辱められることにもなるのです。むしろ神は「世の無学な者を選び、世の無力な者を選ばれ、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれ」とあるように三度も選びについて語り、神の主権を強調しています。「世の無学な者、世の無力な者、身分の卑しい者や見下げられている者」を言葉を換えて言えば「神のみにたよる者、神しか頼ることの出来ない者」と言えます。29節を口語訳聖書と共に見てみましょう。1:29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。1:29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。(口語訳)29節は、神が「世の無学な者、世の無力な者、身分の卑しい者や見下げられている者」を選ばれる理由です。口語訳では「どんな人間でも」とあります。人間である以上、多くの弱さがあります。生まれながらの罪、本質的なものへの無知などです。その人間が全知全能の「神の前で誇る」ことなどあり得ないのです。ですから、「神の前で誇る」とは滑稽を通り越して悲劇とさえ言えるでしょう。30節を見てみましょう。1:30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。無に等しい人間が救われたのはただただ神の恵みによるものです。「キリスト・イエスに結ばれ」るということはキリストの体の一部となることです。罪の奴隷という暗黒にいた者がキリストの体の一部になるなどということは「神によって」しかなしえないのです。30節の後半に「キリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」とありますが、キリストにあって与えられるものには「義と聖と贖い」という三つの要素があるのです。先ず、義」です。神が私たち罪びとに対して要求する義をキリストが完全に満たしてくださったのです。人は信仰によって義と認められるのです。神学用語でいえば信仰義認です。この義についてパウロはコリントの信徒への手紙二5章21節で次のように記しています。 5:21 罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。十字架の御業によりもたらされた賜物です。次が「聖」です。信仰によって人は聖なるものとされるのです。神学用語でいう聖化です。義とされた信仰者が、聖と義との神の御像に変貌されてゆくことでその完成は再臨です。これも十字架の御業によりもたらされた賜物です。最後が「贖い」です。贖いとは元々、奴隷を自由の身とするために代価を支払うことです。悪魔、罪の奴隷であった私たちを解放するために、主イエス・キリストが十字架上でその代価を支払ってくださったのです。その代価とは十字架上で流された血なのです。31節を見てみましょう。1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。「誇る者は主を誇れ」はエレミヤ書9章23節からの引用です。 9:23 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。人間は神を信じる以外に自分の誇り高ぶりを取り去ることは出来ないものです。人間が自分の知恵を信じ、自分の力を頼り満足をしていくところに滅びの道があるのです。人間には愚かと見える福音の中に神の知恵があり、救いがあるのです。そして、それはただ神の恵みによってのみ与えられるのです。ですから、人間は自分の取るに足らない知恵や力を誇ってはならないのです。信仰による救いを体験しているキリスト者は、心から主を誇りたくなるものなのです。キリスト者には主イエス以外に誇る者は何もないのです。栄光は主イエスのみにあるのです。詩編20編8節には次のように記されています。アライブ訳と一緒に見てみましょう。 20:8 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが/我らは、我らの神、主の御名を唱える。20:7国々は軍隊や武器を誇りますが、私たちは私たちの神、主を誇ります。新共同訳聖書では表題が一節になっていますので、Alive訳等の聖書は7節になっています。今日、先ず覚えて頂きことは誇る者は主を誇るということです。

②福音の中心は十字架

2章1節を見てみましょう。2:1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。キリスト教会における分派や争いを防ぐためには、その源となっている人間崇拝の問題を正さなければなりません。それゆえ、パウロは最初に自分がコリントの教会を起こしたときにどのような説教をしたかをコリントの信徒たちに思い起こさせようとするのです。「優れた言葉や知恵を用いませんでした」とあります。パウロはギリシャ文化の素養を身に着けたことのある知的な人物です。「優れた言葉や知恵」に長け、雄弁術を使うこともできたでしょうし、巧みな修辞を用いることもできたでしょう。しかし、パウロはコリントの地でそれをしなかったのです。その理由が続く2節です。 2:2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。パウロは「優れた言葉や知恵」を使いませんでした。福音は、美しい言葉でも思弁的な哲学でもなく、単純な言葉で語られるイエス・キリストとその十字架の事実であることをわきまえていたからなのです。罪に滅びゆく人を救うことが出来るものは「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外」には何一つないのです。福音、キリスト教の説教とは十字架につけられたキリストをありのままに説くことに他ならないのです。どんなに大衆受けする説教でも十字架の福音を捨ててはならないのです。ある説教学の先生から説教で「十字架と復活は必ず語りなさい」と習いました。説教の中心は福音です。私たちが所属する日本ホーリネス教団では四重の福音を掲げています。新生、聖化、再臨、神癒ですが、福音の中心は十字架の御業なのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは福音の中心は十字架ということです。パウロは、一意専心、わき目もふらず十字架のキリストを説きました。その理由がガラテヤの信徒への手紙に記されています。3章1節の後半を開いてみましょう。3:1b目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。3節を見てみましょう。2:3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。3節はパウロが最初にコリントに行ったときの心の状態が描かれています。「衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」とあります。実際、パウロが初めてコリントにやってきたのは、ひどい落胆を経験した後でした。先ず、フィリピにおいて物事が順調に進むと思われましたが、狂信的なユダヤ人の反対に遭って押しつぶされてしまいました。続くテサロニケでもベレヤでもことは同じでした。次のアテネでは多少の進展がありましたが、成功とは言えませんでした。そしてコリントに来たのです。このことは開きませんが、使徒言行録16-18章に記されていますので、後ほどお読みください。この伝道旅行の同伴者はシラスとテモテでしたが、二人はマケドニアの働きに忙殺されていて、パウロは孤独だったのではなでしょうか。また、説教者には常に不安が付きまとうものなのです。救世軍の創立者のウイリアム・ブース師は非常に優れた説教者でしたが、講壇に上がる前はいつもブルブルと震えていたそうです。その理由ですが、説教すべき内容はあまりに高く確かです。しかし、説教者自身はあまりに弱く無力なので、恐れと不安を抑えることが出来ずにブルブルと震えていたというのです。ある名人と言われる落語家も高座に上がる前は胸が締め付けられるほど緊張していたと聞いたことがあります。名説教者や名人と言われる人ほどそうなのかもしれません。4節を見てみましょう。2:4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。パウロは人間の知恵と力の限界を良く理解していました。人間の知恵と力に頼らず神の知恵と力に頼りつつ、十字架上の出来事を修辞法、レトリックな表現を用いずにシンプルに率直に語ったのです。それは知識をひけらかす人には愚かに思われるもしれませんが、「“霊”と力の証明」だったのです。言葉の巧みさや雄弁さはなくとも、霊、聖霊には人の心をうち、信じた者の生活を一変させる力があるのです。テサロニケの信徒への手紙一1章5節には次のように記されています。見てみましょう。1:5 わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。イエスキリストにまつわる出来事は霊によるものです。それを理解するには聖霊の働きが必要となるのです。

③福音が語られるときに神の力が働く

5節を見てみましょう。 2:5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。信仰は決して人為的なものではありません。パウロは技巧を用いて美しい話をしたわけではありません。ありのままのキリストとキリストの十字架を説いたのですが、神の力が働きコリントの人々は信仰を持つことができ、コリントの地に教会が生まれたのです。誰であっても人が信仰に入るのは、突き詰めて言えばただ神の力によるものなのです。そのことをコリントの人たちもわかっていたはずです。それならば人間崇拝をし、分派、派閥をつくるなどなんと愚かなことだと言外に伝えているのです。最後に日本を代表する福音派牧師、大衆伝道者、ラジオ牧師の羽鳥 明(1920年 – 2017年)先生と弟の純二先生が経験されたお証をご紹介したいと思います。羽鳥先生は弟の純二さんが救われることを長年祈っていました。ある日、純二さんを伝道集会に連れていったのですが、そこでは、方言丸出しの牧師が説教をしていました。純二さんは東大の理学部を卒業し共産党の幹部ですので、羽鳥先生はもっと知的な話をして欲しいと思い、翌日は別の説教者が来ることを期待して伝道集会に連れて行きました。すると前日と同じ牧師がただただ次のように語っていたのです。「キリストは罪びとのために死んだ。そして三日目によみがえった」という説教です。羽鳥先生は、これでは弟の心を頑なにするだけと思い連れて帰ろうとしたのですが、そのときその牧師が「イエスキリストを信じる方は手を挙げてください」と招いたのです。すると驚くなかれ、純二さんは涙を流しながら手をあげたのです。その後、純二さんは献身し長らく牧師をし、また東海聖書神学塾の塾長もしていました。2012年に召天されています。羽鳥明先生は5年後の2017年に天国にいかれました。イエスキリストの十字架の贖いが率直に語られるところに神の力が働いて人間に変革をもたらすのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは福音が語られるときに神の力が働くということです。

Today’s Take-away

①誇る者は主を誇る、②福音の中心は十字架、③福音が語られるときに神の力が働く

Thinking Time 十字架以外のものを福音の中心にしていませんか