• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年8月6日主日礼拝

説教題:成長させてくださるのは神 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一3章1-9節

◆神のために力を合わせて働く 3:1 兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。 3:2 わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。 3:3 相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。 3:4 ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。 3:5 アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。 3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。 3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。 3:8 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。 3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

ハレルヤ!8月の第一主日を迎えました。私たちの教会では、コリントの信徒への手紙一を講解で学んでいて、今日は六回目です。講壇交換と溝口先生に御言葉を取り次いで頂きましたので、二週間お休みとなりました。前回のおさらいから始めましょう。2章6-16節から「聖霊の働き~奥義が明らかにされた~」と題し三つの事を中心にお話をしました。①隠された奥義とは福音、②聖霊は恵みとして誰にでも与えられる、③聖霊により主の御心を知り、教えることが出来るでした。今日は続く3章1-16節を通し、「成長させてくださるのは神」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①キリストにある幼子

1節から見て参りましょう。3:1 兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。

「兄弟たち、」とあります。この呼びかけはパウロ書簡の特徴の一つです。手紙の受取人に勧告や叱責をする場合、いきなり本題に入らず、愛情表現をワンクッション的に用いているのです。丁寧に「愛する兄弟たち」と呼びかけている場合もあります。続いて、「霊の人」とあります。この手紙の2章15節でも使われていましたし、2章6節の「信仰に成熟した人」の意味です。しかし、悲しいかな多くのコリント教会の信徒は「霊の人」言える状態ではなく神の奥義について語ることが出来なかったのです。ですから、「肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するよう」に語ったのです。同段落PPT「キリストとの関係では乳飲み子」と訳されている部分は新改訳と口語訳では「キリストにある幼子」と訳されています。「キリストにある幼子」とは霊的に発育を遂げていない人ですが、「キリストにある」と形容されていることに希望があるのです。「幼子」ですがキリストにあるのです。キリストに繋がり素直に育てば円熟したキリスト者になり得るのです。今日、先ず覚えて頂きたいことはキリストにある幼子ということです。

2,3節を見てみましょう。3:2 わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。3:3 相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。子どもが誕生した時の親の喜びは格別のものだと思います。そして、親はその子が健全に育っていくことを願うものです。人間の赤ちゃんは生まれてから3ヵ月くらいまでは、1日中ミルクのみで過ごし、4ヵ月くらいから18ヶ月までの離乳食を経て徐々に普通の食事となります。パウロはこのことをコリントの信徒に当てはめて語るのです。「固い食物」とあります。霊的に幼稚な信徒に神の奥義である「固い食物」を与えて消化することはできません。ですから、「乳を飲ませ」たのです。「いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。」とありますので、パウロがコリントに初めて来たときから、今、この手紙を書いている時まで霊的な幼子がいたことがわかります。初回の講解説教でお話をしましたが、この手紙の執筆年代はAD54~57年頃と思われます。パウロがコリントに行き伝道をしたのがAD50年くらいですから、コリントの人たちの信仰歴は4~7年のはずなのですが、成長が止まってしまっていたのです。そのことの根拠が「お互いの間にねたみや争いが絶えない」状態だったのです。キリストを信じ聖霊を頂いた事と聖霊に満たされ成長をすることは別問題です。 19世紀の半ば頃アメリアで活躍をした不可知論者にロバート・グリーン・インガーソルという方がいます。不可知論とは「神の存在も非存在も、認識することは不可能であるという立場」です。ロバート・グリーン・インガーソルの父、ジョン・インガーソルは奴隷制度廃止主義者の牧師で、伯母さんは非常に敬虔で模範的なキリスト者でした。ある日インガソールは不可知論を主張した本を伯母さんに送る際、書き添えた手紙には次のように書かれていました。「もし、すべてのキリスト者が伯母さんのように立派なキリスト者であれば、この本は生まれなかったでしょう」と。独善的なキリスト者があまりにも多いので、不可知論を提唱せずにはいられないというのです。私たちは自分の人格や信仰生活を通して人を神に導くこともでき、逆に神への反対者を生じさせてしまうことにもなるのです。さて、私たちはどうでしょうか。未信者に躓きを与えたり、神への反対者を生じさせたりしてはいないでしょうか。心を探ってみようではありませんか。4節を見てみましょう。3:4 ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。

「わたしはパウロにつく」、「わたしはアポロに」とあります。既に1章12節で学んだように「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」とあるようにコリントの教会には四つの派閥があったのです。今の政治家の派閥による政権争いと同じです。パウロは再びこの派閥の問題を取り上げそのような人の事を「ただの人」と述べています。「ただの人」とは3節の「肉の人」を言い換えたものですが、注意をしなければならないことがあります。キリスト者は霊の人ですが、同時に、肉に属する者でもあるということです。ただの人、普通の人でありながら、かつ霊に捉えられている人間でもあるのです。肉体を持ちながら霊に属しているのです。ですから、霊に生きる者として、肉の思いに従おうとする思いを乗り越えなければならないのです。このことは開きませんが、ローマの信徒への手紙8章12-14節を読まれてください。5節を見てみましょう。3:5 アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。」とあります。政治の世界であれば、自分を担いでくれる方がいることは頼もしいことかもしれませんが、パウロはあなたがたが担ぎ上げようとしている指導者のことを「主がお与えになった分に応じて仕えた者」と断言します。牧師のことを英語でministerミニスターとも言います。ミニスターには大臣という意味もありますが、「大きな存在に仕える小さな(minus)人(-ter)」がこのこと言葉の語源です。仕える者という意味です。牧師は仕える者で担がれる者ではないのです。コリントの人々はこのことを理解していなかったのです。アポロやパウロが彼らを救ったわけではありません。アポロやパウロはキリストから与えられた賜物を活かして仕えただけなのです。彼らの知識もその弁舌も熱心さも、またこれらがもたらす結果も全てが神にあるのです。牧師や伝道者を含め全てのキリスト者はこれらの管理人にすぎないのです。

②成長させてくださるのは神

6,7節を見てみましょう。3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。 3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。」とあります。パウロはコリントで開拓伝道をしました。その後を引き継いだのがアポロです。このことは開きませんが、使徒言行録18章1-18節と使徒言行録18章24-28節に記されていますので、後ほどお読みください。アポロは有能で立派な伝道者でした。既に信仰を持った人に水を注ぐかのように霊的な糧を与えたのです。パウロとアポロは同じ目的のため、互いに一体となり働いたのです。彼らの働きは植える事と水を注ぐことでした。だだ、それだけです。「成長させてくださる神です。」とあるようにコリントの信徒を成長させたお方は神なのです。6節には「植え、注いだ、成長させ」という三つの動詞がありますが、原語のギリシャ語で見るととても大事なことがわかります。「植え、注いだ、」は原語の動詞は不定完了時制(アオリスト)ですので、その行為が終了しています。ですから、「パウロは植え終わった、アポロは水を注ぎ終わった」が原文の意味です。一方、「成長させ」は未完了時制です。ギリシャ語の未完了時制には英語の現在完了進行形と同じ働きがあります。ですから、「昔から成長させ続けてくださる神です。」が原文の意味で神の働きは継続していることがわかります。皆さんは大賀ハスをご存知でしょうか。明治から昭和にかけて活躍された大賀一郎という植物学博士(明治16年 – 昭和40年)がいます。1951年(昭和26年)、千葉県千葉市の落合遺跡で、発掘が行われ一人の女子生徒がハスの実を3粒発見しました。調査したところ2,000年以上前の古代のハスの実です。大賀博士はそのハスの実を受取り、1粒を発芽させ、翌年開花することに成功したのです。このニュースは国内外に報道され、米国の週刊誌に「世界最古の花・生命の復活」として掲載され「大賀ハス」と命名されたのです。ハスの実を発見させたのは一人の女子生徒です。発芽させたのは大賀博士です。しかし、このハスを作り、二千年以上も守り、日光を与え花を咲かしたのは一人の女子生徒でも大賀博士ではありません。神です。「大切なのは」パウロでもアポロでもありません。人間ではなく神のみが大切なのです。パウロとアポロは福音、愛と真理のメッセージを伝えるため神に用いられたにすぎないのです。ある教会のことですが、牧師が替わるたびに分派ができ教勢が減ったのです。このような状態では、牧師がどんなに立派な牧会をしていたといっても決して成功とは言えないでしょう。本当に成功をしたかどうかは、その牧師が去ってからの教会の歩みによって決まるのではないでしょうか。「人間崇拝は人類の病癖である」と聞いたことがありますが、人間は人間から崇拝されるべき存在ではなく、神を崇拝すべき存在なのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは成長させてくださるのは神ということです。

8節を見てみましょう。3:8 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。「植える者と水を注ぐ者」とあります。大きな教会には主任牧師、副牧師、協力牧師、伝道師という肩書の教役者の方がいます。これらは縦の関係ではなく横の関係です。牧会伝道上、異なる分野の責任を負っているのです。役割は異なりますが、目指すところは等しく、神の栄光を表しキリストの体なる教会の建て上げることです。「植える者と水を注ぐ者」同士は分離しているものではなく、また、決して、派閥の首領のごとくであってはならないのです。教役者は一つであり共同一致して働く人々なのです。教役者は一つ一つですが、「働きに応じて自分の報酬を受け取る」ものなのです。マタイによる福音書に記された「タラントンの例え」を簡単に要約しますと、主人が3人の僕にそれぞれ異なる量のタラントンを与え、それをどう運用するかを問いかけます。1人目と2人目は、与えられたタラントンを倍にしましたが、3人目はタラントンを使わず地中に隠してしまいました。主人は1人目と2人目を褒め、3人目を罰しました。このたとえ話は、与えられた賜物をどう活かすかを問いかけるものです。この報酬が地上で与えられる場合もあるでしょし、天にて与えられる場合もあるでしょう。また、両方の場合もあるかもしれませんが、神は各人の働きに応じて必ず報酬を与えてくださるのです。

③万物が主の物

9節を見てみましょう。3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。「神のために力を合わせて働く者」とありますが、口語訳聖書では「神の同労者」と訳されています。神の器として神に用いられる者は「神の同労者」です。神の目的に添って神と一緒に働く者です。パウロは自分もアポロも共に「神の同労者」と言います。しかし、牧師、伝道者だけが「神の同労者」なのではありません。信徒の一人一人も皆、教会の中にあっては「神の同労者」なのです。取るに足らない小さき私たちを「神の同労者」を読んでくださることとは、なんと恐れ多いことと思うかもしれませんが、同時に勇気、励ましが与えられることではないでしょうか。私たちは自分の仕事を自分ひとりでこなしているのではありません。私たちの仕事とは神の業への参加なのです。ですから、どんなに困難であっても神は必ず助けてくださり、導いてくださるものなのです。とあります。ある教団の教師委員長を務めていた方の著書に次のようにあります。「委員会では教会対牧師の問題を色々取り扱った。その時に痛感したことは、牧師が教会を私物化し、教会や付属幼稚園を自分の者と思い込んでしまうことが様々の問題を教会の中に生じさせるということである。教会は神の物であり、信徒も神の物なのです」と。パウロはコリントの教会のこともその信徒のことも自分の物とは毛頭思っていませんでした。「あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」とある通りです。ここでは教会が「神の畑、神の建物」に例えられていますが、畑は有機的に成長するものです。そのような神の教会を牧師が私有物のように思うのは大きな誤りです。最後にコロサイの信徒への手紙1章16節を見てみましょう。 1:16 天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。教会も牧師も信徒も含め万物が主の物なのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは万物が主の物ということです。

Today’s Takeaways ①キリストにある幼子、②成長させてくださるのは神、③万物が主の物

Thinking Time 肉の思いをどうしたら乗り越えられるでしょうか

ローマの信徒への手紙8章12-14節を読まれてください