• 千葉県八街市にある家族的な教会です

2023年9月17日 主日礼拝

説教題:教会を守るために 聖書箇所:コリントの信徒への手紙一5章1-13節

◆不道徳な人々との交際  5:1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。 5:2 それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。 5:3 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。 5:4 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、 5:5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。 5:6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。 5:7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。 5:8 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。 5:9 わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、 5:10 その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。 5:11 わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。 5:12 外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。 5:13 外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」

ハレルヤ!9月の第三主日を迎えました。私たちの教会では、コリントの信徒への手紙一を講解で学んでいて、今日はその十回目です。前回のおさらいから始めましょう。4章14-21節から「わたしに倣う者になりなさい」と題し三つの事を中心にお話をしました。①キリストに倣う、②キリストの臨在を認識する、③愛を持って悔い改めを促すでした。今日は続く5章1-13節を通し、「教会を守るために」と題しお話をします。ご一緒に学んで参りましょう。

①厳しい処分が必要な場合がある

パウロは教会内の派閥、分派の問題についてその原因となっている人間崇拝と奢り高ぶりを綴ってきましたが、悲しいことに問題はそれだけでなかったのです。不道徳、不品行の問題です。そして、コリントの人たちは良心がないかのようにこの問題に無関心でしたが、パウロはこのことに黙していることは出来なかったのです。1節から見てみましょう5:1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。「現に聞くところによると、」とありますが、疑い得ない事実について切り出します。分派、派閥の問題については 1:11 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。と固有名詞こそ出しませんが、争いの告発をした人を「クロエの家の人たち」と明言しています。告発者が特定されないための牧会的配慮でした。しかし、今日の箇所では誰から聞いたとも言っていません。これは牧会的配慮ではなく、誰もが知っている公然の事実だったからです。その公然の事実とは、コリントの信者の中に「ある人が父の妻をわがものとしている」という異教徒でさえ忌み嫌うほどの不品行です。「父の妻」とありますので、ある人の実母ではなく後妻かそばめのことだと思います。そして、この不品行は律法によって明確に禁じられていたのです。レビ記18:8を見てみましょう。 18:8 父の妻を犯してはならない。父を辱めることだからである。当時、コリントは港町として、商業都市として非常に栄えていましたが、同時の堕落しきった町でもありました。ギリシャ語で「コリンティア アゼッセイ」という言葉がりますが、その意味は堕落した人間になるとことです。コリントの町はこれほど堕落しきっていたのです。2節を見てみましょう5:2 それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。2節にはこの不品行に対するコリントの人々の態度とそれに対するパウロの指摘です。コリント教会の人々は、このような不道徳に対して無頓着であるばかりか「高ぶっている」のです。「悲しんで」訳された原語は「痛む」という意味が強い言葉です。ですから、問題を解決するためには痛みが伴いますが膿を出し切ってしまう必要があるのですが、「除外すべきではなかったのですか」とあるように不品行の罪を犯す人を除外していなかったのです。3節を見てみましょう5:3 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。「体では離れていても霊ではそこにいて」とあります。パウロはこの手紙を遠く離れたエフェソで書いています。直線距離で500 キロ弱です。しかし、パウロの心はいつもコリント教会とともにあり、問題の解決を日々祈っていると同時に、「そんなことをした者を既に裁いてしまっています。」とあるように、誰が何と言おうとも不品行をした人間には断固とした対応をするという覚悟が読み取れます。教会を守るために厳しい処分が必要な場合があるのです。今日、先ず覚えて頂きたいことは厳しい処分が必要な場合があるということです。

4,5節を見てみましょう5:4 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、 5:5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。「主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり」とありますがが、不品行の問題を話し合うために「主イエスの名」によって会議が開かれたのです。パウロは使徒の権威をもって自分一人だけで、この問題の処分を決めるのではなく、教会に集う皆の総意によって処分を決めるのです。「サタンに引き渡した」とあります。この世はサタンが支配しています。一方、神の国は神が支配される場です。救われるということはこの世から神が支配される場に移されることです。一度、神の国に救い出されたものが不品行を行っているならば、サタンが支配しているこの世に返すべきだというのです。また、この処分は「その肉が滅ぼされるように」とありますので、永続的なものと思うかもしれませんが、期間限定なものです。続く「主の日に彼の霊が救われるためです。」から分かります。主の日とは再臨のことです。不品行の罪を犯した人が再臨の時までに真摯に悔い改めて永遠の刑罰に合わないことと願い祈っていることが読み取れます。パウロは霊の救いに重点を置いているのです。昭和の時代、ある伝道者がホームレスの人を助けるためにリアカーを買って与えました。廃品回収をして社会復帰が出来ることを願ってのことです。ホームレスの方は真面目に働き収入を得ることが出来るようになりました。しかし、ゆとりが出来ると酒を飲んでは酔っ払い、以前の生活よりもひどくなってしまったのです。その伝道者は「肉体的な救い、物質的なものにしか目に留まらず、一番大切な霊の救いを怠っていた。肝心なキリストをその人の心にもたらすのを忘れていた」と述懐しています。

②個人の問題は教会全体の問題となり得る

6-8節でパウロは過ぎ越しの祭りに使う「種なしパン」の例を用いて教会の純粋性をかたります。6節を見てみましょう5:6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。教会内にこのような重大な問題があるにも関わらず、コリントの人たちはそれを除こうともせず、自分たちの取るに足りない知識を誇ってしまうありさまだったのです。そのことをパウロは「よくない。」と断罪するのです。「パン種」とありますが、イースト菌のことです。パン種、イースト菌は大きく膨れる素です。このことはガラテヤの信徒への手紙5章9節にも記されています。 5:9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。パウロはこのごく一部の人間の不品行でも、その問題をそのままにしておいたら教会全体が腐敗していくことになってしまうことを警告しているのです。今日、二番目に覚えて頂きたいことは個人の問題は教会全体の問題となり得るということです。7,8節を見てみましょう5:7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。5:8 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。「古いパン種」とありますが、回心する前の悪習慣や自分自身の努力のことです。パウロはこれらを「取り除きなさい。」と命じるのです。その理由が「パン種の入っていない者」だからです。古いパン種」を取り除くことと「パン種の入っていない者」とは整合性がないと思うかもしれません。そもそもパン種がないので取り除く必要はないと思うでしょう。お金を持っていない人にお金を捨てろと言うのとお同じではないかと思うかもしれません。しかし、決して矛盾しているわけではありません。キリスト者とはキリストにあって「パン種」のない者、つまり罪赦された者です。人はイエス・キリストを救い主として受け入れた瞬間から聖霊なる神様が内に宿り聖なる生活が始まります。神学用語で言えば聖化です。聖化の開始ですので、罪を全く犯さなくなるわけではありません。聖化の完成は再臨の時なのです。ですから、この世にあっては「古いパン種」を取り除くことが求められるのです。「新しい練り粉」とは主イエスが十字架に掛けられ三日後の復活によってもたらされた福音のことです。そのことを「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。」とパウロは語るのです。過ぎ越しの祭りは、昔、ユダヤ民族がモーセに率いられてエジプトから脱して約束の地に導かれたことを記念する祭りです。エジプトから解放されるとき、ユダヤ民族は小羊を屠ってその地をかもい塗ったのです。その夜、天の使いが来て、小羊の血が塗ってある家は通り過ぎ、そうでない家の初子は打ち殺されたのです。このことは開きませんが、出エジプト記12章に記されています。この出来事に由来する祭りが過ぎ越しの祭りです。過ぎ越しの祭りはパン種が入れられていないパンで一週間守られました。しかし、キリストのあって生まれ変わったキリスト者の生涯とは一生、種なしのパンで守られることが求められるのです。堕落、邪悪から脱し聖潔と真実な生涯を目指すべきなのです。そのことが、8節にある「純粋で真実のパンで過越祭おう」なのです。

③厳しい処分は愛すればこそ

9,10節を見てみましょう5:9 わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、 5:10 その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。「わたしは以前手紙で」とありますので、パウロはこの手紙の前にも手紙を書いたことがわかります。その手紙は今日に至るまで発見されておらず、失われた手紙の一つです。この手紙の7章1節には次のように記されています。 7:1 そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。この箇所から手紙のやり取りがあったことがわかります。以前に記した手紙の内容は「みだらな者と交際してはいけないと」と注意をしていましたが、誤解を与えてしまったのです。それが、「この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。」です。パウロはこうした人たちと一切交際をしてはならないとは言っていないのです。もし、そうであれば、この世から離れて修道院に入るより他はありません。生業を営み、生活をしていくためには、この世の人々とかかわりを持たなければならない場合があるのです。今日、私たちの生きる社会はコリントのような状態です。大都市だけではありません。小都市も農村地域も人間がいるところ全てコリントのような状態です。キリストはこの社会から逃避をする者ではありません。コリントのような世の中に生き、悪しきものと戦いつつ、神の栄光を現わすのです。11節を見てみましょう5:11 わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。「兄弟と呼ばれる人」とありますが、その意味は、キリスト者でありながらこのように堕落、腐敗している者です。パウロは、そういう人たちと交わってはいけない、「一緒に食事もするな」と語ります。一緒に食事をすることで親密さが増すからです。「人を悪く言う者、酒におぼれる者」とありますが、この世の価値観からすればありふれたことでたいしたことではないかもしれません。私も昔、仕事が終わると毎晩のように飲みに行き、酔いに任せて上司の悪口を言っていたものです。しかし悪口や泥酔はキリスト者としては立派な罪なのです。パウロがこの9-11節で述べてきたことは未信者には寛容であり、キリスト者には尊厳であるよう求めているのです。他人の子が誤っても寛容ですがが、自分の子どもの場合は厳しくすると同じです。愛すればこその厳しさなのです。今日、最後に覚えて頂きたいことは厳しい処分は愛すればこそということです。

12,13節を見てみましょう。5:12 外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。 5:13 外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」「外部の人々」「内部の人々」との対比です。「外部の人々」とは未信者のことで、「内部の人々」とはコリント教会の信者の意味です。ここでは、パウロはコリント教会外での罪を問うてはいません。そのことは「神がお裁きになります」というのです。パウロが問題視しているのはコリント教会の信者で、彼らこそ「裁くべきではありませんか。」と断罪をするのです。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」とありますが、この不品行を行う者への結論です。今日でいえば所属教会からの除名です。私は18年前に洗礼を受け、10年前から牧師をしますので、信仰歴はそう長くはありませんが、母教会から現在に至るまで直接、除名された信徒の方はいません。最後にヨハネによる福音書17章15節を開いてみましょう。PT 17:15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。主イエスは弟子のため、このように祈ったのです。そして、主イエス今日も神の右におられ、わたしたちが悪しきものから守られるよう、執り成しの祈りをしてくださっているのです。主の執り成しの祈りに感謝しつつ、私たちも教会と私たち自身が悪しきものから守られるよう祈り続けましょう。

Today’s Takeaways

①厳しい処分が必要な場合がある、②個人の問題は教会全体の問題となり得る、③厳しい処分は愛すればこそ

Thinking Time 

大目にしている罪はありませんか