• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年8月20日主日礼拝

説教題:キリストという土台~信仰をもって教会を建て上げる~ 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一3章10-23節(新共同訳新約302-303p)

3:10 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。 3:11 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。 3:12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、 3:13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。 3:14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、 3:15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。 3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 3:17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。 3:18 だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。 3:19 この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、 3:20 また、/「主は知っておられる、/知恵のある者たちの論議がむなしいことを」とも書いてあります。 3:21 ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。 3:22 パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、 3:23 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。

ハレルヤ!8月の第三主日を迎えました。私たちの教会では、コリントの信徒への手紙一を講解で学んでいて、今日はその七回目です。先週は美恵子牧師に御言葉を取り次いで頂きましたので、前回のおさらいから始めましょう。3章1-9節から「成長させてくださるのは神」と題し三つの事を中心にお話をしました。①キリストにある幼子、②成長させてくださるのは神、③万物が主の物でした。今日は続く3章10-23節を通し、「キリストという土台~信仰をもって教会を建て上げる~」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①イエス・キリストが土台

10節から順番に見て参りましょう。3:10 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。「土台を据えました」とあります。コリント教会を創設したのはパウロです。パウロがコリントの地で開拓伝道をしたのです。前節の9節でパウロはコリント教会の信徒を「神の建物」と言いましたが、建物にとって一番大事なものは土台です。主イエスご自身も土台の大切さについて次のように述べています。マタイによる福音書7章24-27節を開いてみましょう。(並行箇所:ルカによる福音書6章47-49節) 7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。 7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。 7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」10節に「熟練した建築家のように」とありますが、パウロは自分自身の自慢をしているのではありません。この世の建造物でさえ「熟練した建築家」の知識が重要であるとすれば、「神の建物」である教会を建て上げて行くのに人間の知恵では出来るはずがないことを語っているのです。「神の建物」である教会を建て上げることは「神からいただいた恵みによって」可能となるのです。パウロは土台を築きました。「そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです」とあるように、パウロは後継者に教会の建て上げ方、伝道の仕方に注意するよう勧告しているのです。11節を見てみましょう。3:11 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。パウロによって教会の土台は置かれました。この土台は絶対的なもので、勝手に取り換えることのできないものです。何故なら、イエス・キリストが教会の土台だからです。土台は何事においても大事です。帝国ホテル(明治期)はアメリカのライトという名の建築家によって建設をされました。ライト式建築法と呼ばれる工事ですが、基礎工事に莫大な費用をかけるのが特徴です。それほどのものが必要かとの意見もあったそうですが、1890年の開業から33年後に関東大震災が起こり、基礎の大切さがわかりました。東京のほとんどの建物は倒壊しましたが、帝国ホテルだけはびくともしなかったのです。逆に、太平洋戦争末期の日本のキリスト教会で土台を間違えたことがありました。戦争に勝つためには、お寺も神社もキリスト教も一体となって祈る必要があるということで、礼拝堂に「南無キリスト大明神」という垂れ幕を掲げて、戦勝を祈願していた教会もあったのです。南無(仏教)とキリスト教、大明神(神道)を融合した教えです。日本的キリスト教を唱える人たちによるものでしたが、敗戦とともに霧が消え去るごとく姿を消してしまったのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはイエス・キリストが土台ということです。 キリストは教会の土台であると同時に教会の主なのです。コロサイの信徒への手紙1章18節を見てみましょう。 1:18 また、御子はその体である教会の頭です。たとえどんなに豊かなものでも、キリスト以外のものが土台となっているのなら、それは断じてキリスト教会ではないのです。キリストという主を迎えるにあたり、このキリストという土台の上にどのような材料で建物を建てれば良いかが12節以降に記されています。

②信仰をもって教会を建て上げる

12,13節を見てみましょう。3:12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、 3:13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。「金、銀、宝石、木、草、わら」とあります。キリストという土台の上に築かれる建物は立派なもの、しっかりしたものでなければなりません。そのためには材料が重要です。「金、銀、宝石」は強くて良い材料ですが、「木、草、わら」は弱くて役に立たない材料です。この「金、銀、宝石、木、草、わら」という材料は教会堂を建て上げるための物質的な材料ではありません。コリントの人への伝道の在り方、信徒を整えるために必要な信仰の在り方を比喩的に用いているのです。パウロが作った土台の上に後継者がどのように牧会、伝道するかは自由かもしれません。しかし、「おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。」とあるように「かの日」、最後の審判のときに「おのおのの仕事」、牧会、伝道が試されるのです。キリストという土台の上に伝道し教会を建てる者は、自由にどんな建物も作ることはできますが、さばきの日に堪え得る信仰を築くような牧会、伝道をすべきであると警告をするのです。「かの日が火と共に現れ」とあります。粗悪な建物は火によって焼き落ちてしまいますが、良質の材料で作られた建物はその火にも耐えることができるのです。良質の材料とは信仰の質です。信仰の在り方が問われているのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは信仰をもって教会を建て上げるということです。

14節をアライブ訳と一緒に見てみましょう。3:14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、3:14そして、その土台の上に適切な材料を使って建てた人は、建物があとに残るので、報酬を受ける。(アライブ訳)「報いを受けます」はアライブ訳では「報酬を受ける」と訳されています。口語訳と新改訳もそうです。様々の試練に遭いながらも、救い主イエス・キリスト、御言葉を土台と信仰を働かせ牧会伝道をし続ける。そして、その主の働きの結果が残ったとすればこれほど嬉しいことはないと思います。更に「報い、報酬」まで頂けるのです。この報酬がいつ、どこで、どのようにして与えられるかはわかりませんが、必ず与えられるのです。マタイの福音書25章21節前半を開いてみましょう。25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。主エスとお会いするときにこのように言われるとしたら、これも大きな報酬ではないでしょう。15節もアライブ訳と一緒に見てみましょう。3:15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。3:15しかし、自分が手掛けた部分が焼けてしまった人は、大損害をこうむる。ただその人自身は、炎の中をくぐり抜けるように、命からがら救われる。(アライブ訳)「損害を受けます」とありますが、賃金をもらい損ねるという意味です。救い主イエスキリスト、御言葉を土台としない、信仰を働かせない牧会伝道者は賃金がもらえないのです。「大損害をこうむる。」のです。続いて、「炎の中をくぐり抜けるように、命からがら救われる。」(アライブ訳)とありますが、「救われただけで、それ以上はなにもない」という意味です。救いの恵みに預かるだけで賃金は頂けないのです。さて、私たちはどうでしょうか。伝道、牧会の在り方を探ってみようではありませんか。16,17節を見てみましょう。3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 3:17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。「自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」とあります。聖霊は個々のキリスト者の中に住まわれるお方です。ヨハネによる福音書14章17節を見てみましょう。14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。神学用語でいう内住の聖霊です。そのことと同時に、聖霊はキリスト者の群れである教会に臨在され、教会を導かれるお方でもあるのです。教会は聖霊が住まわれる神殿です。ですから、偽の教えや罪によってこの聖なる神殿を「壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされる」とパウロは警告をしているのです。18節を見てみましょう。3:18 だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。「自分を欺いてはなりません」とあります。教会内の争は自分の知恵を誇ったり、みだりに指導者を裁いたりすることから起こっていますが、これはまさしく神をないがしろにした行為です。教会は神のものであり、神が支配しているという明確な真理にそむくとすれば、それは「自分を欺いて」しまっていることなのです。「あなたがたのだれかが」とあります。この世の中では、自分の愚かさに気が付かず、取るに足らない知恵を誇って傲慢に振舞う人がいます。しかし、神の宮である教会では、「あなたがたのだれ」でもそうであってはならないと警告をします。「本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。」とありますが、は諺の「大賢は愚なるが如し」(非常に賢い人は、自分の知恵をひけらかすようなことをしないから、一見愚かに見えるということ。)を思い起こさせます。19,20節を見てみましょう。3:19 この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、 3:20 また、/「主は知っておられる、/知恵のある者たちの論議がむなしいことを」とも書いてあります。パウロは旧約聖書から二か所引用して「この世の知恵は、神の前では愚かなもの」であることを断定します。「神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる」は旧約ヨブ記5章13節からの引用で、「主は知っておられる、/知恵のある者たちの論議がむなしいことを」は詩編94編11節からの引用です。確認をしてみましょう。ヨブ5:13 知恵ある者はさかしさの罠にかかり/よこしまな者はたくらんでも熟さない。詩編 94:11 主は知っておられる、人間の計らいを/それがいかに空しいかを。

③キリスト者はキリストのもの、キリストは神のもの

21-23節を見てみましょう。3:21 ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。 3:22 パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、 3:23 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。21節の前半に「だれも人間を誇ってはなりません。」とあります。人間の知恵など神の御前においては愚かなものにすぎないのですから、党派を作り争い合うことなど愚の骨頂です。続いて「すべては、あなたがたのものです。」とありますが、ここには力強い信仰者の光栄があります。パウロはローマの信徒への手紙で次のように述べています。PPT8章32節を開いてみましょう。 8:32 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。「すべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」は修辞疑問文ですので、真意は「すべてのものをわたしたちに賜る」です。ですから、「パウロ、アポロ、ケファ」を担いで派閥を作ることは愚かであると同時に無意味なのです。それは、「一切はあなたがたのもの」だからです。23節の前半に「あなたがたはキリストのもの」とあるように、キリスト者の全てのものは自分の修養や努力によって得られたものではなく、全てがキリストによるものなのです。ですから、キリストのみを主と仰ぎ、キリストのみを褒め称え、キリストに忠実な僕として生きるべきなのです。続いて、パウロは「キリストは神のもの」と述べいっさいの根源を明らかにし、全ては神に栄光を帰すべきであることを主張しているのです。キリストは神の独り子として、父なる神に従い仕えられました。わたしたちキリスト者はキリストに全き信仰を持って従い仕えることによって、神の子としての光栄を表しつつ、自由に歩むことが出来るのです。今日、最後に覚えて頂きたいことはキリスト者はキリストのもの、キリストは神のものということです。

Today’s Takeaways

①イエス・キリストが土台、②信仰をもって教会を建て上げる良質の材料で教会を建て上げる、③キリスト者はキリストのもの、キリストは神のもの

Thinking Time 

自分を欺いてはいませんか